聖書を原語で読み始めてから、やっと「最後の晩餐」までを読了する。
原典聖書を研究することの意義は、日本語・英語によっては知りえない原語の意味を、
より正確に知りえることである。
ましてや、コイネーギリシャ語は宗教・思想的表現に豊富であり、
それに比べて日本語は哲学的語句に貧困であるから、なおさらである。
しかし、原語で聖書を研究することの大なる利益は、
より深く精読できるということである。
ある作家が熟読の訓練をするために翻訳本を原語で読むのを自分に課しているというが、
普段使い慣れている言葉を離れる時、人はどうしてもじっくり考えに考えつつ、
読まざるを得なくなる。
そうして、スピードは遅いが著者の言葉に肉迫することによって、
著者の主張したいことが、じわじわと心に響いてくるのだ。
原語で聖書を研究することの意義は、ここにあるのだと思う。
ヨハネ福音書を中途まで読んで気づくことは、
福音書記者ヨハネが引用する旧約の聖句が、
日本語訳聖書に記載されるような浅薄な引用なのではなく、
ヨハネ自身の主張がかなり色濃く反映されていることである。
ヨハネは70人訳聖書を引用する際、そのまま引用するのではなく、
時制や語順・単語の入れ替えを通して、イエスという人物を描き出す。
ナタナエル召名での創世記の引用、神殿潔めでの詩篇の引用、
ニコデモ問答での民数記の引用、さらには、最後の晩餐でのイザヤ書の引用。
私にとって「荒野の蛇」は、イエスの十字架の死とともに復活、
さらには終末論的な再臨をも暗示しているように思えてならない。
イエスが十字架に上げられ、それを仰ぎみる者は救われる予告のみではなく、
イエスがこの地において地位を上げられ、神の支配が成就する予言をも暗示しているように思えてならない。
(霊と肉の対立の説教は、かかる延長線を持っている)
どちらにせよ、ヨハネ福音書(聖書)は、
真の姿を発見されるのを待っているように思えてならない。
原典聖書を研究することの意義は、日本語・英語によっては知りえない原語の意味を、
より正確に知りえることである。
ましてや、コイネーギリシャ語は宗教・思想的表現に豊富であり、
それに比べて日本語は哲学的語句に貧困であるから、なおさらである。
しかし、原語で聖書を研究することの大なる利益は、
より深く精読できるということである。
ある作家が熟読の訓練をするために翻訳本を原語で読むのを自分に課しているというが、
普段使い慣れている言葉を離れる時、人はどうしてもじっくり考えに考えつつ、
読まざるを得なくなる。
そうして、スピードは遅いが著者の言葉に肉迫することによって、
著者の主張したいことが、じわじわと心に響いてくるのだ。
原語で聖書を研究することの意義は、ここにあるのだと思う。
ヨハネ福音書を中途まで読んで気づくことは、
福音書記者ヨハネが引用する旧約の聖句が、
日本語訳聖書に記載されるような浅薄な引用なのではなく、
ヨハネ自身の主張がかなり色濃く反映されていることである。
ヨハネは70人訳聖書を引用する際、そのまま引用するのではなく、
時制や語順・単語の入れ替えを通して、イエスという人物を描き出す。
ナタナエル召名での創世記の引用、神殿潔めでの詩篇の引用、
ニコデモ問答での民数記の引用、さらには、最後の晩餐でのイザヤ書の引用。
私にとって「荒野の蛇」は、イエスの十字架の死とともに復活、
さらには終末論的な再臨をも暗示しているように思えてならない。
イエスが十字架に上げられ、それを仰ぎみる者は救われる予告のみではなく、
イエスがこの地において地位を上げられ、神の支配が成就する予言をも暗示しているように思えてならない。
(霊と肉の対立の説教は、かかる延長線を持っている)
どちらにせよ、ヨハネ福音書(聖書)は、
真の姿を発見されるのを待っているように思えてならない。
大変ご無沙汰しております。
聖書原点通読と翻訳通読をこの世に例えてみるならば、薄っぺらい新聞記事やNHK報道記事で満足するか、ネットで様々な知識を直に得て確信に迫るという程の違いがあると思いますね。
聖書原点通読により頑強な土台作りをしたいものです。
これからも気軽に意見交換をしていきましょう。それこそまさしく主にある「教会」ではないでしょうか。
銚子市立病院の問題について、ご意見をもう一つのブログに投稿されることを希望します。
では、また。
主にある教会へ。
アーメン。