☞ The Second Coming: Wrath and Rescue
38分49秒から47分まで。
◇◇
議論その2.
それは正しい裁きであります。
神がお定めになった義なる裁き。
神は、まず最初に苦難をテサロニケの人々へともたらしました。
何故なら、その苦難は、キリストの来臨の時に喜び驚くために、彼らの聖のためにデザインされたからです。
第2に、それを脅かす人々が、罰せられずにすまされないためです。
それが義なる裁きです。
問題は解決されるでしょう。
第3に、第2テサロニケ1章6-7節。
2Th 1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
2Th 1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
私たちの苦難において、神の裁きは義です。
苦難を与える者たちは苦難をもって報われ、一方、苦難を受ける者たちは、安息をもって報われる。
2000年もの間、教会が耐えて忍んできた、もがき苦しむほどの苦難を考える時、世界の歴史において、アメリカの存在などとるに足りないと言えるでしょう。
2000もの間、クリスチャンが堪え忍んできた、身をよじるほどの苦難を考える時、私たちは、安息を、単なる苦労のない状態、単なる痛みのない状態と考えるべきではありません。
全く、違う。
イエスは、再臨のことをこう宣べています。
「あなたの主人の喜びの中に入れ。」
Mat 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
つまり、この安息というのは、単に「ない状態」というのではなく、あらゆる苦痛が「栄光の中で完全に消え去った状態」を言います。
あらゆるものを超越して主を楽しむことのできる、栄光が溢れるほどの神なる喜びの中。
従って、ここに書かれている安息とは、神の裁きの義が苦痛の消滅をはるかに凌駕することを明言しているのです。
イエスは言います、「多くの艱難を耐え忍ぶ者は、天における報いは大きい。」
Mat 5:12a 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
この安息がやって来る時、あなたはそれを想像できません。
パウロのことばを聞きましょう。
今のこの時の苦痛は、後に明らかにされる栄光とは比較しようがない。
Rom 8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
何故これらの苦難や忍耐が義なる裁きの証拠なのかという疑問に対して、パウロは3つの答えを述べています。
主の再臨の時に驚愕するほどの喜びが満ち溢れるために準備をすることが、神のデザインであるということ。
準備を怠る者たちや問題を引き起こす者たちは、安息を得ることができないということ。
最後の日に、クリスチャンは安息を得ることができるということ。
あなたがたが耐え抜いたあらゆる苦難を、神は間違いなく書き記しています。
それゆえ、来たるべき時には、適切な対応をする必要があります。
その時、これら3つのことは、最高点に達します。
再臨の時に、それらはクライマックスに達します。
第2テサロニケ1章7節から10節に戻ります。
2Th 1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
報復を与えるために、主は現れます。
報復するために。
2Th 1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
2Th 1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
紀元70年のパレスチナの少数民族ではなく、そのような者たち一人残らず、切り落とされ、滅ぼされ、永遠の刑罰に入ります。
その日、主が来られて。
2Th 1:10 その日に、主イエスは来られて、(よみがえって命を得るすべての)聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての人たちによって賞賛を受けます。あなたがたに対する私たちの証言が信じられたからです。
(一部改変)
これが、世界の歴史において教会が経験する、最も悲惨で、最も栄光に輝く出来事の記述です。
再臨ということばがいやというなら、これは新約聖書の専門用語ではありませんが、単に来臨ということばπαρουσία(parousia、パル―シア)という意味であり、それで結構です。
παρουσία(parousia、パル―シア)とは、来臨または再臨という意味。
パウロはこのことばπαρουσίαに関して、7つのことを述べています。
第1点。
7節の中ほど、その意味はrevelation、覆いを取り除くこと。
主が現われる時。
1Pe 1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
今はまだ主は隠されています、そうですね。
主の覆いが取り除かれることを私たちは願います。
主よ、来てください。
主は隠されている。
そして、主の覆いが取り除かれる。
第2点。
この現れrevelationは、来臨によって起きる。
来臨は、幻想や夢、幻影によってではない。
これは主の出現という出来事であり、主は実際にやって来ます。
主は体を持っています。
空間を移動します。
Act 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
昇天した時のように、主はやって来ます。
それが、栄光化されて、目で見ることのできる肉体を持つ主の来臨です。
第3点。
主は天からやって来ます。
主イエスは、天から現れる。
御父の右手に座して、主が今統治しているところが天。
主はやって来ます、天の御座からこの地へと移動します。
第4点。
7節中ほど。
主は力あるみ使いたちとともにやって来る。
主イエスが力あるみ使いたちとともに天から現れる。
栄光ある側近であるみ使いたちと引き連れて、主はやって来られます。
その光景はまさにぴったりです。
そして、み使いたちは聖徒たちを集めます。
主は言います、「私はみ使いたちを送り出し、四方から選ばれし民を集める。」
Mat 24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
2Th 2:1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
2Th 2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
それがみ使いたちの主な務めです。
加えて、主を崇めます。