みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Subjective Working Of The Cross, #1-1

2016年08月27日 | 聖書研究・信仰
マタイ10:34
考えてはいけない
私は投げるために来た
平和を
地上の上に
私は投げるために来たのではない
平和を
むしろ剣を

マタイ10:35
私は来た
2分するために
男を
彼の父に対抗して
女を
彼女の母と対抗して
嫁を
彼女の義母と対抗して

マタイ10:36
その男の敵(となる)
彼の家の者たちは

マタイ10:37
私よりも父や母を愛する者は
私を受けるに値しない
私よりも息子や娘を愛する者は
私を受けるに値しない

マタイ10:38
自分の十字架を取らない
そして、私の後についてこない者は
私を受けるに値しない

マタイ10:39
自分の魂を得る者は
それを失う
自分の魂を失う者は
私の故に
それを得る



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Coffee Break, #50

2016年08月26日 | コーヒーブレイク


Watch out NOT to go into the wide gate and broad way leading to destruction !



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #10

2016年08月23日 | 聖書研究・信仰
ここで、神に奉仕をする際、特に注意を払ってほしいことがある。

肉と魂的命の生来のエネルギーがなす業とはまるで違うということ。

ローマ書7章に書いてある。

経験において知られていることすべてに関して。

主の死がさらに入り込んでいく必要がある一つ或いはそれ以上の領域がある。

その領域に踏み込まずして主のために仕えることはない。

あるとあらゆるこれらの経験に関してさえ、さらなるこの一点が我々の中で確立されなければ、我々は主に仕えるには至らない。

中国に次のようなことわざがある。

12フィートの壁を築き上げながら、同時に15フィートを取り壊しているような無駄な作業。

主によって遣わされている神のしもべは一体何人いるのか。

ある意味において遣わされているのだが、同時に破壊活動をしている。

時に、他のキリスト者の活動さえも台無しにしている。

十字架によって処理されていない何かのゆえに。

主がどのように魂を取り扱っているのか、その着手法を知る必要がある。

その方法がどのように主に対する奉仕という問題に触れているのか、より慎重に知っておく必要がある。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #9

2016年08月22日 | 聖書研究・信仰
そこで、全く異なる平面がローマ書7章において出現する。

ここでは「命の聖」の問題が取り上げられている。

生きた、個々人の聖だ。

ここに、義に生き神を真に満足させたい神の人を見る。

この男が律法の下に来るや、律法がこの男を見つける。

自分の肉の力を駆使して、神を満足させようとする。

主の十字架が彼をある場所へと連れ出す。

その場所で、この男は「私はそれができない」

「自分の力では、どうしても神を満足させることができない」

我らの主イエスキリストの死の力がこのように働いていることを発見するために、深い海の底を通ってきた者がいるに違いない。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #8

2016年08月21日 | 聖書研究・信仰
主の死は、さまざまな方法で働き、さまざまな側面を持っている。

いまや我々は、主の死が我々の罪々の赦しに関して如何に働くかを知っている。

我々は皆、罪の赦しは流された血潮に基づいていることを知っている。

そして、主の流された血潮なくして、罪から逃れる術はない。

ローマ書6章において、罪の力に収支を合わせるために、どのように死が働くかを見てきた。

我々の古い人は十字架に付けられ、もはや罪に仕えることはないことを知っている。

主の死は我々の解放についても働いていることを大いに感謝する。

以上のことを踏まえてもなお、自己の意志という問題が起きる。

故に、献身の必要があるのだ。

我々は主イエスの死が次のように働くのを知る。

すなわち、我々の意志が去り、主に従うことの満足が我々の中にもたらされるように。

これが奉仕の出発点だ。

しかし、それでもまだ問題の核心に触れてはいない。

魂が意味することに関する知識をいまだ得ていないと思われる。







コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #7

2016年08月20日 | 聖書研究・信仰
旧約聖書に戻ると、同じような事実を見つけることができる。

民数記の17章に見慣れた箇所があるだろう。

アロンの祭司活動のことが論議されている。

人々の間で、アロンが真に神の選びかどうかが問題視されている。

人々は疑いを抱き、次のように言った。

「その男が神に任命されているのかどうか我々は分からない」

そこで、神は、誰がご自分のしもべかどうかを証明し始める。

神はどのようにして証明するのだろうか。

ある証言に対するために、至聖所の中に12本の死んだ杖を主の御前に置く。

そして、一晩そこに置く。

翌朝、発芽し、花を咲かせ、実を結んだ杖によって、主が選んだ祭司が分かる。

このことの意味は分かるはずだ。

芽吹いた杖は復活を予表する。

神が認めた祭司に烙印を押すのが死と復活だ。

アロンの杖が芽生えたので、アロンが真の基盤の上にあるが分かった。

死と復活の基盤を通ってきた者のみを、神はご自身の祭司として認めるのだ。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #6

2016年08月19日 | 聖書研究・信仰
他の表現をすれば、聖霊とは壷のようなお方だ。

その壺の中に、主の死、復活、そして昇天という貴重な贈物が詰まっている。

それらが我々に与えられる。

聖霊とは、それらを内に満たしているお方。

それらを人に取り次ぐお方。

それ故、主が栄光化されなければ、聖霊は与えられないであろう。

聖霊のみが、男でも女でも、証人となる者すべての上に留まるであろう。

キリストの死と復活の価値を知らずに、証人となることはない。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #5

2016年08月18日 | 聖書研究・信仰
主イエスが地上で成した御業のすべては、十字架の死の原理とともに行われたと言えるのではないだろうか。

それは十字架による現実の死刑執行に先立つ。

実際の事件としてカルバリーのことが将来の事実としてあるのだが、基本的に復活もそうだ。

死と復活いずれも、実際の事実に先行する。

主が成したすべての御業は、十字架の死の原理に基づいている。

人の子が業を為すために死と復活を経る必要があるとすれば、我々がほかに何かすべきことがあるだろうか。

主に仕えるしもべなら、自身の人生を通して、その原理の働きを知っているはずだ。

疑問の余地はない。

主はこの世を去る前に、弟子たちにこのことを明確に示した。

主は死んで後、復活した、

主は弟子たちに、いずれ下る聖霊ゆえにエルサレムで待つよう命じた。

この聖霊のパワーとは一体何だろう。

主が話す「上からのパワー」とは何か。

これは、主の死、復活、そして昇天の力に他ならない。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #4

2016年08月17日 | 聖書研究・信仰
巧妙に仕組まれたサタンの目的は、主イエスに独力で行動させることにあった。

すなわち、その魂によって。

主はそのような行動を徹底的に拒絶した。

主はご自分の立場を貫いた。

アダムにあって、人は神から離れて自ら行動していた。

それが、エデンの園の悲劇であった。

しかし、同様の状況にあっても、いまや人の子は別の基礎の上に立つ。

後に、主イエスはその基礎を根本的命の原理と定める。

私はギリシャ語原典におけるこのことばが好きだ。

「子は自分からは何もできない」(ヨハネ5:19)

魂の生き方を徹底的に否定することが、主の宣教活動全般においてとことん貫かれていたことであった。


ヨハネ5:19
οὐ δύναται ὁ υἱὸς ποιεῖν ἀφ᾿ ἑαυτοῦ οὐδὲν
(GNT)


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Basis Of All True Ministry, #3

2016年08月16日 | 聖書研究・信仰
主がバプテスマを受けた後、何が起きたか。

公に宣教を開始する前に、サタンが現れて主を試みた。

サタンはそそのかした。

石をパンに変えて、お前の必要を満してみろ。

奇跡を起こして神殿の庭に現れ、お前の業に対する尊敬を今すぐ勝ち取れ。

お前のために定められた世界支配を直ちに確認せよ。

我々は次のように思うかもしれない。

何故サタンは、主にそのような不可思議なことをするようにそそのかしたのか。

いや、こう思うかもしれない。

何故サタンは、より巧妙な方法で主に罪を犯すようにそそのかさなかったのか。

サタンはそうしなかった。

もっと賢かった。

サタンは言った。

「もしお前が神の子なら、これらの石にパンになれと命じてみろ」

どういう意味だろうか。

その意味はこうだ。

「もしお前が神の子なら、それを証明するために何かをやってみろ」

「これは挑戦だぞ」

「お前の主張が本当かどうか疑問に思っている者がいる」

「お前が神の子なら、はっきりそう宣言して、その問題に終止符を打ったらどうなんだ」



コメント
この記事をはてなブックマークに追加