遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(73)

2008-12-27 | 富山昭和詩史の流れの中で

34年の村田英雄の「人生劇場」、あるいはそれ以前の映画「雨情物語」の主題歌として森重久弥が歌った「船頭小唄」あたりを出発点として、「無情の夢」(佐川ミツオ)、「雨に咲く花」(井上ひろし)、「ダンチョネ節」(小林旭)、「並木の雨」「東京ワルツ」(井上ひろし)「北帰行」(小林旭ほか)「天国に結ぶ恋」(和田弘とマヒナ・スターズ)などがヒットする。森山加代子の「ジンジロゲ」も
この時期であったか。

それらは新しいリズムを導入した編曲で意匠をこらしており、若者層にはリバイバルと言う印象なしに浸透していったのだし、たぶんひとつのヒットに追従する業界の姿勢の現れでもあったのだが、すくなくとも、ロカビリーの熱狂についてゆけないアダルト層には戦前への郷愁として受けいれられたことは確かである。

このリバイバル・ブームはやがて競作ブームにつながってゆく。
39年8月、リバイバル・ソング「お座敷小唄」がマヒナスターズと松尾和子によって歌われ大ヒットとなる。ドドンパのリズムに乗って歌われたこの歌は久美悦子の「裏町小唄」、こまどり姉妹「祗園エレジー」。紫ふじ美の「しらゆき小唄」と、タイトルのみを変えた競作となった。
(この歌は菅原都々子の父である作曲家陸奥明の作品だが、作者不詳のまま名古屋辺りの遊郭から歌いはじめられた〝巷の歌〟である。「お座敷小唄」の出る数年前に岡田ゆり子が「流れの枯れすすき」として、また園浦ひろみが「しらゆき小唄」として吹き込み、発売されている。)

そしてこの「お座敷小唄」のヒットによって「まつのき小唄」(二宮ゆき子)「アリューシャン小唄」(こまどり姉妹)「ひなげし小唄」(大月みやこ)「オホーツクの海」「網走番外地」(高倉健)などがうまれた。

歌謡史的に重要なことは、リバイバルから競作という形態が、日本歌謡界に固有のレコード会社の専属作家制度に対して疑問を投げかけたことである。

30年に発足した東芝レコード(現在の東芝EMI)は、後進のレコード会社の宿命としてやむを得ずフリーの永六輔・中村八大のコンビで水原弘の「黒い花びら」を発売、これが第一回の日本レコード大賞に輝いたことから、そうした方向への必要性は認識されていたが、それでも専属作家制の壁は厚かったと言われている。