みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#49 The Days of Vengeance, NO.49

2024年09月18日 | 創世記

p111~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

ペルガモ:偽預言者と無神の王に対する裁き

2節18-29

Rev 2:18  また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。 
Rev 2:19  「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。 
Rev 2:20  しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 
Rev 2:21  わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。 
Rev 2:22  見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。 
Rev 2:23  また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。 
Rev 2:24  しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。 
Rev 2:25  ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 
Rev 2:26  勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 
Rev 2:27  彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 
Rev 2:28  また、彼に明けの明星を与えよう。 
Rev 2:29  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』 

18節

テアテラに関して最も重要なことのひとつは、ギルドがこの地方経済を支配していることだった。

すべての製造業は、ギルドによって厳格にコントロールされていた。

商いを行なうためには、適切なギルドに属する必要があった。

ギルドの会員であるということは、異教の神々を礼拝することを意味していた。

異教の礼拝は、ギルドと連結・一体となっていた。

ギルドでは、異教の寺院での会合や食事が開催されていた。

異教礼拝に必要とされる2つの主要な側面は、偶像に捧げられた食べ物を食べることと、不法な性的関係にあった。

従って、手工芸や貿易関係で働いていたクリスチャンは、重大な問題に直面していた。

キリストに対する信仰は、召し、生計、家族を養うための技量に影響を与えていた。

町の守護神は、ゼウスの子であるティラノスだった。

テアテラにおいて、ティラノス礼拝は、やはり神の子の受肉であると主張したカエサル礼拝と合同で行われた。

テアテラにおけるクリスチャンと異教徒との闘争は、直近で中心的な課題だった。

故に、この教会に対するキリストのことばは、ご自身のみが神の子であるという主張だった。

黙示録では、キリストという特殊な称号が使われているのは、この箇所のみである。

この教会宛ての手紙は、異教や国家主義に対する妥協のない挑戦で始まり、イエスキリストの究極的で絶対的単一性を確固たるものとしている。

 

 

 


#11 再臨 The Second Coming: Wrath and Rescue, NO.8

2024年09月15日 | 再臨

The Second Coming: Wrath and Rescue

 

28分30秒から33分12秒まで。

◇◇

つい先ほど飛び込んできた動画。

☞ キリスト者と律法 ーあなたは律法と歩むのか、恵みと歩むのか-

動画配信者を批判したいのではない。

真っ当なクリスチャン(でありたい)なら、はやくこのレベルの議論を卒業して欲しい。

イエスの主張する聖書的善、特に山上の垂訓(モーセ律法の正規版)は実践しうるのか。

やって見れば分かる。恐らく2日ももたないはずだ。

結局、主の十字架の御前に土下座するしかないのだ。

携挙も同様。

真っ当なクリスチャン(でありたい)なら、一刻も早く卒業して欲しい。

迫害と苦難を通らなければ、神の国にふさわしい者ではない。

そう書いてある。

◇◇


たとえ、信仰のみによる義が現実であっても、

Rom 3:28  人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 

また、キリストのみを土台としているにせよ、

Rom 5:9  ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 

Rom 5:19  すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 

私たちがどのようにして神によって受け入れられ、どのようにして赦され、どのようにして神の家族に養子とされ、どのようにして御国に入場したのか、その方法とは何かということです。

Col 1:13  神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 

にもかかわらず、新約聖書全体を通して、不敬虔な者を義とすることにより、神はただただ義であると考えるのです。

それで、敬虔なる人は再臨のための準備が整います。

分かりますね。

新薬聖書全体はそのように組み立てられていて、これがあなたの責務です。

これが、聖徒たちに対するあなたの主な責務です。

彼ら聖徒たちが、栄光ある、驚嘆すべき、そして恥としないキリストに見合うだけの価値がある者とされるための責務。

ふさわしいとはどういうことでしょうか。

そのことばに躓くかもしれません。

私をふさわしい者とした。

私を御国にふさわしい者にした。

当然受けるべきという意味ではありません。

御国を当然受けるべき者という意味ではない。

マタイ3章8節。

Mat 3:8  それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
therefore, bear fruits worthy of repentance.

当然悔い改めを受けるべきという意味ではありません。

それでは意味がない。

実は悔い改めの後に来るはずです。

ふさわしい実を結べ。

これはどういう意味でしょうか。

ほぼすべての翻訳で、in keeping with as befit(相応している状態)と訳されています。

worthy(ふさわしい、相応しい)とはそういう意味です。

多くの苦難を経て、あなたの人生は、やがてやって来る栄光に、適切であるか、適合しているか、準備されているか、適切であるか、同調しているだろうか。

或いは、スーパーボール中継を見て、この世とともに閉ざされてしまっているか。

恥を知れ。

私は見ませんでした。

数秒の予告番組は見ました。

そんなことをしても、主の再臨の準備はできません。

こんなのではなくて、その後、少しばかり苦しむ必要があります。

私は極めて真剣です。

11節。

2Th 1:11  そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。 

苦難を通して、あなたをふさわしい者とするということ-これが、正当な裁きであるということのひとつの理由です。

このために、すなわち、再臨に際して恐れ慄くのではなく、栄光化し、驚嘆する準備を整えるために、私たちは、いつもあなたがたのために祈っています。

私たちの神が、あなたがたをその召しにふさわしい者とするために。

ここが、このテキストの終わりにおける最初の箇所です。

この箇所が(テキストの)論旨であり、宣教の目的であります。

再臨に関してであれ、何であれ。

私たちに任せられた人々を、キリストにある召命にふさわしい者とするために、私たちは宣教するのです。

また、空中で主とお会いするために引き上げられる時に、その者たちが持つ召命についてもふさわしい者であるようにと宣教するのです。

どのように彼らはふさわしい者とされるのでしょうか。

御力によって、善のためのあらゆる決意と信仰のあらゆる働きを神が完了することによって、であります。

つまり、

苦難をくぐり抜けて(働く)神の力は、信仰を純化し、愛の現実的な働きへと善的な決意と変えてくださいます。

そして、私たちからこの世への愛着を取り除き、主イエスが来られる時、主の栄光にふさわしい者として下さいます。

12節。

2Th 1:12  それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。 

あらゆる苦難と私の宣教、すべてのスモールグループ、あらゆる祈りという恵みによって、私たちの主イエスの御名があなたがたの中で栄光化され、あなたがたが主イエスの中で栄光化されるためです。

それらから流れ出す恵みが、あなたがたを全く異なる人にするのです。

 

 

 


#10 再臨 The Second Coming: Wrath and Rescue, NO.7

2024年09月11日 | 創世記

The Second Coming: Wrath and Rescue

22分19秒から28分30秒まで。

◇◇

師のメッセージ拝聴中だが、テサロニケ人への手紙に書かれていることは、テサロニケのクリスチャンのみに限定されたことなのであろうか。

2000年後のわれわれクリスチャンには無関係なのだろうか。

現在のクリスチャンに対する警鐘・忠告でもあると考えるのは当然だろう。

このことは聖書全体に当てはまる普遍的事実である。

そうであるなら、終末預言に関しても同じことが言えるのではないか。

当時の状況から考えて、主は、背教のイスラエルの滅亡が真近に迫っていることはひしひしと感じていただろうと思う。

イスラエル滅亡、すなわち旧約時代の終焉に対する警鐘とそれに対する備え・心構えは、そのまま世界終末における警鐘と備え・心構えと捉えても論理の飛躍とはならないと考える。

これまでの考察から、世界の終焉において起こるであろうことは、イスラエルの終焉において起きたこととよく似たことが起こると推察される。

(以前に指摘したように、これは敵の戦略の可能性があるのだが)

旧約の預言者は、未来において2つの山があるとは思いもせずに、2つの山のいずれか、または両者を預言したのだろう。

主は、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」と言いつつ、 「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」と語っておられる。

これは、イスラエルの終焉を意味しているものと思われるのだが

(但し、父だけが知っているというやや大げさな言い方は注目に値する)

さらに、「 人の子が来る(παρουσία、再臨)のは、ちょうど、ノアの日のようだからです」と付け加える。

間髪入れずに、再臨の時に起こることをはっきりと宣言する。

この地に残される真のクリスチャンが、迫害・艱難(洪水)を経て、主の栄光の下で地を相続し、統治する、と。

まだ途上だが、これがこのメッセージの論旨であろうと思う。

◇◇

何によって、パウロによる主の再臨に関する教えが整えられていくのでしょうか。

信仰者の迫害と艱難によってです。

4節。

2Th 1:4  それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。 

パウロは、諸教会の間で、あなたがたが耐えている迫害と艱難にありながら、不動の心(忍耐)と信仰、そして信徒たちの愛を誇りにしていると述べています。

艱難ということばを迫害に付け加えることによって、パウロはその拡がりが経験となっていく様を伝えています。

それは、抑圧や失望を言い表すより大きなことばであり、クリスチャンは、命へと通じる狭くて、困難な道を通らなければなりません。

イエスの言う「困難な」ということばは、抑圧された艱難ということばの動詞形であります。

それが命へと通じる道であり、従順の道を歩いている時、この状況に遭遇します。

テサロニケで起きていることは、苦しみということに関して何も異常なことではありません。

それがパウロの言いたいことです。

パウロは第1テサロニケ3章で、次のように述べています。

3節と4節。

1Th 3:3  このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。 

このために運命づけられている。

このためにここに置かれている。

これは、神のご計画です。

他のすべての教会に話したように、この教会にも最初から同じような話していました。

Act 14:22  弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。 

パウロは同じことをテサロニケにある教会にもくり返し話しました。

1Th 3:4  あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。 

あなたがたも、このような苦難を受けることになります。

テサロニケで起きていることは、何も特別なことではありません。

ただ単に普通のことです。

普通のこと。

迫害されるのは普通のことです。

迫害されないこともまた普通のことですが。

すべてのクリスチャンはこの道を歩みます。

Rom 8:17  もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 

こんなわけで、パウロが再臨に関して語っていることは、私たちにも関連があるのです。

私たちの苦難と関連している。

私たちがクリスチャンであるからです。

これがふつうです。

これは、神が定められた苦難です。

神によって、この上に私たちは置かれ、任命されている。

すべての信仰者に対する苦難。

すべての教会に対する苦難。

常に、、ある人には穏やかに、ある人には激しく。

パウロは基本的なことを言っています。

5節。

1Th 3:5  そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。 

あなたがたが耐えているあの苦難、あの迫害は、神の義の裁きの証拠。

それは、あなたがたの苦難において、神が取り扱い、神が裁き、神が決め、神が公平に支配している徴候です。

神は、誰に対しても、何をするにも、それを正しく、決して誤ることなく、取り扱っておられます。

そこで、疑問が起こります。

そのような苦難を定めることによって、神はどのように義、正義を示しているのだろうか。

この苦難は義であり、善であるということを、神はどのように示しているのだろうか。

この疑問に対して、パウロは3つの答えを与えています。

テキストにある通り、見ての通りであります。

この苦難が本当に義であるのかという疑問に対する3つの答え。

あなたは、テサロニケの人々を苦難と迫害のために任命された。

それは、本当に正しい裁きなのでしょうか。

この疑問に対する3つの答えは再臨において頂点に達します。

あなたが迫害や悲惨、苦難という状況に踏み込むなら、人々を再臨へと連れていかれるのですか。

さあ、再臨へと向かおうではないか。

火をつけよ。

新約聖書から得られるものだけではなく、再臨の取り扱い方を学ぶべきではないかと私は考えます。

苦難を通る人々のために神が定めた正当な裁きであるのかという疑問に対する最初の答えがこれです。

5節の中ほど。

2Th 1:5  このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

その裁きが正当である理由は、これがこのデザインとこの目的を持っているからです。

すなわち、あなたがたが神の国にふさわしい者であるということ、そのために、あなたがたは苦しんでいるのだということ。

だから、神が裁きを通すのは正しい。

その裁きとは、あなたがたが迫害されるということ。

あなたがたが神の国にふさわしい者であるために。

 

 

 


#9 再臨 The Second Coming: Wrath and Rescue, NO.6(私論)

2024年09月04日 | 再臨

The Second Coming: Wrath and Rescue

◇◇


初回配信で書いたように、旧約聖書において、主の初臨と再臨を明確に区別して預言している箇所はない(John Piper談、前回メッセージ)。

しかし、ヨハネ14章にあるように

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

また、黙示録22章にも

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 

とあるように

主イエスは、ご自身の再臨を明確に宣言しておられ、人類史(世界)の終わりが来る(黙示録20章~22章)。

一方、旧約の預言者たちの終末に関する預言は、イスラエル終焉の預言なのか、世界終末の預言なのかを明瞭に区別することはできない。これまで細部における記述を検討し、旧約預言者たちはもっぱらイスラエル終焉を預言したと結論付けたが、その後の考察から再考を要とする事態となっている。

イスラエルが終焉し、イエスの昇天後、新約時代が到来し、そしていずれ必ず世界の終末がやって来る。従って、年代が異なる2つの大きな山が存在するはずだが、旧約聖書預言には、この2つの異なる山を明瞭に区別する預言はない(John Piper談、前回メッセージ)。

また、イエスの初臨によって、旧約聖書(律法と預言者)はすべて成就したと考えるのが妥当(マタイ5:17-18)。

先に示したように、παρουσία(凱旋)というギリシャ語は、新約聖書においてはキリストの再臨のことを意味する。これは改革派神学においてはありふれた解釈ではないかと思われる。

マタイ24章においては、以下の4カ所で使われている。

Matthew 24:3 N-GFS
GRK: τῆς σῆς παρουσίας καὶ συντελείας
NAS: [will be] the sign of Your coming, and of the end
KJV: of thy coming, and
INT: the your coming and the completion


Matthew 24:27 N-NFS
GRK: ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ
NAS: so will the coming of the Son
KJV: also the coming of the Son
INT: will be the coming of the Son

Matthew 24:37 N-NFS
GRK: ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ
NAS: For the coming of the Son of Man
KJV: also the coming of the Son
INT: will be the coming of the Son

Matthew 24:39 N-NFS
GRK: καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ
NAS: so will the coming of the Son
KJV: also the coming of the Son
INT: moreover the coming of the Son

マルコ13章、ルカ21章では、παρουσίαは使われていない。

マルコ13章、ルカ21章、マタイ24章が、イスラエル終焉の預言であると推察される論拠は、それぞれ

Mar 13:30  Verily I say unto you, that this generation shall not pass, till all these things be done. 

Luk 21:32  Verily I say unto you, This generation shall not pass away, till all be fulfilled. 

Mat 24:34  Verily I say unto you, This generation shall not pass, till all these things be fulfilled. 

という一文があるためだ。

This generationはおよそ40年を指すことから、これらの終末預言はイスラエル終焉を指し示していると解釈するのが妥当。

マタイ24章においては、イエスの再臨を意味するπαρουσίαが使われているため、イスラエル終焉の預言ではなく、むしろ世界終末を預言していると考えることができる。

これは極めて重大な事実であり、解決すべき矛盾点である。

ひとつの預言が、2つの異なる時代を同時に預言しているということがあり得るのか。

この不明確な事実について、整合性が取れるような解釈があるのか。

さらなる検討が必要だ。

 

 

 


#48 The Days of Vengeance, NO.48

2024年09月03日 | 報復の日々

p110~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

ペルガモ:偽預言者と無神の王に対する裁き

2節12-17
Rev 2:12  また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。 
Rev 2:13  「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。 
Rev 2:14  しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。 
Rev 2:15  それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 
Rev 2:16  だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 
Rev 2:17  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』

白い石に名前が書かれているという事実は、上に掲げた石の解釈に矛盾しているように思われる。

ブデリウムの上に名前を記載するということは聖書には書かれていない。

しかし、このことは、その解釈を確信するために役に立つ。

旧約聖書において名前を刻印した石は、しまめのうだった。

2つのしまめのうは、大祭司の肩に置かれ、その石にイスラエル部族の名前が彫られた。

Exo 28:9  二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。
Exo 28:10  その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。 
Exo 28:11  印を彫る宝石細工師の細工で、イスラエルの子らの名を、その二つの石に彫り、それぞれを金のわくにはめ込まなければならない。 
Exo 28:12  その二つの石をイスラエルの子らの記念の石としてエポデの肩当てにつける。アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。 

しかし、しまめのうは白ではなく、黒い石だった。

これに関して、古いイメージから新しいイメージを生み出すために、ブデリウムとしまめのうが、イメージ(聖書に共通する比ゆ表現)の中で単純に結合されたと説明される。

ここではブデリウムが、しまめのうおよびマナと結び付けられている。

Gen 2:12  その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
Num 11:7  マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。  

これらは、救いの祝福に関して、エデンの回復を語っている。

この約束に関して、さらに説明が必要であろう。

その新しい名前を知る人はいないとキリストは言う。

しかし、その名前を受ける者はその名前を知っている。

この表現は、ヘブル語のイディオムに端を発していて、その名前を所有するという意味において、その名を受けた人によって知られているということを意味する。

言い換えると、新しい名前は秘密ではないが、閉鎖的であるということ。

勝利者のみ、すなわち、主イエスキリストの契約に属する者として、神によって定められた者のみがその名前を所有する。

その他は誰もそれに対する権利を持たない。

ペルガモにおける適応においては、異端であるニコライ派は、その教理や生き方に関してキリストに対する裏切者であり、クリスチャンという呼称を有することはできない。

その名は、勝利を得る者のみに授けられる。

彼らのみがエデンの園の再入場に相応しい。

彼らは、キリストの犠牲によって入城を認められ、キリストにあって、再定義され、新たに命名される。

 

 


#8 再臨 The Second Coming: Wrath and Rescue, NO.5

2024年09月01日 | 再臨

The Second Coming: Wrath and Rescue

14分00秒から22分19秒まで。

◇◇


ヤコブが「主の来臨は近い」、「主は戸口に立っている」と言う時、マタイ伝におけるイエスのことばを繰り返しているのです。

Jas 5:8  あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 
Jas 5:9  兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

Mat 24:33  そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 

ヤコブはこのことばを繰り返して、「主は近い」と言い、戸口ということばは、まさにマタイ24章33節におけるイエスのことばそのものであります。

これらすべての事々を聞き、見て、「主は戸口におられ近くにいる」と知る時、この映像を心に留めておく必要があります。

「近い」ということばは、主が途上にいるということでも、約300マイル離れているということでもありません。

1週間程のところにいるという意味です。

300マイル離れているということでもない。

主は戸口にいる。

主は常に戸口にすでに立っているということ。

何処かからやって来る途中にあるということでもない。

そういう映像ではありません。

主は戸口にいる。

時間という町のすぐ外に。

要するに、準備を怠ったり、為すべき責務を止めてしまうような空隙を仮定しないことです。

主に聞きましょう。

Mat 24:46  主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。 
Mat 24:48  ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、 
Mat 24:49  その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、 
Mat 24:50  そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。 
Mat 24:51  そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 

要するに、距離でも、遅延でも、無関心でも、怠慢でもない。

ポイントは、近く、戸口、霊的警戒、自分の仕事をする、準備をすること。

Mat 24:44  だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。 

特に、この世に酔いしれている時、霊的感受性を失っている時に。

主を留めているものは、距離ではなく、忍耐、慈悲、裁きという主権者の決意です。

2Pe 3:9  主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 

再臨の時に関する困惑は、新約聖書全体を通して存在し、ルカ伝と使徒伝などで取り扱われています。

Luk 19:12  それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。 

Act 1:8  しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 

Jas 5:8  あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 
Jas 5:9  兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。 

1Pe 4:7  万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 

2Pe 3:3  まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 
2Pe 3:4  次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 
2Pe 3:5  こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 
2Pe 3:6  当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 
2Pe 3:7  しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 
2Pe 3:8  しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 
2Pe 3:9  主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 
2Pe 3:10  しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 

パウロもこの事を、テサロニケ人への手紙、特に第2テサロニケで十分に取り扱っています。

ペテロも同様に、第1ペテロの手紙、第2ペテロの手紙で、この事を取り扱っています。

1Pe 4:7  万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 

2Pe 3:3~10(同上)。

先に挙げたように、パウロはテサロニケ人への手紙で広範囲に渡り、特に第2テサロニケ人への手紙で重点的にかつ詳細に取り扱っています。

よって、このメッセージの後半では、第2テサロニケ1章を、最後に第2テサロニケ2章と3章のふたつを取り上げようと思います。

私が目指すところは、第2テサロニケに従い、再臨の意義と妥当性を明らかにすることであります。

聖書を開いて下さい。

詳細について検討しますので、聖書を見て下さい。

手元に聖書がないのであれば、後で必ず開いて下さい。

第2テサロニケ1章3節から。

2Th 1:3  兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。 
2Th 1:4  それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。 

以上が状況、彼らは迫害と患難に耐えているとパウロは言っています。

2Th 1:5  このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。 
2Th 1:6  つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、 
2Th 1:7  苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。 
2Th 1:8  そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。 
2Th 1:9  そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 
2Th 1:10  その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちの中で栄光を受け、信じたすべての者の間で感嘆の的となられます。あなたがたに対する私たちの証言が信じられたからです。 
2Th 1:11  そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。 
2Th 1:12  それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。 
(一部改変)

 

 


#47 The Days of Vengeance, NO.47

2024年08月31日 | 報復の日々

p109~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

ペルガモ:偽預言者と無神の王に対する裁き

2節12-17
Rev 2:12  また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。 
Rev 2:13  「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。 
Rev 2:14  しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。 
Rev 2:15  それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 
Rev 2:16  だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 
Rev 2:17  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』


17節。

勝利は3つの事によって約束される。

第1に、キリストは隠れたマナを与える。

契約の箱に隠されたマナとは、キリストのこと。

Exo 16:34  主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。 
Exo 16:35  イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。 

Heb 9:4  そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。 
マナは、天使の食事という超自然的な恵みから得られた象徴であり、かつエジプトから脱出する際に、神の民に力と栄養を与えた。

Psa 78:25  それで人々は御使いのパンを食べた。神は飽きるほど食物を送られた。

基本的に、あらゆる時を捕えて、キリストはご自身の教会と会話する。

必要に関して、エデンという供給地で回復を図ることができた。

神のご計画と約束が最終的に成就する時までに、このことは歴史上徐々に認識されていくはずである。

第2に、クリスチャンには白い石が約束されている。

白い石は、祝宴のチケットや贖罪(義認)などの証拠、あるいはヨハネの時代の公的実践の褒美と考えられてきた。

無論これらの解釈は除外されるべきではないが、聖書黙示録によってこの石について考えると、はるかに満足すべき解答が得られる。

白い石はマナと関連すると聖書にあり、ブデリウムと呼ばれる。

Exo 16:3  イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」 

Num 11:7  マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。 

さらに、この石は、エデンの園と関連し、それを思い起こさせるように意図されている。

Gen 2:12  その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。 
救いとは新創造であり、神の民をパラダイスへと連れ戻してくれる。

Isa 62:2
そのとき、国々はあなたの義を見
すべての王があなたの栄光を見る
あなたは主の口が名づける
新しい名で呼ばれよう

 

 


#7 再臨 The Second Coming: Wrath and Rescue, NO.4

2024年08月29日 | 再臨

The Second Coming: Wrath and Rescue

8分00秒から14分00秒まで。

◇◇

私たちは罪の奴隷から解放され、罪は私たちを支配してはいないが、したくないことを行なうことのないように日々罪を殺さなければならない。

Rom 6:18  罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 

Rom 6:14  というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 

Rom 7:15  私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 

Rom 8:13  もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

私たちは死から命へと移ってはいるが、死ぬであろう。

Joh 5:24  まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 

Heb 9:27  そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 

私たちはキリストにあって新創造となったが、復活の体を待ち望んでいる。

2Co 5:17  だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 

Rom 8:23  そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 

私たちはキリストの御顔において神の栄光を見たが、ぼんやりとガラスの中で見たのであって、キリストが現れると彼のようになっていく。そのままのキリストを見るからである。

2Co 4:6  「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 

1Co 13:12  今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 

1Jn 3:2  愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 

この世に来られた時、キリストは「栄光ある困惑」という動きを据えた。

旧約聖書の聖徒たちや預言者たちにとって、神の民のための救いと、主を拒否する人たちに対する裁きの将来の山々は、ひとつの山だけのように見えた。

それ故、彼らは、メシアがこの世に来られ、シナゴーグでイザヤ61章を引用した理由が分からなかった。

主の霊が私の上にあり、主の恵みの年と私たちの神の報復の日を宣言するであろう。

Isa 61:1  神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、 
Isa 61:2  主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、 

彼らは、イザヤ書を用いてイエスが言っていることが2000年の時を超えて起こるであろうことを知る由もなかった。

この間に、異邦人の時と呼ばれる世界の福音化がある。

Luk 21:24  人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。

しかしながら、それに加えて「栄光ある困惑」があるとイエスは言わなかった。

私たちが期待していたように事は運んでいないし、事態は悪くなっていると弟子たちが思い始めた時、私たちには痛々しく思えてきた。

彼らが期待していた勝利のようにではなくなってきた。

彼らがそう思い始めた時、主は彼らを残し離れるであろうことを彼らは知った。

そして、主が助け主として聖霊を送るであろうことを彼らは知った。

Joh 14:18  わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。 

Joh 15:26  わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 

Joh 16:7  しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。 

「どれ位の間、あなたはここからいなくなるのですか」

「あなたが再臨して、王国を確立するのは何時ですか」

と、彼らは主に尋ねた。

彼らは狼狽し、そして私たちも困惑するのだが、それに対してイエスが言ったことは、「その日その時は誰も分からない。天の天使たちも子も知らない。ただ御父だけが知っている。」

Mat 24:36  ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

それ故、神なる人イエスは、人間としての性質上、ご自身の来臨の時を知らなかったと私は解釈しています。

彼の信者たちが「王国の樹立はもう間もなくですね」と主に尋ねることを(ルカ19章)十分に想定して、ひとつの例えを話された。

その例えはこう始まる、「ある高貴な人が遠くの国へと行った。そして、王位を受けて帰ってくるところたった。」

Luk 19:12  それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。 

遠くの国、近くの国ではない。

イエスはどれ程遠くの国か知らなかった。

これは大変重要な事実。

新約聖書を読む時、万物の終わりが近いという箇所を読む時、このことを常に覚えておく必要がある。

1Pe 4:7  万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 

Rev 22:7  「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」 

Php 4:5  あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 

Jas 5:8  あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 
Jas 5:9  兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。 

まるで著者らがイエスの来臨の時を知っているかのように、これらの記述を読むと、私たちは誤読してしまう。

御子でさえその時を知らないと言っているにもかかわらず、その時を知っていると主張することは、単純に間違いだっただけでは済まされない。

これは罪である。

*SDAの主張がその例。実際にその預言は外れた。

 

 

 


#46 The Days of Vengeance, NO.46

2024年08月28日 | 報復の日々

p109~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

*誤字脱字修正

◇◇

ペルガモ:偽預言者と無神の王に対する裁き

2節12-17
Rev 2:12  また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。 
Rev 2:13  「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。 
Rev 2:14  しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。 
Rev 2:15  それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 
Rev 2:16  だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 
Rev 2:17  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』

14-16節続き。


教会が祝福されるために、偽の教えが許可されてはならない。

キリストは、教会支配者に話しかけて悔い改めを求める。

偽教師たちを破門しなければ、教会の没落をもたらすであろう異端の背教者たちと同様に、その性格を暴露する必要がある。

教会員を訓練できない教会は破壊されるであろう。

たとえ、ペルガモのような忠実で模範となるような教会であっても。

もし悔い改めなければ、すぐにでもやって来て、私の口の剣で彼らと戦うであろうと主は警告を発する。

主の天使は、引き抜かれた剣をもって、バラムとすでに相対していた。

Num 22:31  そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。  

剣は彼を殺すために使われた。

Num 31:8  彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。 

すでに観察したように (see on 1:7 and 2:5)、キリストの来臨の警告は、人類史におけるキリストの来臨ではなく、当時の歴史内における裁きの来臨を意味する。

それは、ペルガモにある教会に対する差し迫った裁きであり、全世界を解放せんとする裁きではない。

Rev 3:10  あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。  

同様の原則は、キリスト教史において、くり返しくり返しくり返されてきた。

人民によって、また指導者によって、異端が猛威を振るう場合、キリストの妬みの怒りは破壊される瀬戸際まで教会を追い詰めていく。

 

 


#45 The Days of Vengeance

2024年08月27日 | 報復の日々

p108~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

ペルガモ:偽預言者と無神の王に対する裁き

2節12-17
Rev 2:12  また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。 
Rev 2:13  「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。 
Rev 2:14  しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。 
Rev 2:15  それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 
Rev 2:16  だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 
Rev 2:17  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』

14-16節続き。

使徒評議会に不従順であることにより、ニコライ派偽使徒たちは超法規的処置を主張した。

その教えとは、キリストの犠牲によって、クリスチャンは律法から自由であるというもので、これは聖化の聖書的教えと真向から対立する。

彼らの説明によると、姦淫や不品行の罪を犯すことはもはや罪ではなかった。

信者は律法に従う義務の下にはなく、好きなように生きることができた。

現代の無律法主義者と同様、彼らは、あのような忌まわしい行ないを聖化するために御霊の導きがあると主張した。

しかしながら、決して見落としてはならない重要なイメージ像がある。

偽預言者たちは、クリスチャンを偶像的食事や姦淫へと誘惑していた。

これは、エヴァが蛇に誘惑されたことと類似する。

禁断の木からエヴァが食べたことは、基本的に偶像崇拝だった。

姦淫に関しては、パウロによって語られている。

2Co 11:2  というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。 
2Co 11:3  しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。 

しかし、ニコライ派の誘惑を打ち勝った人たちな、命の木に近づくことが認められた (2:7)。

バラムの食事を拒んだ人たちは、天からマナが与えられ、名前がその石に書かれる人たちに加えられる(2:7)。