遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(63)

2008-12-16 | 富山昭和詩史の流れの中で
37年5月、ザベンチャーズが来日、それをきっかけとして、翌38年にいわゆる「エレキブーム」が現出する。地方の小・中学校や市長がエレキ追放に必至となるが、三年後の41年6月にはザ・ビートルズが来日、7月1日、日本武道館で一万人の若者を熱狂させ、エレキブームは最高潮に達する。

そしてグループ・サウンズが日劇ウエスタンカーニバルの主役となり、ザ・スパイダースの堺正章の長髪がNHKから閉め出され、43年には、日劇をとりまいた若者の列は二キロ先の都庁(当時の)にまで続いていたといわれた。
こうして、この「ウエスタン・カーニバル」のステージを次のような人々が盛り上げ、巣立っていった。

平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、水原弘、坂本九、ダニー飯田とパラダイスキング、守屋浩、ジェリー藤尾、寺元圭一、飯田久彦、田辺靖雄、鈴木やすし、鹿内タカシ、内田裕也、尾藤イサオ、森山加代子、中尾ミエ、園マリ、伊東ゆかり、梓みちよ、ザ・ピーナッツ、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、布施明とフォー・メイツ、ザ・タイガース、フォーリーブス、ザ、スパイダーズ、加瀬邦彦とザ・ワイルド・ワンズ、ザ、テンプターズ、ロック・パイロット、田代みどり、清原たけし、西城秀樹、沢田研二、郷ひろみ、フィンガー5、あいざき進也、ずーとるび、ジャニーズ・ジュニア、キャンデーズ等々。(まだまだ書き忘れがあります)

そして「ダイアナ」「君は我が運命」「カラーに口紅」「情熱の花」「悲しき16歳」「オー・キャロル」「悲しき足音」「メロンの心」「恋の汽車ポッポ」「恋の片道切符」「ポケット・トランジスタ」「月影のナポリ」「ジェニジェニ」などのヒット曲が若者の心をとらえていった。

その日劇も56年2月、昭和8年以来の半世紀の幕を閉じ、その跡地にマリオンが誕生した。


昭和歌謡曲の軌跡62

2008-12-15 | 富山昭和詩史の流れの中で
ところがこの日劇「ウエスタン・カーニバル」は舞台稽古の最中に丸の内警察から電話で問い合わせがきたぐらい、開演前から千人以上の親衛隊が劇場をとりまき、開演と同時に三千の客席は満員で、テープやらハンドバック、パンティからナイフまで投げられる狂乱の熱気が渦巻いた。

寺本圭一とスイング・ウエスト、ミッキー・カーチスとクレージィ・ウエスト、平尾昌晃とオールスター・ワゴン、山下敬二郎とウエスタン・キャラバン、岡田朝光、
関口悦郎らに、水谷良重(現在の、八重子)中島そのみらが加わっていたが、いずれも当時は無名のロカビリー歌手ばかりだった。

この熱狂ぶりは早速新聞で報道され、それがまた狂乱に輪をかけ、戦前の李香蘭出演依頼の爆発的人気となった。

ともあれ、この「ウエスタン・カーニバル」は昭和52年8月の第6回日劇ウエスタン・カーニバル「直撃!ロックンロール大旋風」まで二十年以上にわたり年3回
の公演を続け、56年1月22日から25日までのサヨナラ日劇公演「日劇ウエスタン・カーニバル-俺たちは奔り続けている!」で完全におわる。

1977年8月16日、心臓発作でエルヴィス・プレスリーは42歳の生涯を閉じたのだが、ロカビリー旋風は形を変えて生き続けた。
33年9月「ダイアナ」や「君はわが運命」のポール・アンカが来日して、ブームに拍車をかけ、35年4月には「恋の日記」「恋の片道切符」のニール・セダカが、9月にリッキー・ネルソンが日本のファンにお目見えした。

今日は短い文章になりました、以下は明日に。


(以下続く)

昭和歌謡曲の軌跡(61)

2008-12-14 | 富山昭和詩史の流れの中で
浜村美智子の〈ディーォ〉のカリプソが一斉を風靡した。それ以前、昭和30年マンボ・ブームが起こっていたが、このカリプソの爆発的流行は、あたらしいリズムを求めて奔走する光景を音楽界にもたらし、チャチャチャ、ボサノバ、ツイスト、スクスク、どどんぱ、等々起こっては消えていく行く流行現象を生み出した。

34年11月9日にラジオ東京の「東京ダイヤル」でマダム・キラーの異名をもっていたDJの竹脇昌作(無我の父)が、自宅の物置で首吊り自殺をとげ、49歳の短い生涯を終えたのは、きわめて印象的な事件であった。

昭和33年もう一つのブームはオーストラリアで考案されアメリカ経由で日本に入ってきたフラフープがある。この玩具は歌舞伎の「助六」や文楽の狂言にまで登場。
翌々35年にはだっこちゃんが登場、(メーカーが正式に登録したのがウインキー)
フラフープをヤりすぎた少女の死、と言うニュースが流れて一気に下火となる。
わずかの期間でで売り上げは550万個、約一億円であったという。
こうしたブーム現象の頂点にたったのが、ロカビリー旋風であった。

アメリカで50年代に流行したリズム&ブルースがロックンロールに移行し、これが日本の音楽シーンに昭和30年代に導入されると、日本ではそれまでカントリー&ウエスタンを得意として唄っていた歌手たちもロカビリーを手がけ、先前に紹介したジャズ喫茶を中心に、若者のの人気を集めていた。

ロカビリーとはロックとヒルビリーの混血音楽を意味し、エルヴィス・プレスリーのヴォーカル・スタイルから生まれたものである。

1966年1月28日、全米中継のCBSテレビ公開放送「どーシー・ショー」に初出演し、黒人のように激しいリズムとビートのきいたロックロールを、セクシーに腰を振りながらプレスリーはうたった。メロディがポップスを主流としたミュージック・シーンへの、それは異端児的挑戦とも云えた。だから、大人達は俗悪きわまるテレビの冗談とおもったが、若者達はその爆発的なパワーに魅せられて、髪形やファッションまで真似るようになる。

こうして14曲の全米第一位を含み124枚のシングルと100枚の越えるLPを送ったエルヴィス旋風の幕は切って落とされた。

「ハートブレーク・ホテル」「ハウンド・ドック」「ラブ・ミー・テンダー」「監獄ロック」「思い出の指輪」「アイ・ニード・ユー・ソー」「ワン・ナイト」「イッツ・ナウ・オブ・ネバー」「悲しき悪魔」「キス・ミー・キック」「ラヴ・レター」「インザ・ゲットー」等々のヒット曲は全世界の若者にアピールしていく。


60年代を制覇したザ・ビートルズは「僕はエルヴィスが目標で、彼以上のスターになりたかった」と告白している。コニーフランシスとともに50年代最高のシンガーに成長したエルヴィスは「燃える平原児」「ブルー・ハワイ」「ガール!ガール!ガール!」「夢の渚」「アカプルコの海」「ラスベガス万歳」「青春カーニバル」「ハレム万歳」「カリフォルニア万歳」等々61年~68年にかけて次々と映画に出演した。また、NBCテレビの特別番組「エルヴヴィス・プレスリー・スペシャル」は72%という驚異的視聴率を記録した。

このプレスリーの影響の日本的形態として出現したのが「ウエスタン・カーニバル」であった。ここからロカビリー旋風がまきおこる。



昭和歌謡曲の軌跡60

2008-12-13 | 富山昭和詩史の流れの中で
君の名は」は歌謡曲が引き起こしたブームではない。
「君の名は」とは昭和27年4月からはじまったNHKの連続放送劇{毎週木曜日午後8時30分)のタイトルである。(放送劇としての「君の名は」は昭和29年4月8に「『君の名は』完結大会花まつり特集」で97回の幕を閉じる)

この連続ドラマの成功は、その後ラジオ東京の「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」や「花ふたたび」、ニッポン放送「サザエさん」などのヒット番組を生み、ラジオドラマ全盛期を招くことにもなる。

昭和20年5月の空襲の夜、戦災孤児である氏家真知子は数寄屋橋で後宮春樹に助けられた。ふたりは半年後、同じ数寄屋橋で再開を約束して別れるのだがー-真知子は叔父に連れられて佐渡に渡り、逢うことが叶わなかった。その後あえた時には真知子はすでに結婚している、しかし、その結婚は意に添わぬものであり、離婚を決意したときは妊娠していた。春木は虚しく去ろうとするが、真知子は諦めることができない。こうしてすれ違いドラマの舞台宇奈月温泉(富山)鳥羽、北海道、雲仙(九州)へととぶ。
菊田一夫原作の子のラジオドラマは、春木役の北沢彪と真知子役の阿里道子の名を一躍人々に知らしめしたが、内容は、戦時中の川口松太郎原作の「愛染かつら」の
ヴァリエーションに過ぎなかった。

そういえば、戦後、まだ制作体制がととなわない映画界は「愛染かつら」を再映して、女性観客を獲得したし、23年12月には、前にも述べたように竜崎一郎・水戸光子で「新愛染かつら」を制作し、ヒットさせた。

当時は、講和=独立とい事実がが醸成した反米思想は、ひとつは基地反対闘争となり、ひとつは皇室、神社、社会、風俗にたいするムード的復古調として現れた。
29年一月、正月参賀の「二重橋事件」(死者16名、重軽傷者63名)や、紀元節復活のための建国記念日制定促進会の結成などは、その典型的現象といえる。

さらに詳しく書く余裕はないが、左翼運動の挫折につながるスターリン神話の崩壊に向かう時代の流れがあった。
「君の名は」はいわば、復古調の波に乗った最初で最大のブーム現象でもあった。
女性観客を対象としたメロドラマ映画に伝統をもつ松竹は、この放送劇の人気に目をつけ、28年9月に第一部、同年12月に第二部、翌29年4月に第三部を封切り、それぞれに定石通りの主題歌を配して大成功を収めた。

三部作全国配給収入合計九億六千万という数字は、平均入場料で換算すると日本の全国民が一人残らず観たことになる。(当時の映画感入場料は、ロードショーで100円~120円)

●映画「君の名は」三部作の各く主題歌は次の通りである。
〈第一部〉
「君の名は」織井繁子
「君いとしき人よ」伊藤久男
〈第二部〉
「花のいのちは」岡本敦郎・岸恵子
「黒百合の花」織井繁子
〈第三部〉
「君は遙かな」佐田啓二・織井繁子
「忘れ得ぬ人」伊藤久男

「『君の名は』の放送時間になると、女湯がカラになる」(当時は内湯がある家は少なく、一般の人は銭湯を利用していた)という有名なエピソードは、松竹の宣伝担当重役野口鶴吉がラジオドラマの人気に映画も便乗しようと考えた宣伝文句と言われるが、そんなことにおかまいなく、この伝説は一人歩きした。