みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Light Of God And Knowledge, #3

2016年07月29日 | 聖書研究・信仰
自分の内部を調べよと聖書には書いていない。

そんなことをしても、結局、不確か、動揺、絶望に終わる。

もちろん、自分を知っておく必要はある。

内部で何が起こっているのか知るべきだ。

バカ野郎のパラダイスに住もうとは思わない。

誤った道を歩んでいるのに、何が悪いのか分からない。

頑固な自我を持っているのに、神の意志を追及していると思い込んでいる。

内に向きを変えても、己れのことは分からないのだ。

自分の感情、動機、うちで働いているすべてのことを分析しても無駄である。

肉によって歩んでいるか、御霊によって歩んでいるかを声高に言い放っても無駄だ。



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The Light Of God And Knowledge, #2

2016年07月28日 | 聖書研究・信仰
若い兄弟姉妹と話すたびに、繰り返し出てくる疑問がある。

これだ。

御霊によって歩んでいるのかどうかをどのように知ることができるか。

自分の中で急き立てているものが、御霊から出ているものなのか、自分から出ているものなのか、どうやって区別すればいいのか。

すべては恐らく次のようなことであろうと思われる。

しかし、あることはさらに根が深い。

あの者たちが我々の内部を覗き込んでくる。

違いを見つけようとする。

差別しようとする。

分析しようとする。

そうすることで、我々はその者たちとさらに深い関係を築いていく。

信仰生活において、これは大変危険な事態だ。

自分自身を知ることは、自己分析という不毛な道に沿って歩むことによっては完徹できない。










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The Light Of God And Knowledge, #1

2016年07月27日 | 聖書研究・信仰
もちろん、真心から主に仕えようと思わないなら、光の必要性を感じないだろう。

人が光の必要性を感じるのは、神によって捉えられ、主とともに前進したいと思う時だけだ。

光をどうしても必要とする時がある。

神の思いを知りたいと思う時。

霊から出たものか、魂から出たものか知りたい時。

神由来であるか、単に人由来であるか知りたい時。

霊的な事柄と肉的事柄の違いを知りたい時。

神が本当に主導しているのか、或いは己れの感情、五感、想像で歩んでいないかどうか知りたい時。

信仰生活において光が最も必要であると思う時とは何時か。

それは、我々が真心から神に従いたいと思う地点に到達した時だ。



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Natural Energy In The Work Of God, #15

2016年07月26日 | 聖書研究・信仰
言われればそうだと、このことを単純に理解することはできない。

神は、その意味するところを教えてくれる。

見るものに指を置き、そして言うだろう。

「これは生まれながらのもの」

「その源は旧創造にある」

「それは残されることはない」

神が動いてくださって初めて、我々はそのことが分かる。

しかし、実際それを理解できない。

キリスト教の教理に同意し、むしろ楽しむかもしれない。

正直言って、自分を否むことはできない。

神が我々の眼を開いて下さる時、その時は来るだろう。

ある問題に直面して、我々は啓示によって必然的に言うことになるだろう。

「これは汚れている」

「これは不純だ」

「主よ、ついに知ることができました」

「純粋」ということばは、祝福されたことばだ。

私はいつも、そのことばと御霊を関連づける。

純粋とは御霊のともにある何かを意味する。

不純とは混合である。

神が我々の眼を開いて下さり、ご自身の業において生まれながらの命はを全く必要ではないことを神ご自身が教えて下さる時、我々はキリスト教教理などにどっぷりと浸かっている時ではないことを知る。

そんなことより、我々は自分の中にある不純ゆえに自分自身に憤りを感じる。

このような地点に達すると、神は解放の御業を開始する。

神が解放のために為している備えを、じきに見ることになるだろう。

しかし、我々は、もうしばらくこの啓示の事実とともにじっとしている必要がある。



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Natural Energy In The Work Of God, #14

2016年07月25日 | 聖書研究・信仰
出発点は終着点を決定する。

始めに肉から出たものは、いくら改善しても決して霊的なものにはならない。

肉から生まれるものは肉。

決して他のものにはならない。

我々が自身において十分であるとするものは何であれ、神の評価においては無。

まずは主の評価を受け入れる必要がある。

それはチリあくたと書き記せ。

「肉には何も良いものはない」

耐えうるもの、それは上から来るものだけだ。



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Coffee Break, #48

2016年07月24日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=ifpOnqYEkBs
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Natural Energy In The Work Of God, #13

2016年07月24日 | 聖書研究・信仰
我々は、この判断に到達する必要がある。

やれることに多大な制限がかかるということではない。

いや、やってもよい。

集会を持つのもよい。

教会を建てるのもよい。

地の果てまで行って、宣教団を創設するのもよい。

実を結ぶようであってもよい。

しかし、次の主のことばを覚えておいて欲しい。

天の父が植えなかった植物は皆、根こそぎにされるであろう(マタイ15:13)。

神は、宇宙における唯一の合法的創始者だ(創世記1:1)。

人が計画し着手することは何であれ、その原点は肉にある。

どれだけ熱心に神の祝福を追い求めても、御霊の領域に到達することはできない。

その労苦は何年も続くだろう。

これを修正し、あれを改善しようかと思うだろう。

いくらか良くなるかもしれない。

しかし、決してその計画は達成されることはない。




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Natural Energy In The Work Of God, #12

2016年07月23日 | 聖書研究・信仰
かつて、若い兄弟と会ったことがある。

若い、つまり、年齢的にはそうだが、主に関して多くのことを学んできた男だ。

ご自身のことを学ばせるために、主によって、彼は多くの艱難を経験した。

その彼といろいろな話しをした。

「兄弟、昨今、主はあなたに何を教えておられますか」

彼は言った。

「たったひとつのことだけ」

「主から離れては何もできないということです」

私は聞いた。

「何もできないとは、どういう意味ですか」

彼は答えた。

「私はいろんなことができます」

「実際のところ、それが私の悩みの種となっているんです」

「ええ、私はいつも自分にはかなりの自信がありました」

「たくさんのことをうまくやりこなせるんです」

そこで、私は尋ねた。

「主から離れて何もできないと言う時、あなたの言いたいことは何ですが」

彼は答えた。

「私は何でもできることを、主は示してくださいました」

しかし、彼は続けてこう言った。

「私から離れて、あなたは何もできない」

つまり、こうだ。

「主から離れて自分がやってきたこと、そして主から離れて自分でできることは、一つ残らずチリあくた!という意味です」



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Natural Energy In The Work Of God, #11

2016年07月22日 | 聖書研究・信仰
簡単に自分の改心の話しをした後、あの村々へと宣教活動に出かけた。

自分で言うのも何だが、私は教育を十分に受けた経験がある。

また、聖書に関しても大変良く研究を積んでいる。

それで、村民たちを指導する任務に十分耐えうるものと考えていた。

村民たちの中の婦人の多くは無学であった。

何度か訪問して、次のことを見出した。

無学にもかかわらず、彼女たちは主に関する深い知識があった。

彼女たちはつっかかりながらも聖書が読めることを知った。

彼女たちは聖書が話すお方を知っていた。

一方、私は肉において多くを知っていた。

彼女たちは霊において多くを知っていた。

今日、かなり多くのキリスト教指導者たちは、かつての私のような教え方をしている。

肉の力に頼って教える仕方によって。



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Natural Energy In The Work Of God, #10

2016年07月21日 | 聖書研究・信仰
生まれながらの才能と霊的才能の違いが分かっただろうか。

祈ることなしにうまくやれることや神に依存することなくできることは何であれ、生まれながらの命がその源である可能性が高いか、或いはその疑いがある。

この点を明らかにしておく必要がある。

もちろん、生まれながらの才能を欠くような人々が就くといった特殊な仕事は例外だ。

ポイントはこうだ。

生まれながらに恵まれているかどうかではなく、キリスト者なら生来に関するすべてに、主の十字架のタッチを知る必要がある。

加えて、復活の神への完璧な依存をも知る必要がある。

あまりに軽率に、ずば抜けた生まれながらの才能を持つ隣人を妬む。

そして、主の十字架の業をそっちのけにし、自分にもそのような才能があることを理解しようとしない。

そして、神がうちに現わそうとしている何かに対して、自ら壁を作っていることが分からないのだ。



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