キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

異質なもの、未知なもの

2009-01-23 01:55:49 | 聖書原典研究(ヨハネ文書)
私が初めて読んだ聖書は新改訳だったが、

どうやら誤訳が多いということで、ある時新共同訳に変えた。

しかし新共同訳にも誤訳があるということで、

昨年より英訳に変えた。

しかし英訳にも誤訳があるということで、

それならばいっそのこと原語で読もうと思い、

辞書があれば何とか読めるようになった。

今年に入ってヨハネ伝を読み始め、やっと5章までを読み終えたところだが、

なるほど誤訳が多い。

しかし最大の誤訳は、個々の言葉の意味にあらずして、

全体に流れる雰囲気だと思う。

使徒ヨハネが伝えようとしたイエスとこの世の対立を、

何か曖昧な表現に変えてしまっていることだ。

「光は闇の中に輝いている」

使徒ヨハネの言い分よりすれば、

イエス以外の存在は、すべて闇の支配下にあるものである。

「この方に人の生命があった」

使徒ヨハネにとってみれば、

人類とは自分たちの生命をイエスに持っているが、

致命的なほどにそれに気づかない存在である。

マリアとの問答も、ニコデモとの会話も、サマリアの女への説教も、

母との対話、教師との対話、異邦人との対話としてみる以上に、

光と闇、神と人類が、いかに対立したかという視点で読まねばならぬ。

まだ読み始めたばかりであるが、そういうことを感じた次第である。


かつてバルトは、あの重要な著作であるローマ書第二版の序言において、

聖書がこの世にとって異質な、未知なるものであると告白したが、

小なる私も、慣れ親しんだ日本語訳聖書と多くの神学書を置いて、

ただただヨハネが語った言葉を読み込むとき、同様の感想を持たざるをえない。

そして、ヨハネが指し示し伝えようとしたこのイエスから、

なぜゆえ、キリスト教及びキリスト教的文化・文明が胚胎したのか、

まるでわからなくなるのである。


この書は実に、人の霊魂を癒す蜜であると同時に悲哀の書である。

イエスを理解せず、イエスに対立し、イエスを殺したのは、

パリサイ人でも律法学者でも、ユダでもユダヤ人でもなく、

他ならぬ自分も含めた、今ある人類そのものであるとわかったとき、

この書は闇の中で輝き出す。



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