私が初めて読んだ聖書は新改訳だったが、
どうやら誤訳が多いということで、ある時新共同訳に変えた。
しかし新共同訳にも誤訳があるということで、
昨年より英訳に変えた。
しかし英訳にも誤訳があるということで、
それならばいっそのこと原語で読もうと思い、
辞書があれば何とか読めるようになった。
今年に入ってヨハネ伝を読み始め、やっと5章までを読み終えたところだが、
なるほど誤訳が多い。
しかし最大の誤訳は、個々の言葉の意味にあらずして、
全体に流れる雰囲気だと思う。
使徒ヨハネが伝えようとしたイエスとこの世の対立を、
何か曖昧な表現に変えてしまっていることだ。
「光は闇の中に輝いている」
使徒ヨハネの言い分よりすれば、
イエス以外の存在は、すべて闇の支配下にあるものである。
「この方に人の生命があった」
使徒ヨハネにとってみれば、
人類とは自分たちの生命をイエスに持っているが、
致命的なほどにそれに気づかない存在である。
マリアとの問答も、ニコデモとの会話も、サマリアの女への説教も、
母との対話、教師との対話、異邦人との対話としてみる以上に、
光と闇、神と人類が、いかに対立したかという視点で読まねばならぬ。
まだ読み始めたばかりであるが、そういうことを感じた次第である。
かつてバルトは、あの重要な著作であるローマ書第二版の序言において、
聖書がこの世にとって異質な、未知なるものであると告白したが、
小なる私も、慣れ親しんだ日本語訳聖書と多くの神学書を置いて、
ただただヨハネが語った言葉を読み込むとき、同様の感想を持たざるをえない。
そして、ヨハネが指し示し伝えようとしたこのイエスから、
なぜゆえ、キリスト教及びキリスト教的文化・文明が胚胎したのか、
まるでわからなくなるのである。
この書は実に、人の霊魂を癒す蜜であると同時に悲哀の書である。
イエスを理解せず、イエスに対立し、イエスを殺したのは、
パリサイ人でも律法学者でも、ユダでもユダヤ人でもなく、
他ならぬ自分も含めた、今ある人類そのものであるとわかったとき、
この書は闇の中で輝き出す。
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どうやら誤訳が多いということで、ある時新共同訳に変えた。
しかし新共同訳にも誤訳があるということで、
昨年より英訳に変えた。
しかし英訳にも誤訳があるということで、
それならばいっそのこと原語で読もうと思い、
辞書があれば何とか読めるようになった。
今年に入ってヨハネ伝を読み始め、やっと5章までを読み終えたところだが、
なるほど誤訳が多い。
しかし最大の誤訳は、個々の言葉の意味にあらずして、
全体に流れる雰囲気だと思う。
使徒ヨハネが伝えようとしたイエスとこの世の対立を、
何か曖昧な表現に変えてしまっていることだ。
「光は闇の中に輝いている」
使徒ヨハネの言い分よりすれば、
イエス以外の存在は、すべて闇の支配下にあるものである。
「この方に人の生命があった」
使徒ヨハネにとってみれば、
人類とは自分たちの生命をイエスに持っているが、
致命的なほどにそれに気づかない存在である。
マリアとの問答も、ニコデモとの会話も、サマリアの女への説教も、
母との対話、教師との対話、異邦人との対話としてみる以上に、
光と闇、神と人類が、いかに対立したかという視点で読まねばならぬ。
まだ読み始めたばかりであるが、そういうことを感じた次第である。
かつてバルトは、あの重要な著作であるローマ書第二版の序言において、
聖書がこの世にとって異質な、未知なるものであると告白したが、
小なる私も、慣れ親しんだ日本語訳聖書と多くの神学書を置いて、
ただただヨハネが語った言葉を読み込むとき、同様の感想を持たざるをえない。
そして、ヨハネが指し示し伝えようとしたこのイエスから、
なぜゆえ、キリスト教及びキリスト教的文化・文明が胚胎したのか、
まるでわからなくなるのである。
この書は実に、人の霊魂を癒す蜜であると同時に悲哀の書である。
イエスを理解せず、イエスに対立し、イエスを殺したのは、
パリサイ人でも律法学者でも、ユダでもユダヤ人でもなく、
他ならぬ自分も含めた、今ある人類そのものであるとわかったとき、
この書は闇の中で輝き出す。
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