私たちの大祭司は、
私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル書4-15)
人間は、何かに頼らなければ生きていけない。
完全独立な人間であることを目指して、
人はニーチェのように発狂せざるを得ないのである。
この不条理な人生において、我らを慰める者は誰か?
家族か?友人か?同僚か?恋人か?事業か?思想か?
否、否、否。
どんなものでも、ある程度は、我らを慰めることができる。
しかしどんなものも、すべてを慰めることはできない。
事業の失敗に同情できる人はいる、
しかしその人は、家族の離散に同情できるだろうか?
恋の失敗に同情できる人はいる、
しかしその人は、夫婦のすれ違いに同情できるだろうか?
人はみな、自分と同じ境遇の者を慰めることができる。
しかし自分と異なる苦悩を、理解することはできない。
しかしイエスは、すべての者を慰めることができる。
キリスト教は慰めることができないかもしれない、
しかしキリスト御自身は、我らをいつでも慰めることができる。
彼はプラトンのように貴族階級の出身ではなかった。
であるから、出自の低い者を慰めることができる。
彼はアレキサンダーのように事業の成功者ではなかった。
であるから、仕事に失敗する者を慰めることができる。
彼はモーゼのように一流の学問を修めた者ではなかった。
であるから、学歴のない者でも慰めることができる。
彼は釈迦のように称賛されて死んだ者ではなかった。
であるから、友人がいない者をも慰めることができる。
人間はみな、何かに頼らなければ生きていけない存在である。
そして人間は、神にのみ頼るべき存在である。
それを神以外の者に頼るから、すべての病理的現象が人を襲うのである。
私は、キリストに頼ろう。
彼に頼って、彼に慰められ、この不条理な人生を生きていこう。
永遠の岩に頼るのである、これほど人に勇気を与えるものはない。
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私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル書4-15)
人間は、何かに頼らなければ生きていけない。
完全独立な人間であることを目指して、
人はニーチェのように発狂せざるを得ないのである。
この不条理な人生において、我らを慰める者は誰か?
家族か?友人か?同僚か?恋人か?事業か?思想か?
否、否、否。
どんなものでも、ある程度は、我らを慰めることができる。
しかしどんなものも、すべてを慰めることはできない。
事業の失敗に同情できる人はいる、
しかしその人は、家族の離散に同情できるだろうか?
恋の失敗に同情できる人はいる、
しかしその人は、夫婦のすれ違いに同情できるだろうか?
人はみな、自分と同じ境遇の者を慰めることができる。
しかし自分と異なる苦悩を、理解することはできない。
しかしイエスは、すべての者を慰めることができる。
キリスト教は慰めることができないかもしれない、
しかしキリスト御自身は、我らをいつでも慰めることができる。
彼はプラトンのように貴族階級の出身ではなかった。
であるから、出自の低い者を慰めることができる。
彼はアレキサンダーのように事業の成功者ではなかった。
であるから、仕事に失敗する者を慰めることができる。
彼はモーゼのように一流の学問を修めた者ではなかった。
であるから、学歴のない者でも慰めることができる。
彼は釈迦のように称賛されて死んだ者ではなかった。
であるから、友人がいない者をも慰めることができる。
人間はみな、何かに頼らなければ生きていけない存在である。
そして人間は、神にのみ頼るべき存在である。
それを神以外の者に頼るから、すべての病理的現象が人を襲うのである。
私は、キリストに頼ろう。
彼に頼って、彼に慰められ、この不条理な人生を生きていこう。
永遠の岩に頼るのである、これほど人に勇気を与えるものはない。
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思います。
さて。別件ですが、
>予定論に関しては、私はバルトに賛成です。
私は先日、J.カルヴァン(清水書院から出てる、短い人物紹介の本)を読み、ようやくプロテスタントの何たるかを知り始め、バルトについても読み始めています。バルトってそんなにすごいんですか?キリスト教綱要も買い求めました。
いろいろ、研究を深めて生きたいと思います。…なんにも知らないですが、ここの
ブログからたくさんの事を勉強させていただきたいと思います。
3年ほど前に、軽井沢の内村鑑三教会へ
行ったことがあります。彼が愛用していた英語の聖書は未だ 記憶に残っています。
主の祝福が豊かにありますように。
ありがとうございました。
私は神学者ではありませんし、あまり詳しいことはわかりませんが、カール・バルトは素晴らしいと思っております。
彼の「ローマ書講解」(平凡社)によって、私はキリスト教ではなくキリストこそ真理であると確認することができました。また彼の「和解論」(新教出版社)によって、キリスト者はキリストに集中することが必要なのだと実感しました。私にとっては、内村鑑三とともに、大きな学びを与えてくれた存在であります。
なお、予定論に関しては、「創造論」(新教出版社)で触れていたと思います。
ロマ書講解、和解論、創造論。
難しそうですが、近い将来
読んでみようと思います。