私はいのちをいといます。
私はいつまでも生きたくはありません。
私にかまわないでください。
私の日々はむなしいものです。(ヨブ記7-16)
私は、いつも朝目覚めて思う。
今日はしっかり義務を果たす一日でありたい、と。
仕事を誠実に果たし、子どもに一生懸命関与し、
ブログを掲載し、自分の意見を発表するため本を執筆し、
無我夢中で働いてクタクタになり、
今日も何の成果もなかったことを悔やむ。
「ああ、今日も無益な一日を終えた」
一日の終わりは、いつもそう思う。
働いても働いても、接しても接しても、
書いても書いても、何の成果も称賛もない。
時々、そんな日々の積み重ねに、
刀折れ矢尽きて、死にたくなることもある・・・。
漠然とした不安、日々の不満足、憂鬱な人生、
そういった私の中の闇が、疲れれば疲れるほど、
いろいろな悪念をもって私を誘惑する。
人間というものは、非合理的な存在だ。
イエス・キリストによって救われたことを実感しても、
私の中の心の闇は、いつもいつも私を誘惑するのである。
いや、ますます熾烈さを増して、
私の耳元でささやくのである。
時々、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなることがある。
ある時は、周囲の人々がみな天使に見え、
ある時は、周囲の人々がみな悪魔に見える。
ある時は、人生とは歓喜であると実感し、
ある時は、人生とは苦悩の連続であると痛感する。
何がなんだか、さっぱりわからない。
しかし一つだけ確かなことがある。
この一つの事実が、非合理的な私の闇を照らし、
私は、今もこうして生きていくことができる。
この一つの事実がなければ、私は私の人生に失望する他はない。
この一つの事実がなければ、私は日本の将来に絶望するしかない。
それは下記の事実である。
「神は愛です」(ヨハネ書Ⅰ4-16)
言葉は簡単である、しかしその意味はきわめて深遠である。
この一大事実なくして、
人間はこの非合理的な人生を生きていくことはできないと思う。
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私はいつまでも生きたくはありません。
私にかまわないでください。
私の日々はむなしいものです。(ヨブ記7-16)
私は、いつも朝目覚めて思う。
今日はしっかり義務を果たす一日でありたい、と。
仕事を誠実に果たし、子どもに一生懸命関与し、
ブログを掲載し、自分の意見を発表するため本を執筆し、
無我夢中で働いてクタクタになり、
今日も何の成果もなかったことを悔やむ。
「ああ、今日も無益な一日を終えた」
一日の終わりは、いつもそう思う。
働いても働いても、接しても接しても、
書いても書いても、何の成果も称賛もない。
時々、そんな日々の積み重ねに、
刀折れ矢尽きて、死にたくなることもある・・・。
漠然とした不安、日々の不満足、憂鬱な人生、
そういった私の中の闇が、疲れれば疲れるほど、
いろいろな悪念をもって私を誘惑する。
人間というものは、非合理的な存在だ。
イエス・キリストによって救われたことを実感しても、
私の中の心の闇は、いつもいつも私を誘惑するのである。
いや、ますます熾烈さを増して、
私の耳元でささやくのである。
時々、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなることがある。
ある時は、周囲の人々がみな天使に見え、
ある時は、周囲の人々がみな悪魔に見える。
ある時は、人生とは歓喜であると実感し、
ある時は、人生とは苦悩の連続であると痛感する。
何がなんだか、さっぱりわからない。
しかし一つだけ確かなことがある。
この一つの事実が、非合理的な私の闇を照らし、
私は、今もこうして生きていくことができる。
この一つの事実がなければ、私は私の人生に失望する他はない。
この一つの事実がなければ、私は日本の将来に絶望するしかない。
それは下記の事実である。
「神は愛です」(ヨハネ書Ⅰ4-16)
言葉は簡単である、しかしその意味はきわめて深遠である。
この一大事実なくして、
人間はこの非合理的な人生を生きていくことはできないと思う。
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宮内さんは御自身のペースをつかんでおられる方と思いますので、それこそ「気の向いたら」で、ごゆるりとなさってくださいね。
エステルさん、はじめまして。
教会が、それも教会学校がヒルティを配るだなんて、いやーシュールだなー、と思います。
今後ともよろしくお願いします。
「日本社会への警告」は毎日更新しようと思っているのですが、「キリスト者の慰め」は時々更新しようと考えています。ですから気が向いたら更新するようにしていますので、あまりご心配頂かなくても大丈夫ですよ。(笑)
そうですね、見習いたいと思います。
ありがとうございます。
ヒルティの幸福論。子供の頃、教会学校に通っていて、何故か、皆勤賞ですからと
言われて、その賞品として、いただいて、
読んだ記憶があります。
もちろん、その時に読んだのは、子供向けに
易しくアレンジした幸福論でしたが、
充分大人(?)になった今、改めて
岩波文庫の3分冊を読んでみたいです。
たしか、3冊あるんでしたよね?
ちなみに、私はある事情もあって、
大学の法学部にも在籍しており、
ヒルティが法律家であったことも
先日知り、なおさら興味が尽きません。
この様な私ですが、皆様、よろしく
ご教示くださいませ。
それと、どうぞ、心身共に
ご自愛くださいませ。お祈りしております。
ありがとうございます。
ご心労お察しします。そしてお辛いことと思います。
「神は愛なり。」
そうです、それが故に、正に愛するが故に試練を与えてくださるお方です
(ヘブル12:5-11、まあ、この箇所は「罪との戦い」についての文脈のように思いますが。)
スイスの法律屋ヒルティも書いています。
「多くの苦しみを受けること、これは避けられないものだ。だから、甘んじてそれに従いなさい。」
「人生の幸福は、困難に出会うことが少ないとか、全くないとかいうことにあるのではなくて、むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある。
力というものは、弱点にうち勝つ習練から生じるのである。」
「どんな幸福な生活にも起こる数多くの試練や心労を、堪えがたい重荷と考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのである。」
あと、およそ苦難に遭わない人というのは、神から完全に見捨てられたヤツだという旨も、どこかで書いています。
(上記引用は、「眠られぬ夜のために 岩波文庫より)
彼は法律屋の人生を全うするわけですが、その中このような「倫理?」を持ち続けて職務を遂行し続けました。
「クライアントのためならば、白を黒というのもへーきのへの世界」。
すると、もう当然にして「幸福論」(岩波文庫)という本、これはもう、書くべくして書いたのだと思います。
彼は、繰り返し、「教会制度」を批判していることを付記します。
少しペースダウンして、力を蓄積することも大切ですよ。
ですので、コメントへの回答や、またブログ自体も、まあ、二の次くらいの位置に置いておくのも、いいのではないでしょうか。
「体あってこそ、書ける」わけですからね。
そうですね、「神は愛なり。」ほんとにそうですね。
だからこそ、なおのことご自愛下さいね。
私も社会人かつ夫があります。
Eliyahさんのよう思う事、ほぼ
毎日です。空しいけど、『神は愛です』
がなければ、何のために生きているのか
解らない。
話は変わりますが、私は東京都在住の者
で、横浜で開かれている星野富弘・詩画展
に行ってきました。星野さんのことは
知っていましたが、原画を見たのは
初めてでした。星野さんの絵を表紙にした
新改訳の新約聖書(@400!)を買いました。
これをカバンに入れておいて、日々
少しずつでも聖書に触れ、『神は愛です』
を生きたいです。
涙の谷、の人生。星野さんも生きているのが
辛いのだと、素直に言いつつ、それでも
感謝を忘れない人生を送っておられます。
私共も、見習おうではありませんか!