みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Glorify God, #30

2017年01月20日 | 聖書研究・信仰
「ふしだらを避けよ。

人が犯す罪は皆、体以外のことだ。

しかし、ふしだらな男は自分の体に罪を犯す(第1コリント6:18)」

聖書はふしだらと淫行を他の罪々よりも深刻と考える。

何故なら、それらの行為はキリストの器官である体と特異な関係にあるからだ。

考えて欲しい。

何故キリスト者は淫行を避けるべきなのかを使徒パウロが繰り返し強調する理由を。

我々はふしだらと淫行を道徳的不純と考える。

しかし、使徒パウロは、それらの行為の全く違った点に強調点を置く。

淫行のみがこの体を他と結合させる誘因となる。

だから、これはこの体に対する罪となる。

キリストの器官を淫婦の器官にするのは淫行のみである。

淫行はキリストの器官に対して罪を犯している。

キリスト者はキリストと結合しているが故に、淫行は忌まわしさが倍化する。

別の視点から考えてみる。

淫行の忌まわしさを鑑みることにより、この体とキリストとの結合はまさに事実であることを実感するであろう。



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Glorify God, #29

2017年01月19日 | 聖書研究・信仰
神と神の霊が、体においてキリスト者と交わりを持つことができると仮定する。

すると、当然のことながら、その者は体において御霊と交わることができると期待する。

しかし、神と神の霊は、決して人の体と直接に交わることはない。

神の子なら、体において神を味わうことに固執してはならない。

悪霊がその機会を捉え、体の内に入り込み、悪霊がその者が望んでいることに承認を与えることになるだろう。

その結果、取り憑かれてしまう。

信仰者の体とキリストとの結合とはこういうことだ。

主イエスとひとつになることにより、神の命を受け取ることができて、力を与えられるという意味だ。

その高貴な霊の業を体が邪魔しないように、徹底的に警戒する必要がある。



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Glorify God, #28

2017年01月18日 | 聖書研究・信仰
しかし、この土くれの器は多大なストレスに耐えることはできない。

従って、この器はしばしば弱る。

さらに、肉体から分離したあの悪霊どもが人の体を欲しがっている。

この泥棒どもは人の肉のフレームを乗っ取ることが商売だ。

常識を超えた能力を有する体を持つキリスト者は、時として悪霊が働く機会を与えてしまう。

これが霊的領域の法則だ。



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Glorify God, #27

2017年01月17日 | 聖書研究・信仰
しかしながら、あることを思い起こす必要がある。

次のように考えるべきではないということ。

この体がキリストの器官であるが故に、体にそのような証拠があるかのように、霊的交わりや状況を肉的に思うことだ。

この肉のフレームにおいて、神の臨在を感じる必要があるのか。

神はこの体を直接コントロールし、揺り動かす必要があるのか。

聖霊はこのフレームを満たし、肉を通して御旨を知らせる必要があるのか。

聖霊はこの体の舌を制御する必要があるのか。

もしそうならば、我々の体は、我々の霊にとって代わってしまうであろう。

その結果、我々の霊は活動する機会を失い、代わって体がその業を行なうことになるだろう。




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Glorify God, #26

2017年01月16日 | 聖書研究・信仰
目の前にあるのは、やはり結合だ。

神の子らは、キリストにある自分の地位を明確に理解すべきだ。

主との結合には少しのずれもない。

我々の体はキリストの器官だ。

この体を通して、主の命が現れる。

主が虚弱だったり、病気であったりとは誰も思わない。

確かに我々方はと言えば、虚弱であり病的だ。

しかし、主との結合ゆえに、我々もまた、健康、力、命を必ずや得ることができる。



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Glorify God, #25

2017年01月15日 | 聖書研究・信仰
パウロは、主と結合することを「主とひとつの霊になる」とする。

つまり、霊における結合だ。

パウロは、信徒の体がそれとは無関係であるとは考えない。

まず最初に、霊における結合が起きる。

次いで、この霊的癒合によって、信徒の体は徐々にキリストの器官へとなっていく。

最後に、この体は主のために在り、そして主はこの体のために在ることがはっきりする。



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Glorify God, #24

2017年01月14日 | 聖書研究・信仰
第1コリント6:17
主と結合している者は
(主とともに)ひとつの霊の中にいる


第1コリント6章15~17節において、キリストとの結合の奥義を見ることができる。

この17節におけるパウロの考えはこうだ。

もし人が淫婦の体と結合すれば、一つの体となり、その女の器官となる。

もし我々がキリストと結合するなら、我々の体はキリストの器官となり、キリストとともに一つの霊となる。

もし我々の全存在がキリストと結合するなら、二つの体が一つになって当然ではないか。



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Glorify God, #23

2017年01月13日 | 聖書研究・信仰
使徒パウロは、コリント教会の信徒がこの明確な真理を知らないことに驚いた。

この教えをきちんと理解できていなかったが故に、多くの霊的経験に出会う機会を失ない、多くの実践的警告をきちんと処理するチャンスを逃してしまった。

この体がキリストの器官であるなら、それを淫婦の器官にしようとするだろうか。

パウロは直ちに問う。

「淫婦と結合すれば、その女と一つの体になることを知らないのか」

第1コリント6:16
あなたがたは知らないのか
肉において淫婦と交わっている者は
言われている
ふたりは
肉の中へと
ひとつになる


「ふたりは一つになると書いてあるではないか」

パウロは、この結合の教理を最も効果的に展開する。

「淫婦と結合すれば、その女と一つの体になる」

すなわち、この男は淫婦の器官となる。

信徒はキリストと結合していて、すなわちキリストの器官である。

キリストの器官が淫婦の器官となるなら、キリストから離れ何処へ向かうのだろうか。

パウロは、淫婦との性行為を禁止する。



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Glorify God, #22

2017年01月12日 | 聖書研究・信仰
パーフェクトな結合が成し遂げられるためには、将来の復活の時を待たなければならない。

そうではあるが、キリストとの結合は、現時点でさえ確固とした事実だ。

キリストの体が我々の体のために在るということを知った時に得られる安堵感は、到底言葉にはできない。

あらゆる真理は経験できるのではないだろうか。

肉体の欠損、病気、苦痛、そして虚弱がないか。

思い出して欲しい。

キリストの体は我々の体のために在る。

我々の体はキリストの体と結合している。

すなわち、肉体的必要を満たすために、我々はキリストの体から命と力を引き出すことができる。

肉体の欠損を持つ者は、信仰によってキリストとの結合という土台の上に固く立ち、キリストの体という供給源から必要なものを引っ張り出すがよい。







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Glorify God, #21

2017年01月11日 | 聖書研究・信仰
我々はキリストと結合していてひとつであることを忘れてはならない。

神はキリスト者を個々人として見ているのではない。

キリストというひとつの視界の中で、我々キリスト者全体を捉えている。

キリスト者が、キリストの外に存在することはない。

何故なら、キリスト者の日々生きるための活力はキリストによって供給されるから。

神にとって信徒とキリストとの結合は、包括的で明確な事実だ。

「キリストの体」とは、霊的な意味合いだけではない。

確かにそれも事実だ。

肉の体が頭部と結合しているように、信徒はキリストと結合している。

神の目から見れば、キリストとの結合は完全であり、無限であり、絶対だ。

言い換えるなら、こうだ。

我々の霊はキリストの霊と結合している。

-これは最も重要な事実。

我々の魂はキリストの魂と結合している。

-意志の結合、感情の結合、そして思いの結合。

我々の体はキリストの体と結合している。

キリストとの結合が完璧であるなら、我々の実存たる肉の部分を除外することができるだろうか。

我々がキリストの器官であるなら、我々の体もまたキリストの器官なのだ。







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