聖書原典研究を一時中断し、
ドストエフスキーやカント、ヘーゲル、フォイエルバッハ等々の再読をしている。
そしてカントの再読を通して気づいたことを一つ。
私は今まで、カントが一番言いたかったことは、その道徳哲学にあると思っていた。
すなわち、三批判書の二番目にあたる「実践理性批判」にある定言的命法こそ、
(定言的命法:「~すべし」という無条件的な倫理的義務)
カント哲学の頂点であると思っていた。
しかし、そうではないことがわかった。
カント自身も純粋理性批判の序文で述べているように、
カントが一番言いたかったことは、
「信仰の位置を確保するために、理性の傲慢を挫くこと」である。
であるから、カントの宗教論(単なる理性の限界内の宗教)にこそ、
カント哲学の本質があるのである。
カントが一番言いたかったことは、ローマ書8章にある「新しき契約の成就」である。
すべての人は、道徳法則の命じる行為を遵守はするが、
心の中ではその道徳法則の精神(Geist:霊)を尊重しない。
ある人に至っては、その外面的行為を守りながら、その内面的精神は神に背き、
自己愛を神の律法を使って保存せんとする(ローマ書7章)。
しかしイエス・キリストにある人間には、
神の御心である道徳法則の精神を尊ぶ心が宿っている。
行為の唯一の動機が、神への愛、すなわち道徳法則の精神(Geist:霊)の尊重なのである。
イエス・キリストはすべての人を救う神の恵みである。
すべての人は、イエス・キリストに対する望みをもって救われている。
と同時に、いや、であるからこそ、そういう神に嘉せられるように、
力の限り善き人生を生きねばならない。
そして、神の救いにふさわしい人間に、「努力して」ならねばならない。
カントが言うように、神の無条件的救いと人の努力は、理論的にはアンチノミー(矛盾)である。
しかし倫理的・精神的には、相補的な真理の形態である。
日常生活に宗教的行為を実践せんとした敬虔主義の家庭に育ったカントは、
自身の信仰をその哲学によって主張せんとしたのである。
そして宗教改革の影響により、聖書の主張に反してあまりにも神の恵みのみを重視し、
人間の努力を否定するような福音に対して、彼は「否!」を主張したのである。
人間は所詮、人間である。神に救われても、人間である。
であるから、人間の生き方は、他者に対する具体的な態度によってのみ、
善悪を判断せられねばならない。
「神に救われた」と言って、まるで自分こそ神と交わっていると主張し、
自分の努力を都合よく否定する者は、宗教的狂信である。
「神に救われた」と言って、善き人間でなくても救われるとふんぞりかえり、
自分の努力を都合よく否定する者は、迷信的妄想である。
どちらにせよ、かかる福音の不真面目な受容は、
人間の理性の道徳的な死をもたらし、
人間をその土台より崩壊させる。
そうカントは警告しているのである。
「自分でよりよい人間になろうとせずに、神が確実に永遠の幸福を与えてくれると
いい気になるか、これが不可能であれば、よりよい人間になれるよう請いさえすれば、
自分は何もせずとも、神が自分をよりより人間にして下さるといい気になるか、
そういう宗教は恩寵請願宗教といって偽りである。・・・
しかし真の宗教は、神の希望にあって、自分の力によってよりよい人間になるよう
実行する宗教であり、そういう宗教を道徳的宗教と呼ぶ」
(カント「単なる理性の限界内の宗教」第2編)
ドストエフスキーやカント、ヘーゲル、フォイエルバッハ等々の再読をしている。
そしてカントの再読を通して気づいたことを一つ。
私は今まで、カントが一番言いたかったことは、その道徳哲学にあると思っていた。
すなわち、三批判書の二番目にあたる「実践理性批判」にある定言的命法こそ、
(定言的命法:「~すべし」という無条件的な倫理的義務)
カント哲学の頂点であると思っていた。
しかし、そうではないことがわかった。
カント自身も純粋理性批判の序文で述べているように、
カントが一番言いたかったことは、
「信仰の位置を確保するために、理性の傲慢を挫くこと」である。
であるから、カントの宗教論(単なる理性の限界内の宗教)にこそ、
カント哲学の本質があるのである。
カントが一番言いたかったことは、ローマ書8章にある「新しき契約の成就」である。
すべての人は、道徳法則の命じる行為を遵守はするが、
心の中ではその道徳法則の精神(Geist:霊)を尊重しない。
ある人に至っては、その外面的行為を守りながら、その内面的精神は神に背き、
自己愛を神の律法を使って保存せんとする(ローマ書7章)。
しかしイエス・キリストにある人間には、
神の御心である道徳法則の精神を尊ぶ心が宿っている。
行為の唯一の動機が、神への愛、すなわち道徳法則の精神(Geist:霊)の尊重なのである。
イエス・キリストはすべての人を救う神の恵みである。
すべての人は、イエス・キリストに対する望みをもって救われている。
と同時に、いや、であるからこそ、そういう神に嘉せられるように、
力の限り善き人生を生きねばならない。
そして、神の救いにふさわしい人間に、「努力して」ならねばならない。
カントが言うように、神の無条件的救いと人の努力は、理論的にはアンチノミー(矛盾)である。
しかし倫理的・精神的には、相補的な真理の形態である。
日常生活に宗教的行為を実践せんとした敬虔主義の家庭に育ったカントは、
自身の信仰をその哲学によって主張せんとしたのである。
そして宗教改革の影響により、聖書の主張に反してあまりにも神の恵みのみを重視し、
人間の努力を否定するような福音に対して、彼は「否!」を主張したのである。
人間は所詮、人間である。神に救われても、人間である。
であるから、人間の生き方は、他者に対する具体的な態度によってのみ、
善悪を判断せられねばならない。
「神に救われた」と言って、まるで自分こそ神と交わっていると主張し、
自分の努力を都合よく否定する者は、宗教的狂信である。
「神に救われた」と言って、善き人間でなくても救われるとふんぞりかえり、
自分の努力を都合よく否定する者は、迷信的妄想である。
どちらにせよ、かかる福音の不真面目な受容は、
人間の理性の道徳的な死をもたらし、
人間をその土台より崩壊させる。
そうカントは警告しているのである。
「自分でよりよい人間になろうとせずに、神が確実に永遠の幸福を与えてくれると
いい気になるか、これが不可能であれば、よりよい人間になれるよう請いさえすれば、
自分は何もせずとも、神が自分をよりより人間にして下さるといい気になるか、
そういう宗教は恩寵請願宗教といって偽りである。・・・
しかし真の宗教は、神の希望にあって、自分の力によってよりよい人間になるよう
実行する宗教であり、そういう宗教を道徳的宗教と呼ぶ」
(カント「単なる理性の限界内の宗教」第2編)
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