キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

鋭い対立

2009-07-12 16:55:55 | 聖書原典研究(ヨハネ文書)
「わたしはある」ということを信じないのであれば、
あなた方は罪のうちに死ぬことになる。
「あなたは一体どなたですか?」
「わたしはあなた方について、語るべきこと裁くべきことがある」
(ヨハネ福音書8-24~26/新共同訳)



翻訳された聖書を読む際に、最も注意せねばならないことは、

訳者が翻訳する際に、自分の先入観を混入させることである。

その良き例が、上記の聖句である。


「文字上」においては、すなわち、原語をギリシャ語から日本語に移し変える

という意味では、明確な誤訳ではない。

しかし、単に右から左に移し変えることによって、

前後の文脈における独特の意味を見逃し、

自然に(しかも善意をもって)、聖句を曲げていくのである。


「わたしはある(εγω εiμi:エゴー・エイミ)」というイエスの言葉は、

旧約的意味においては、「わたしは神だ」ということを意味する。
(出エジプト記3-14、イザヤ書)

また、「あなたはどなたですか?(συ τis εi;:スー・ティス・エイ)」

というユダヤ人の反応は、あなた(συ)が強調されていることから、

「お前は何様だ!?」という反抗的態度にとるほうがよい。

さらには、「わたしはあなた方に語るべきこと裁くべきことがある」の、

「語るべきこと」と「裁くべきこと」の間にあるkαi(カイ)は、

非常に内容の豊富な表現である。

「そして」とも「然るに」とも「すなわち」とも訳せる表現である。

「そして」と訳せば並列的関係になるし、

「然るに」と訳せば逆説的要素が含まれるし、

「すなわち」と訳せば内容規定となる。

徐々に鋭くなるイエスとユダヤ人の対立を考えれば、

「すなわち」と訳すべきものである。

以上によって、全体を訳しなおせば、下記のようになる。


「わたしは神だ」ということを信じないのであれば、
あなた方は罪のうちに死ぬことになる。
「お前は何様だ!?」
「わたしはあなた方について、語るべき多くのことがある。
しかしそれは裁きとなる!」
(ヨハネ福音書8-24~26/私訳)


鋭い対立である。ユダヤ人の憎悪と、イエスの断固とした態度が、

ひしひしと感じられる部分である。

この箇所以外でも、イエスとユダヤ人の抜きさしならぬ対立が、

そこかしこにあるが、なぜかその対立は上手く表現されていない。

イエスの痛烈な皮肉(9-39)も、弟子の無理解(4-48)も、権力側の怒り(18-38)も、

なぜか曖昧なものとなっているのである。

「イエス様は愛である」という、言葉として事実であるが、

陳腐な先入観が目を暗まし、イエスとこの世との絶望的な対立が見えないのである。


私は、原語(ネストレ=アーラント)を読まなければ、

聖書は決して理解できないとは決して思わない。

たとえ高度な言語学的知識を持とうとも、

たとえ聖句を暗記するほど知っていても、

イエス・キリストを知ることは決してできないからだ。

神がイエスを啓示する、人の努力ではない。

人の努力が無駄だと言いたいのではない、

啓示に対して、人間の努力云々は次元が違う、ということを言いたい。


しかしなるべくならば、人は原語から読めた方がよいと思う。

日本語訳聖書においても、人間は罪人であり、

イエスは神の恩恵であることを知ることができる。

しかし原語聖書において知りえることは、

人間は「絶望的に」罪人であり、イエスは神の「圧倒的な」恩恵であるということだ。

かかる事実を知るとき、もはや「自分が罪人である」ということを嘆く自分の謙虚さでさえ、

イエスに反抗する傲慢として罰せられている。

さらには、ローマ書14章に記載されているように、

「自分は愛する隣人を救いたい」という最後の欲求でさえ、

神の姿を捨てて肉となり十字架に上ったイエスの前で、

恐るべき最後の傲慢であることを知ることになる。


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