キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ある友人の証

2007-03-25 21:10:06 | 無宗教主義
私の最も近しい友人に、一人のキリスト者がいる。

どのぐらい近しいとかというと、彼の内奥の秘密を、

私だけがすべて知っているぐらい、近しい友人である。

今日は、彼の人となりを通して、信仰の秘儀に迫りたいと思う。


第一に、私が不思議に思うのは、彼とキリスト者という名称が、

どうにもこうにも一致しないことである。

キリスト者といえば、信仰を持つ人のことだろう。

信仰といえば、神とかキリストに対する信頼の意味だろうから、

信頼の性を有する人が、キリスト者と称されるべき筈である。

しかし私は、数十年彼に接してきて、彼の内に信頼の性を見出すどころか、

その反対の懐疑の性しか見出せないのである。

私は長い付き合いを通して、何とか彼の信頼を勝ち得ようとしてきたが、

彼には、はなから人間を信頼しようとする観点が、決定的に欠けているのである。

かかる友人が、なぜゆえ、熱烈にキリストを信頼しているのか、

私にははなはだ疑問である。


第二に、彼の人となりを一言でいえば、「冷静」であるが、

的確にいえば、「冷酷」という方が当たっているのかもしれない。

彼には、何か、人間の自然の情というものが、

欠けているように思えてならないのである。

やさしさとか、同情とか、そういったものが、彼にはないのである。

キリスト者といえば、キリストに倣って愛の生涯を実践する者であれば、

なぜゆえ彼が、愛の権化であるキリストを信奉するのか、

はなはだ疑問なのである。

信頼の性を全く持たぬ者が信仰を有するようになり、

愛の性を全く持たぬ者が愛することを重視するようになる、

その理由が、私には到底理解できないのである。


彼がなぜゆえ、かかる性質を身につけてしまったのか、

親友である私には理解できる気がする。

彼には尊敬する父がいて、その父というのが、大変人徳ある人物であったから、

彼は幼少時から尊敬していたという。

しかし人生には、運命の悪戯というものがあって、

かかる信頼関係を破壊するような、偶然の出来事があるものである。

幼少時に病弱だった彼は、学校を休みがちだった。

その日も、彼は学校を休み、昼過ぎに病床から起きて、

偶然にも、ドアの外で、父の不用意な言葉を聞いてしまう。

「なぜ、あいつが生まれたのか?」という、不平の言葉である。

人間というものは完璧ではないから、どんな人徳ある人間でも、

ついついストレスから不用意な言葉を発してしまうものである。

彼の父の場合も―私は彼の父も知っているが―、

普段はそういったことを考えたこともなかろうが、

たまたま仕事上の疲労から、口をすべらしてしまったのだ。

しかしこの言葉が、生涯、彼が他人に信頼するという性を、

根底から破壊してしまったのだ。


彼に接する者は、陽気で如才ない印象を受けるだろうが、

同時に、他人に無関心な印象も与える。

近しい友人である私からすれば、彼の無関心さは無関心そのものよりも、

無意識に存する「信頼することへの恐怖」であるように思う。

かかる恐怖が彼を精神的に強くするとともに、

彼をして、人間の集合である組織というものへの、激しい懐疑になっているのだ。


そんな孤独で懐疑家の彼が、キリスト者になったという。

世の中には不思議なことがあるものだ。

人さえ信頼できぬ彼が神を信じ、自然の情さえ欠如している彼が愛を目指しているという。

しかし私は思う、彼の内に信頼と愛の性は欠如していたが、

イエス・キリストが彼のために十字架に上られたという事実が、

彼をして、劇的な性質の変化をもたらしたのだと。

彼は一般的なキリスト教徒ではないし、教会にも通わぬキリスト者であるが、

懐疑・冷酷・不信の彼をして、少しなりとも信仰・愛情・信頼に変貌せしめた、

イエス・キリストという存在に、あらためて敬意を表さざるを得ない。


この世は、信頼の性を涵養するには、あまりにも不完全な場所である。

善は報われず、悪は跋扈し、裏切りがあり、利用があり、別離がある、

こんな世の中が、信頼ではなく不信の性ばかりを教えるのである。

私の友人である彼は、その最右翼に位置していたに違いない。

しかしそんな彼でも、信頼の性を持つことができたのである。

信仰というものは、人間が自発的に持ちえるものではなく、

ただ神から与えられるものであることを、あらためて感じた次第である。

神は石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる。(マタイ伝2-9)

実に然りである。



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