「わたしはある」ということを信じないのであれば、
あなた方は罪のうちに死ぬことになる。
「あなたは一体どなたですか?」
「わたしはあなた方について、語るべきこと裁くべきことがある」
(ヨハネ福音書8-24~26/新共同訳)
翻訳された聖書を読む際に、最も注意せねばならないことは、
訳者が翻訳する際に、自分の先入観を混入させることである。
その良き例が、上記の聖句である。
「文字上」においては、すなわち、原語をギリシャ語から日本語に移し変える
という意味では、明確な誤訳ではない。
しかし、単に右から左に移し変えることによって、
前後の文脈における独特の意味を見逃し、
自然に(しかも善意をもって)、聖句を曲げていくのである。
「わたしはある(εγω εiμi:エゴー・エイミ)」というイエスの言葉は、
旧約的意味においては、「わたしは神だ」ということを意味する。
(出エジプト記3-14、イザヤ書)
また、「あなたはどなたですか?(συ τis εi;:スー・ティス・エイ)」
というユダヤ人の反応は、あなた(συ)が強調されていることから、
「お前は何様だ!?」という反抗的態度にとるほうがよい。
さらには、「わたしはあなた方に語るべきこと裁くべきことがある」の、
「語るべきこと」と「裁くべきこと」の間にあるkαi(カイ)は、
非常に内容の豊富な表現である。
「そして」とも「然るに」とも「すなわち」とも訳せる表現である。
「そして」と訳せば並列的関係になるし、
「然るに」と訳せば逆説的要素が含まれるし、
「すなわち」と訳せば内容規定となる。
徐々に鋭くなるイエスとユダヤ人の対立を考えれば、
「すなわち」と訳すべきものである。
以上によって、全体を訳しなおせば、下記のようになる。
「わたしは神だ」ということを信じないのであれば、
あなた方は罪のうちに死ぬことになる。
「お前は何様だ!?」
「わたしはあなた方について、語るべき多くのことがある。
しかしそれは裁きとなる!」
(ヨハネ福音書8-24~26/私訳)
鋭い対立である。ユダヤ人の憎悪と、イエスの断固とした態度が、
ひしひしと感じられる部分である。
この箇所以外でも、イエスとユダヤ人の抜きさしならぬ対立が、
そこかしこにあるが、なぜかその対立は上手く表現されていない。
イエスの痛烈な皮肉(9-39)も、弟子の無理解(4-48)も、権力側の怒り(18-38)も、
なぜか曖昧なものとなっているのである。
「イエス様は愛である」という、言葉として事実であるが、
陳腐な先入観が目を暗まし、イエスとこの世との絶望的な対立が見えないのである。
私は、原語(ネストレ=アーラント)を読まなければ、
聖書は決して理解できないとは決して思わない。
たとえ高度な言語学的知識を持とうとも、
たとえ聖句を暗記するほど知っていても、
イエス・キリストを知ることは決してできないからだ。
神がイエスを啓示する、人の努力ではない。
人の努力が無駄だと言いたいのではない、
啓示に対して、人間の努力云々は次元が違う、ということを言いたい。
しかしなるべくならば、人は原語から読めた方がよいと思う。
日本語訳聖書においても、人間は罪人であり、
イエスは神の恩恵であることを知ることができる。
しかし原語聖書において知りえることは、
人間は「絶望的に」罪人であり、イエスは神の「圧倒的な」恩恵であるということだ。
かかる事実を知るとき、もはや「自分が罪人である」ということを嘆く自分の謙虚さでさえ、
イエスに反抗する傲慢として罰せられている。
さらには、ローマ書14章に記載されているように、
「自分は愛する隣人を救いたい」という最後の欲求でさえ、
神の姿を捨てて肉となり十字架に上ったイエスの前で、
恐るべき最後の傲慢であることを知ることになる。
あなた方は罪のうちに死ぬことになる。
「あなたは一体どなたですか?」
「わたしはあなた方について、語るべきこと裁くべきことがある」
(ヨハネ福音書8-24~26/新共同訳)
翻訳された聖書を読む際に、最も注意せねばならないことは、
訳者が翻訳する際に、自分の先入観を混入させることである。
その良き例が、上記の聖句である。
「文字上」においては、すなわち、原語をギリシャ語から日本語に移し変える
という意味では、明確な誤訳ではない。
しかし、単に右から左に移し変えることによって、
前後の文脈における独特の意味を見逃し、
自然に(しかも善意をもって)、聖句を曲げていくのである。
「わたしはある(εγω εiμi:エゴー・エイミ)」というイエスの言葉は、
旧約的意味においては、「わたしは神だ」ということを意味する。
(出エジプト記3-14、イザヤ書)
また、「あなたはどなたですか?(συ τis εi;:スー・ティス・エイ)」
というユダヤ人の反応は、あなた(συ)が強調されていることから、
「お前は何様だ!?」という反抗的態度にとるほうがよい。
さらには、「わたしはあなた方に語るべきこと裁くべきことがある」の、
「語るべきこと」と「裁くべきこと」の間にあるkαi(カイ)は、
非常に内容の豊富な表現である。
「そして」とも「然るに」とも「すなわち」とも訳せる表現である。
「そして」と訳せば並列的関係になるし、
「然るに」と訳せば逆説的要素が含まれるし、
「すなわち」と訳せば内容規定となる。
徐々に鋭くなるイエスとユダヤ人の対立を考えれば、
「すなわち」と訳すべきものである。
以上によって、全体を訳しなおせば、下記のようになる。
「わたしは神だ」ということを信じないのであれば、
あなた方は罪のうちに死ぬことになる。
「お前は何様だ!?」
「わたしはあなた方について、語るべき多くのことがある。
しかしそれは裁きとなる!」
(ヨハネ福音書8-24~26/私訳)
鋭い対立である。ユダヤ人の憎悪と、イエスの断固とした態度が、
ひしひしと感じられる部分である。
この箇所以外でも、イエスとユダヤ人の抜きさしならぬ対立が、
そこかしこにあるが、なぜかその対立は上手く表現されていない。
イエスの痛烈な皮肉(9-39)も、弟子の無理解(4-48)も、権力側の怒り(18-38)も、
なぜか曖昧なものとなっているのである。
「イエス様は愛である」という、言葉として事実であるが、
陳腐な先入観が目を暗まし、イエスとこの世との絶望的な対立が見えないのである。
私は、原語(ネストレ=アーラント)を読まなければ、
聖書は決して理解できないとは決して思わない。
たとえ高度な言語学的知識を持とうとも、
たとえ聖句を暗記するほど知っていても、
イエス・キリストを知ることは決してできないからだ。
神がイエスを啓示する、人の努力ではない。
人の努力が無駄だと言いたいのではない、
啓示に対して、人間の努力云々は次元が違う、ということを言いたい。
しかしなるべくならば、人は原語から読めた方がよいと思う。
日本語訳聖書においても、人間は罪人であり、
イエスは神の恩恵であることを知ることができる。
しかし原語聖書において知りえることは、
人間は「絶望的に」罪人であり、イエスは神の「圧倒的な」恩恵であるということだ。
かかる事実を知るとき、もはや「自分が罪人である」ということを嘆く自分の謙虚さでさえ、
イエスに反抗する傲慢として罰せられている。
さらには、ローマ書14章に記載されているように、
「自分は愛する隣人を救いたい」という最後の欲求でさえ、
神の姿を捨てて肉となり十字架に上ったイエスの前で、
恐るべき最後の傲慢であることを知ることになる。
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