みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Chastisement of God, #3

2017年02月20日 | 聖書研究・信仰
自己判断によって病いは避けうるのか。

我々は病いを単なる肉体の問題と片づける傾向にある。

そして、神の義、聖、裁きとは関係がないと決めつける。

しかし、パウロはこの箇所において分かりやすく説いている。

病いは罪の結果であり、神の躾けであると。

我々はヨハネ9章の盲人の話しを引用しがちだ。

そして、彼らの病いは罪に対する神の躾けではないという理屈を支持する。

その時、主イエスは罪と病いは無関係だとは言わなかった。

弟子たちに、病人を絶対に非難しないよう警告している。

もしアダムが罪を犯していなかったら、ヨハネ9章の男は目が見えずに生まれてくることはなかっただろう。




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The Chastisement of God, #2

2017年02月19日 | 聖書研究・信仰
この箇所において、病いとは主の躾けのひとつの型であるとパウロは説く。

主の御前で罪を犯した場合、信徒はあまり重くない病気によって躾けられる。

自分で自分を裁定し、己れの過失を取り除くためだ。

神の子らを躾ける際、この世とともに罪に定められないように、神は子らを真摯に取り扱って下さる。

キリスト者が罪を悔い改めるなら、神は躾けることを止めるであろう。




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The Chastisement of God, #1

2017年02月17日 | 聖書研究・信仰
病いに関する主の考え方のいくつかを見たので、次にキリスト者の病いの原因について注目してみたい。

第1コリント11:30
この事ゆえに、多くは無能となり
病気となり、かなりの者たちは死んだ

同11:31
もし自分自身を切り離すなら
我々は決して罪に定められることはない

同11:32
我々が主によって否とされる時
我々は躾けられる
この世とともに
不義とされないように



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Sickness and sin, #10

2017年02月16日 | 聖書研究・信仰
罪と病いとの関係についての主イエスの見方は我々とは全く違う。

罪は霊的領域に属すると我々は考える。

忌み嫌うべきもの、神によって咎められるべき何か。

一方、病いは神とは何ら関係がないこの世的な現象と考える。

ところが、主イエスは、魂の罪々と体の病々をいずれもサタンの仕業であるとする。

主はサタンの業を破壊するために来臨した(第1ヨハネ3:8)。

故に、主は悪魔を追い出し、病いを癒す。

ペテロは啓示を受けて、主の癒しのミニストリーについて次のように証言する。

「主イエスはやって来られて善を為し、悪魔によって支配されている人々を皆癒した(使徒10:38)」

罪と病いの関係は、まさしく我々の魂と体の関係と同じだ。

罪の赦しと体の癒しは、お互いに補いあって完成する。



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Sickness and sin, #9

2017年02月13日 | 聖書研究・信仰
今日のキリスト者は全く逆だ。

当時、主イエスは病いを癒す力はあるが、罪の赦しの賜物があるのかどうかについては疑われていた。

今日の信徒は、罪の赦しに関する主の御力は信じるが、癒しの賜物については疑っている。

主イエスは人々を罪から救い出すために来臨したと告白するが、病いを癒す救い主であるという事実を無視する。

不信仰により、救い主イエスキリストが2分される。

真理はこうだ。

キリストは人の体と魂の救い主。

罪を赦して下さるだけでなく、病いをも癒して下さる。



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Coffee Break, #66

2017年02月12日 | コーヒーブレイク
〝沈黙〟を観て受けた印象≒艶歌ワールド



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Sickness and sin, #8

2017年02月12日 | 聖書研究・信仰
我々の罪々の赦しだけでなく、我々の病々を癒して下さるが故に、主イエスの救いは完璧なのだ。

主による罪々の負いと病々の負いとの間には、さらに理解しておくべき違いがある。

(病いと癒しに関する著者の意見は、当論考の第2章に補遺があるので参考にして欲しい)

主は我々の魂を救いながら、一方で我々の体が病いに打ちひしがれたままに捨ておくだろうか。

地上におられる間、主は罪の赦しと体の癒しを同じように強調したではないか。

最初に罪を赦し次いで癒された時もあるし、またその逆の時もあった。

人が受け入れることのできるように、主は事を成して下さる。

福音書には、主イエスは他の業よりも多くの癒しをなさったと書いてある。

何故なら、当時のユダヤ人たちが、罪の赦しよりも病いの癒しを信じていたからだ。

マタイ9:5
何がより容易だろうか
赦されていると言うこと
その罪々が
あなたに
よりも
立ち上がりそして歩くように言うこと




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Sickness and sin, #7

2017年02月11日 | 聖書研究・信仰
今日、信仰者はダビデとともに主を褒め称えることができる。

「我が魂よ、主を賛美せよ」

「我が内にあるすべてよ、主の御名を賛美せよ」

「全ての我が罪を赦されるお方」

「すべての我が病いを癒されるお方」
(詩編103:1、3)

中途半端にしか賛美できない者たちよ、恥を知るべきだ。

そのような者たちは、中途半端な救いしか知らない。

神にとっても人にとっても無駄と言わざるを得ない。

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Sickness and sin, #6

2017年02月10日 | 聖書研究・信仰
主イエスは我々の罪々を負い給う。

主はまた我々の病々をも負い給う。

主イエスが我々の罪々を負ったが故に、我々はもはや罪々を負う必要がない。

主イエスが我々の病々を負ったが故に、我々はもはや病々をも負う必要がない。

原罪は我々の魂と体を台無しにした。

だから、主はその両者を救う。

罪々からだけでなく、病々からも我々を救う。



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Sickness and sin, #5

2017年02月09日 | 聖書研究・信仰
旧約聖書において、イザヤ53章は福音について明言している章だ。

新約聖書において、この特別な章に対する関連個所がいくつかある。

これらは主イエスの贖いの御業に関する預言の成就を説いている。

「我々の平安の(ための)懲らしめが彼の上にあった」

「そして、彼の打ち傷によって、我々は癒されている」
(53:5 ASV)

この箇所が宣べていることは、まさしくその通り。

体の癒しと魂の平安が揃って我々に調和をもたらしてくれる。

この箇所では“bear”という単語が2つの異なる内容において使われている。

これが分かれば、この聖句が理解しやすくなる。

イザヤ53:12c
彼は多くの者たちの罪を負った(bear)

イザヤ53:4b
彼は我々の悲しみ(ヘブル語原典:病いsicknesses)を負った(bear)




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