みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Better to Be Healed, #16

2017年05月26日 | 聖書研究・信仰
確かに、病いの時に受ける霊的祝福は、復活の時に受けるものよりもはるかに劣る。

癒しのために神に安息するなら、治癒した後、健康を維持できるように聖なる歩みを続けるのは当然のことである。

我々を治すことによって、主は我々の体を所有する。

主との新しい関係と経験において見出される喜びはことばにできない。

単に病いが癒されたからではない。

命との新しいタッチゆえだ。

そのようなひと時、不健康の時には比べようもないほど我々は主を大いに賛美する。



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Better to Be Healed, #15

2017年05月25日 | 聖書研究・信仰
我々は神より賢いか。

我々は聖書が啓示していることよりも優れているか。

病室が内なる人が深く動かされる聖所のようだ。

病いは神が予め予定していた御旨でもなければ神の最善でもない。

感情的気まぐれに従い、神のみ旨を無視するなら、神は我々が願うことが成るように働かざるを得ない。

主の民の何人が誠実に次のように言えるだろうか。

癒しについて、また病いについて、自分自身を神の御手に委ねます。

神ご自身のしたいことを神ご自身がなさることを許可します。

しかし、このように言う者たちが薬の常用者であることが通例だ。

これで、すべてを主に委ねていると言えるだろうか。

矛盾していないか。

彼らの服従とは単なる霊的無気力状態のしるしではないのか。

心では健康を願っている。

しかし、神が働くことを嫌がっている。

つまり、間接的に病いを受け入れている。

だから、それほど長く病いに屈しているのだ。

そのような信徒のためにできる最善は、他の人々が彼らに代わって信じることだ。

あるいは、信じる信仰を、神が与えて下さることだ。

しかしながら、彼らの意志が悪魔に抵抗し、主イエスにしがみつく気概がない限り、神の信仰はやっては来ない。

彼らの弱さは必要からではなく、神の約束の上に固く立つ力が欠落しているからなのだ。



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Coffee Break, #80

2017年05月23日 | コーヒーブレイク
第1ペテロ2章24節
そして自分から十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、
あなたがたは、いやされたのです。

この聖句にも深刻な誤訳がある。

次の箇所だ。

まずはその個所の原文を提示する。

ταις αμαρτιαις απογενομενοι

最後にある単語ἀπογενόμενοςの意味は

ἀπογενόμενος
Past participle of a compound of G575 and G1096; absent, that is, deceased (figuratively renounced): - being dead.

つまり「死んでいる」という意味。

罪々に(対して)死んだ状態にある

上の日本語訳では、「私たちが罪を離れ」と訳されているが、上の辞典を参照にすると、ἀπογενόμενοςには「~から離れて」という意味はない。従って「罪に対して死んでいる(状態)」と訳出する必要がある。

まずは、英語訳。

同 
Who his own self bare our sins
in his own body on the tree,
that we, being dead to sins,
should live unto righteousness:
by whose stripes ye were healed.
(KJV)


そのお方は
我々の罪々を負う
我々の体の中にある
木の上で
というのは
我々がそれらの罪々に死んで
義に永遠に生きるために
彼の打ち傷によって
あなたがたは(すでに)癒された






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Better to Be Healed, #14

2017年05月22日 | 聖書研究・信仰
病いはもはや必要ではないのに、神は一向に除こうとされないことがある。

多くの信徒が抱える疑問だ。

神が我々を取り扱われる時の原則に注目したい。

常に、「あなたが信じた通りになるように」という原則が働く(マタイ8:13)。

神は、子らが健やかであることを望んでおられる。

しかし、彼らの不信仰と祈りの欠如ゆえに、子らを病いの中に留めておくことがある。

もし、子らが病いに同意し、いやむしろ病いを喜んでいるなら

病いによってこの世から解放され、自分らがより聖であると考えているなら

神は彼らが望んでいるものを認めざるを得ない。

子らが受け入れることができる状態に応じて、主はご自身のやり方を変えることがよくある。

子らを癒したいと切に望んでおられる。

しかし、不信心な祈りゆえに、この貴重な恵みが得られない。



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Better to Be Healed, #13

2017年05月21日 | 聖書研究・信仰
これらの聖句から、次のような結論が得られる。

病いは悪魔に起源を持つ。

神はサタンに子らを攻撃する許可を与える。

子らの生き方に何らかの欠落があるからだ。

神が要求することを捨て去り、病いの中で生きることに甘んずること。

これは神の命令を拒み、病いを喜んで向かい入れることと同じだ。

そうすることにより、自発的にサタンの支配下に身を置くことになる。

啓示による神のみ旨に従った後、何故そのような束縛に戻るのか。

病いは悪魔から来るということが分かれば、断固拒否するべきではないか。

病いは敵に属しているということを明確にするべきだ。

病いを受け入れることはあり得ない。

神の御子は我々を自由にするために来臨したのだ。

我々を束縛するために来たのではない。



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Better to Be Healed, #12

2017年05月20日 | 聖書研究・信仰
もし病いの源を追及していけば、我々は必ず癒しを求めようとするだろう。

病いにある者は皆、「悪魔によって虐げられている(使徒10:38)」。

主イエスは、腰がひどく曲がり、背を伸ばすことができない夫人を、「サタンが縛ってきた」者と表現した(ルカ13:16)。

主イエスがペテロの姑を癒した時、主は「熱を叱りつけた」(ルカ4:39)。

同様に、主は悪魔らを叱りつけた(ルカ4:31~41)。

ヨブ記を読むと、ヨブの病いをもたらしたのは悪魔であることが分かる(ヨブ記1~2章)。

しかし、ヨブを癒したのは神だった(ヨブ記42章)。

パウロを苦しめ弱らせたとげは、「サタンの使い」であった(第2コリント12:7)。

しかし、パウロに力を与えたお方は神だった。

死の力を持つ者は悪魔だ(へブル2:14)。

我々は病いが如何にして死をもたらすかを知っている。

死の側面のひとつが病いだ。

サタンは死の力を持っているので、病いの力をも有している。

死は、病いの延長腺上にある最終段階である。




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Better to Be Healed, #11

2017年05月19日 | 聖書研究・信仰
神はご自身の態度を変えてしまったと主張することはできない。

今日の神の目的とはこうだ。

「主のみ旨が天に在るように、そのようにこの地上に成るように(マタイ6:10)」

神のみ旨は天において成し遂げられている。

そこに病いはあるだろうか。

否!

神のみ旨は、病いとは完全に相反する。

神に癒しを求める際に、信徒が犯す極めて深刻な過ちとは何か。

希望を捨て去っていながら、「主のみ旨が成るように」とことばを並べ立てることだ。

主のみ旨が病いや死と同じであるかのようだ。

神は、子らが病気になることを願ってはいない。

子らのために病いになることを許可することはある。

しかし、神が決めた配慮はご自身の民のためのものだ。

天には病いがないという事実は、神のみ旨が何たるかを十分に指し示している。



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Better to Be Healed, #10

2017年05月18日 | 聖書研究・信仰
第1テサロニケ5:23にあるパウロのことばは、過度の長患いは神のみ旨ではないということをさらに明確にする。

霊と魂がそうであるように、体もそうであるべきだ。

体が弱く、病弱で、苦痛にもがいている一方で、霊と魂が健全であることに神は満足しない。

神の目的は、その者丸ごとを救うことであり、その者の一部分のみを救うことではない。

主イエスの業は、病いに関する神のみ旨を現出させることであった。

イエスは神のみ旨以外の何物も行なわなかった。

らい病人の癒しにおいて、主は病いに関する天の父の御心を明らかにする。

らい病人は乞うた。

「主よ、私を清めるご意志があるなら、どうかそのようになさってください」

ここに、天の門を叩く者がいる。

彼は癒すことは神のみ旨なのかと問う。

主は手を伸ばして言った。

「私の意志だ。清くなれ(マタイ8:2~3)」

癒しは、しばしば神の思いを象徴する。

神は癒しを好まないと思う者は御心を知らない。

主イエスの地上における宣教活動には「病める者を皆癒すこと」が含まれていた(マタイ8:16)。

マタイ8:16
・・・ and healed all that were sick
(KJV)



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Coffee Break, #79

2017年05月17日 | コーヒーブレイク
マタイ8章17節b
・・彼が私たちのわずらいを身に引き受け
私たちの病を背負った

・・・

福音の本丸だが、この訳出では何か煮え切らなさを感じる。

早速検討してみたい。

「身に引き受ける」と訳された単語は、λαμβάνωで

λαμβάνω:
A prolonged form of a primary verb, which is used only as an alternate in certain tenses; to take (in very many applications, literally and figuratively [probably objective or active, to get hold of; whereas G1209 is rather subjective or passive, to have offered to one; while G138 is more violent, to seize or remove]): - accept, + be amazed, assay, attain, bring, X when I call, catch, come on (X unto), + forget, have, hold, obtain, receive (X after), take (away, up).

すなわち、「取る」「引き受ける」「理解する」「申し出る」など。
中程に「to get hold of」という訳があるが、全文を通してこの訳がピタッと当てはまるような気がする。

「背負う」と訳された単語は、βαστάζωで

βαστάζω:
Perhaps remotely derived from the base of G939 (through the idea of removal); to lift, literally or figuratively (endure, declare, sustain, receive, etc.): - bear, carry, take up.

英語訳をいくつか見てみたが、全訳でbearを採用している。bearでは語気が弱すぎるような気がする。「lift」という訳が最初に掲げてあるが、この訳が良い。

マタイ8章17節b
・・主自らが我々の病魔をつかみ
我々の病巣を持ち上げた


・・Himself got hold of our infirmities
and lifted up our sicknesses

やはり、こっちの方が良い。

ヨハネ3章14節参照


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Better to Be Healed, #9

2017年05月16日 | 聖書研究・信仰
さて、我々の体に関する聖書の肯定的な教えに話を戻そう。

ある考え方を根底からひっくり返す聖句が第3ヨハネ2節にある。

「我が愛する人よ。すべてが順調に進むように、また、あなた自身が健康であるようにお祈りします」

「あなたの魂が繁栄していることを私は知っています」

これは、聖霊によって啓示された使徒ヨハネの祈りだ。

そして、信徒の体に関する神の永遠の思いを表現している。

神の子らが、その全人生を通して、主に奉仕できなくなるほどの病いに至ることなど想定してはいない。

魂のみならず、体においても健康であることを切に望んでおられる。

従って、長引く病魔が神のみ旨ではないことは確かだ。

一時的に、神は病いを用いて子らをしつけようとする。

神は長引く病いを望んでおられない。



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