みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Holy Spirit and the Body, #13

2016年12月04日 | 聖書研究・信仰
「それ故」ということばを使うことによって、使徒パウロは、以前に宣言したことを超えて続ける。

12節は、10節と11節の延長線上にある聖句だ。

10節で、体は死んでいると宣言する。

続く11節では、聖霊がこの体に命を与えることを告げる。

この2つの体の状態に基づいて、使徒パウロは次のように結論付ける。

「それ故、兄弟たちよ、我々は負債者ではない、肉に対して、肉に従って生きることに対して」

まず、罪のゆえに体は死んでいるので、体に従って生きることはできない。

体に従って生きるということは、罪を犯すということだ。

第2に、聖霊が我々の死ぬべき体に命を与えて下さったので、肉に従って生きる必要がない。

もはや体は、我々の霊的命と結合しうる権威がない。

神の霊の備えにより、我々の内なる命は、独立して外なる殻(フレーム)に直接命ずる能力を有している。

かつて我々は、肉の要求、願望、欲望に閉じ込められた無能な肉に対する負債者であった。

かつて我々は、多くの罪を犯しつつ、肉に従って生きていた。

しかし、今や我々には、聖霊の備えがある。

肉の欲は我々を支配しないばかりか、その弱点、病、苦悩さえも、我々に対する支配権失ってしまった。



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The Holy Spirit and the Body, #12

2016年12月02日 | 聖書研究・信仰
ロ-マ8:12
それ故、兄弟たち、
我々は負債を負っていない
肉に対して
肉に従って生きることに

この聖句では、信仰者と彼の体の間の関係を、適切かつ十分に説明している。

肉という外枠(フレーム)に対して奴隷となっている兄弟は数多い。

多くのキリスト者の霊的命は、彼らの体の中に投獄されている。

彼らは、2つの異なる人として存在する。

内なる人まで退くと、自分は霊的であるという感情を持ち、神へと近づき、そして、命に満ち溢れる。

しかし、外なる肉において生きる時、肉に堕ちていくことを知り、神から離れていく。

体に服従しているからだ。

彼らにとって、体が重荷となる。

ちょっとした肉体的不快感が、彼らの生き方を変えてしまう。

些細な病気や痛みによって取り乱したり、自己愛や自己憐憫でいっぱいになる。

このような状況で、霊的な歩みを進めることはできない。



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The Holy Spirit and the Body, #11

2016年12月01日 | 聖書研究・信仰
これが神によって神の子ら全員に与えられたもの。

しかし、この死ぬべき体に聖霊によって与えられた命を、日々経験しているキリスト者は一体どれくらいいるだろうか。

この体の状態によって、霊的な生き方が危機的状況にある者は多いのではないか。

体の弱さゆえに落ちていく者。

病気ゆえに神のために奉仕できない者。

神の備えがあるにもかかわらず、今日のキリスト者の経験はそれに相応していない。

この矛盾を説明しうるいくつかの理由がある。

神の備えを受け入れない者たちがいる。

彼らは神の備えが自分らとは関係がないと主張する。

一方、神の備えを知り、信じ、願う者たちもいる。

しかし、彼らは自分らの体を生きた供え物として献げようとはしない。

彼らは、神は独力で生き抜く力を備えて下さったと固辞する。

しかるに、心から神のために生きることを希望し、主の約束と備えを訴える者たちがいる。

彼らは、聖霊によって与えれた体の中にある命の充満の実際を経験する。



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Coffee Break, #59

2016年11月30日 | コーヒーブレイク
And Jesus went about all Galilee, teaching in their synagogues,
and preaching the gospel of the kingdom,
and healing all manner of sickness and all manner of disease among the people.





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The Holy Spirit and the Body, #10

2016年11月29日 | 聖書研究・信仰
この11節によって、神は体における特権を子らに告げ知らせる。

体における特権とは、内住する聖霊を通して、死ぬべき肉の体(フレーム)にとって命となるものである。

「罪の体」が聖なる体になると言っているのではない。

「低級な体」が栄光の体に変えられると言ってはいない。

この死の体が不死になるとも主張してはいない。

この命において、このようなことは現実化しない。

我々の土くれの器の復活は、主が再臨し、我々をご自身に受容れるまで待たなければならない。

この時代において、我々の体の性質を変えることは不可能だ。

それ故、聖霊が我々の体に命を与える意味とは、以下のように要約される。

(1)我々が病気になると、聖霊は復して下さる。

(2)もし病気でないなら、聖霊はその状態を維持して下さる。

聖霊は、土くれのテントに力を与えて下さる。

以て、我々は神の要求を満たすことができる。

以て、自身の命ゆえの歩みを止める。

以て、神の国が我々の体によって病むことはない。



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The Holy Spirit and the Body, #9

2016年11月28日 | 聖書研究・信仰
この聖句が具体的に説明していることはこうだ。

もし神の霊が我々の中に宿るのなら、この内住する力によって、神は我々の死ぬべき体にも命を与えて下さる。

これは将来の復活について言っているのではない。

ここでは、それが主題ではない。

単純に、主イエスの復活と今日我々がこの体に命を受け取ることとが対比されている。

ここで注目されているのは、死ぬべき体のみだ。

死に渡されてはいるが、まだ死んではいない。

キリスト者の体は霊的には死んでいる。

それは墓場に向かって突き進み、死ななければならない。

しかし、文字通りの意味において、すでに死んでしまっている状態とは全く違う。

聖霊の内住が画期的出来事であるように、聖霊が我々の死ぬべき体に命を与えてくださるのもまた同様に画期的な経験である。

ここでは、新生のことを言っているのではないことに注意を要する。

聖霊は我々の霊に命を分け与えるのではない。

我々の体に命を与えてくださるのだ。



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Coffee Break, #58

2016年11月27日 | コーヒーブレイク
How to bring Heaven to Earth

https://www.youtube.com/watch?v=Kw9lEo1AwyE&feature=youtu.be



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Coffee Break, #57

2016年11月27日 | コーヒーブレイク
Jesus healed all sick people that were taken with divers diseases and torments, and those which were possessed with devils, and those which were lunatick, and those that had the palsy.

主イエスは、潜函病や激痛のある者たちを皆、悪魔に憑かれた者たちを皆、発狂した者たちを皆、麻痺となった者たちを皆、癒した。

これ、絵に描いた餅になっていないか。
ここに神の国がある。




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The Holy Spirit and the Body, #8

2016年11月27日 | 聖書研究・信仰
「死者から主イエスを蘇らせた」お方とは神だ。

何故、直接「神」と言わないのか。

死者から主イエスを復活させたという神の御業を強調するため。

神がイエスの死体を復活させたように、我々キリスト者の死ぬべき体をも復活させることができるという神の実現可能性に注目させるためだ。

聖霊とは神の霊だ、と間接的ながらパウロは言う。

そして、そのお方は復活の霊でもある。

パウロは、再度“if”という単語を使う。

「もし、そのお方の霊が・・あなたがたの中に宿る・・そのお方は・・あなたがたの死ぬべき体に命を与えるであろう」

聖霊は信仰者の中に存在するということを、間違いなくパウロは信じている。

9節でパウロは言及する。

キリストに属する者は誰でも、キリストの御霊を持つ。

パウロが言いたいことはこうだ。

我々の中には聖霊が宿っている。

それ故、我々の死ぬべき体は聖霊の命を経験する。

これが、内在する御霊を持つ者たちすべてによって共有されている特権だ。



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The Holy Spirit and the Body, #7

2016年11月26日 | 聖書研究・信仰
確かにこの体は霊的に死んでおり、その命も死んでいる。

では、如何にして我々はこの体を取り扱えばよいのか。

死んでいるこの体の命と関わることなく、どのように霊的命の要求に反応すればよいのか。

我々の体は、うちなる命の御霊の御旨を行なうことはできない。

これだけではない。

我々の体は、御霊に反逆するだけではなく戦いを挑んでくる。

では、如何にして聖霊は我々の体が主の召命に答えることができるように導くのだろうか。

御霊ご自身が、死のこの体に命を与えて下さる以外に方法はない。



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