みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #71

2017年03月23日 | コーヒーブレイク
今週末は吉祥寺で開かれるDr愛子博士のセミナーに参加します。

車山キャンプにも参加したかったのですが、2週連続で週末サボると石が飛んでくる可能性がありますので、長野キャンプは次の機会に参加したいと思います。


ホーマン愛子博士 日本セミナー基本コース

【脳科学者ホーマン愛子博士による日本初のセミナー内容】

Session 1 3/24 (Friday) 19:00-21:00
魂の詰まった丸太
天の御座
- 神の御言葉のレーザー光線
デモンストレーション

Session 2 3/25 (Saturday) 13:00-15:00
魂の癒しと解放 パート1
- 自己防衛壁
- 記憶の再編集
- 霊の武具の割れ目を防ぐ
- いくつかの解放は効果的でないのか
- 中絶の霊
- サタンの印
- オカルトに関わったことによる敵の攻撃からの解放
- 引き金反応

Session 3 3/25 (Saturday) 18:00-20:00
魂の癒しと解放 パート2
デモンストレーション

Session 4 3/26 (Sunday) 14:00-16:00
罪悪感 (+土曜の続き)
- 天の法廷のドラマの幻
デモンストレーション




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Coffee Break, #70

2017年03月22日 | コーヒーブレイク
ガラテア2章16節における日本語訳について一言。
余りにひどいので正確に見ておきたい聖句の一つだ。

ガラテア2:16
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。
(新改訳)

次に、KJV訳。


Knowing that a man is not justified by the works of the law,
but by the faith of Jesus Christ,
even we have believed in Jesus Christ,
that we might be justified by the faith of Christ,
and not by the works of the law:
for by the works of the law shall no flesh be justified.

見た瞬間受ける印象がまるで違う。

日本語訳から受ける印象は「人」すなわち肉中心。
英語訳から受ける印象は「律法とキリスト」すなわち「霊」中心。

日本語訳のヒドさを暴露していく。

「人は律法の行ないによって」とある。
言い換えるなら「人が律法を行なうことによって」となるが、全く違う。

英語訳を見れば分かるが、「律法の働きによって」が正解。
つまり、この文章の主語は「人」ではなく、律法の働きだ。

律法の働きは人を義とはしない

という意味。「行ない」と誤訳するから意味が変わってしまうのだ。

原典で使われている単語はεργωνで

意味は、From ἔργω ergō (a primary but obsolete word; to work); toil (as an effort or occupation); by implication an act: - deed, doing, labour, work.

つまり「働き」或いは「業」

次に、「キリスト・イエスを信じる信仰によって」

これも真っ赤な大誤訳。

KJV訳にあるように、by the faith of Jesus Christが正解。

イエスキリストの信仰によって

イエスキリストの信仰を通してでなければ我々は義とされない

となる。すなわち

律法の働きは人を義とはしない
イエスキリストの信仰が人を義とする

これを理解してはじめて、次に人が出てくる。

それが「我々」だ。

律法の働きは人を義とはしない
イエスキリストの信仰が人を義とする
イエスキリストにあって
それを我々は確かに信じた
だから救われた
律法の働きは肉を義としない
義とされるにはイエスキリストの信仰が必要だ





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Sickness and Self, #11

2017年03月21日 | 聖書研究・信仰
自己愛という心が解かれるために、一体何人のキリスト者が死の入口まで連れて来られなければならないのか。

体への愛が絶たれて、次に愛すべきものとは何か。

命が風前の灯火となり、次に愛すべきものとは何か。

病いが体を食い尽くして、次に愛すべきものは何か。

苦痛が力を削ぎ落して、次に愛すべきものは何か。

この時、その者は死を受け入れる。

失望し、自己愛は忘れ去られる。

絶望が頂点に達した次の瞬間、神へと立ち返り、神の癒しの約束を宣言しないだろうか。



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Sickness and Self, #10

2017年03月20日 | 聖書研究・信仰
自己を愛するが故に、我々は病気になることを恐れる。

しかし、神は我々の体を弱める。

神は我々が苦痛を経験することをお許しになる。

良くなりたいと思えば、病いはさらに重くなる。

生き続けたいと願う。

しかし、その希望は風前の灯火のようだ。

神の取り扱いは実に具体的だ。

時には劇的に、時にはソフトに。

しかしながら、自己愛という心を取り除くという点においては、目的は同じ。



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Sickness and Self, #9

2017年03月19日 | 聖書研究・信仰
自己願望や我が儘に加えて、神が忌み嫌うものは自己愛の心だ。

自己愛は霊的生活を危機に陥れ、霊的業を破壊する。

神がこれを取り除いて下さらなければ、霊的戦いを勝ち抜くことはできない。

自己愛は我々の体と特異な関係にある。

自分を愛するとは、自分の体と命を大事に思うことだ。

この忌むべき特定を叩き潰すために、神は我々に病いが降りかかることを許可する。



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Sickness and Self, #8

2017年03月17日 | 聖書研究・信仰
我々は依然として自分の個人的願望を思い描く。

そのような思いは、我々の日常生活がいかに自分自身の考え方で照らされているを明らかにする。

人々との付き合い方に関してだけでなく、神の御業についても、我々はいろいろな考え方や意見を頑なに守る。

抵抗することの愚かさを教えるために、我々を死の入口へと連れていく。

我々の愚行により、神はそうせざるを得ないのだ。

我々は深海の中を通っていく。

そこを通過中、我々は砕かれ、我が儘を捨てる。

この我が儘から来る我々の行ないが神を大いに怒らせる。

普段は主のことばに従おうともしないくせに、体が侵されてからは従順となるキリスト者の何と多いことよ。

主の方法とはこうだ。

愛の説得が効力を失うと、神は躾けを開始する。

主の躾けの目的は我が儘を叩き壊すこと。

病いにあるすべてのキリスト者は、この点について真剣に自己裁定すべきだ。




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Sickness and Self, #7

2017年03月14日 | 聖書研究・信仰
神は子らの病いを憂いている。

神の愛が子らの平穏な日々を望んでいる。

しかし、神はそれが危険であることを知っている。

平穏な時、我々の愛は神へと向かう。

賛美のことばと奉仕が神へと向かう。

これは平穏な生活によって担保されている。 

しかし、神は我々の心が容易に移り変わることを知っておられる。

だから、ご意思によって、病いを与える。

病いが我々の上に降りかかることをお許しになる。

我々が主のみを望み、純粋に主の送り物を望むためだ。

逆境にある時、他に何も求めないなら、我々は真に神のみを望んでいることになる。

病いは、我々が自分の願望を求めているのか、神の配剤を求めているのかを明らかにする試金石なのだ。



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Sickness and Self, #6

2017年03月13日 | 聖書研究・信仰
今議論となっていることは、信徒は病気になるべきだということではない。

神に反抗していないかどうかだ。

病いにある時は、病気のことを忘れて欲しいと神は望んでいる。

そうだ。

病気なんぞ忘れてしまえ。

真直ぐに神を見よ。

病気になり、それが続くことが神のみ旨であるなら、それに応ずる覚悟があるか。

神の御手に任せて、抵抗しないか。

神の目的から外れている体が欲しいのか。

神の目的が達成されるまで待てないのか。

それよりもまず癒しを要求するのか。

神がしつけている間、他の癒しの方法を探すのか。

深い苦しみの中にあって、神が承認しないものを求めるのか。

これらの疑問は、病いに苦しむ全ての兄弟姉妹の心に深く突き刺さってくる。



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Sickness and Self, #5

2017年03月12日 | 聖書研究・信仰
自分たちに到来することは何でも、主によって与えられていると理解してほしいと神は考えている。

肉体的状況にせよ、外界の状況にせよ、それが如何に危機的であろうが、神の手によって測られている。

たった一本の髪の毛の運命さえも神の手中にある。

自分に降りかかってくる事に抵抗するなら、その者はそのような状況を許しておられる神に盾突いているのと同じことだ。

痛々しい闘病の後に続いて憎悪の心が芽生えるなら、そのことをお許しになっている神を憎んでいると言わざるを得ない。



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Sickness and Self, #4

2017年03月10日 | 聖書研究・信仰
そのこと故に、神は病いを長引かせる必要がある。

ご自身の目的が達成されるまで、神はその手先サタンを撤退させない。

神と信徒との間の交わりの究極とは何か。

主に対して無条件で服従すること。

主による如何なる取り扱いも喜んで受け入れること。

恵まれている時には賛美するが、逆境の時に神に不満を垂れる者を神は良しとはしない。

子らが主の愛を疑ったり、主の業を曲解することを神は望まない。

死を覚悟するまでご自身に従うことを神は望んでおられる。



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