キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

日日に新たに

2007-01-24 00:33:13 | 人生の慰め
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント書Ⅱ5-17)



昔、殷の湯王は、昨日よりも今日、今日よりも明日の行いが正しくなるように、

下記の言葉を自誡の句として、洗面の器に彫り付けていたという。

「日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」(「大学」)

絶えず行状において向上せんと欲する真摯な態度が、

よく伝わってくる言葉だ。

キリスト者も同じである。

いや、キリストという罪なき人間を崇拝するが故に、

キリスト者こそ、かかる願望を大量に有しているのである。

「昨日の自分はキリストの精神に反する行為をしてしまった、

だから今日こそは、少しでも彼に近づきたい」

そのようにして、キリスト者は、殷の湯王や中国の聖賢以上に、

己に峻厳な倫理を課するのである。


しかし、これも随分難しい問題である。

私の実験より判断すれば、昨日の行状を後悔しても、

今日もまた同じ過ちを繰り返すのである。

後悔しては決意し、決意しては後悔し、日日同じことを繰り返し、

刀折れ矢尽きて、キリストに義とされた者が自分の行状を理由に、

主から離れる可能性がある・・・。

如何にしてキリスト者は、かかる倫理的煩悶を解決すればよいのだろうか?


人間には誰しも、一生付き合わねばならぬ友人がいる。

それは、己の性格である。別名、心の傾向性である。

あの人・この人は離れ去っても、自分の性格のみは、

最後の最後まで連れ添わねばならないのである。

臆病な性格も、無思慮な性格も、攻撃的な性格も、小心な性格も、

おっちょこちょいな性格も、石橋を叩いても渡らない性格も、

それがたとえどんな性格であれ、自分の性格とは別れることができない。

厳格な倫理を自分に課する者であればあるほど、

かかる自分の性格に失望するのである。


誰も、自分の性格を変えることはできない。

どんな思想も、どんな規則も、どんな欲求も、

自分の性格を変えることはできない。

しかし主のみは、我らの性格を質的に変化させることができる。

私は個人的経験と聖書の記事によって、そのことを確信する。

私の如き頑固で、攻撃的で、反抗的な性格でさえ、

回心してより7年間で、徐々に徐々に変質させて下さった。

これ、私の内省の力ではなく、年月の威力でもなく、

実に実に主の力であると思う。

ボアネルゲ(雷の子)とあだ名されるほど激情型のヨハネを、

イエスは愛の使徒に変え給うた。

おっちょこちょいで軽率なペテロを、

イエスは教会の柱石に変え給うた。

生来臆病者のルターを、

イエスは欧州の改革者に変え給うた。


日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり。

我らはイエスの中に没入することによって、

殷の湯王の理想を成就することができるのである。

実に感謝である。



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