遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(71)

2008-12-25 | 富山昭和詩史の流れの中で
米軍基地立川飛行場拡張に伴う砂川町の第二次測量がはじまった。農民たちの強固な抵抗に、これを支援する労組員・学生と測量隊・警察隊が対峙駕したが、その小康状態の時に、突如、学生側から「赤とんぼ」の合掌が起こり、その歌声は砂川の夕焼けにながれていったという、すごく感動的なシーンであり、歌というものの持つ機能を鮮やかに伝えるエピソードがある。

しかし、激しい反対運動の中で35年5月19日、岸内閣は眞安保条約と地位協定および二つの付属文を強行採択してしまった。
この報に接し、静かなる請願デモは、うって変わって激しいものにかわった。

全学連に対しては反省を求められていたが、6月15日、児玉誉士夫支配下の意地行動隊が、トラックで女性や、子供連れの主婦のデモ隊に突入するという暴挙に出たことがきっかけになり、全学連学生約700名が国会に突入した。これを排除する警官との乱闘の中で、東大の文学部国史学科在学中の樺美智子が死亡。数多くの負傷者がでた。
また19月12日の日比谷公会堂では、演説中の社会党委員長浅沼稲次郎が右翼少年山口二矢に刺殺される。
こうした政治的激動の中で成立した池田勇人内閣は「寛容と忍耐」を理念として掲げ、国民の所得倍増計画をあたらしい統合手段とした。

激しい闘争の結果、得たものはなんだったのか。

「やがて儀式はすべて終わり、集まった人々がバラバラに散ってっ行ったとき、残された人々は突然気づく、今まで存在していたものが何の条理もなくもう無く、そして永久に無いものだということに。人々はその決定的な空虚さに、口を閉じ、魚のように暮らすほか、なすすべきを知らない」柴田翔が書いた『されどわれららが日々』の心情は、60年安保闘争のあと学生たちが陥った倦怠感に重なるものであった。

頽廃ムードの中で、投げやりともいえる唱法で歌う西田佐知子の「アカシヤの雨が止む時」が挫折感に苦しむ人々のメモリアル・ソングとなったのは、至極当然のなりゆきであったといえる。

アカシアの 雨に打たれて
このまま 死んでしまいたい
世が明ける 日がのぼる
朝の光の その中で
冷たくなった 私を見つけて
あの人は
涙を流して くれるでしょうか
(水木薫作詞、藤原秀行作曲「アカシアの雨が止む時」)

昭和30年に結成したクレージー・キャッツが急速に人気を集め、特に植木等の「スーダラ節」にはじまる一連のナンセンス・ソングがもてはやされることも、この時代の流れと無縁ではあるまい。「どんと節」「ハイおそれまでョ」「これが男の生きる道」などは、高度成長下の管理社会で日々を送るサラリーマンの悲哀を歌うと言う点で、日常性のほろ苦さを見事に表現しており、37年7月封切られた「ニッポン無責任時代」にはじまる植木等の主演の〝無責任シリーズ〟は、松竹ヌーベル・ヴァーグの大島渚の「日本の夜と霧」、吉田喜重の「ろくでなし」などと正反対の立場で、新安保成立後の世相をえぐり出したものといえる。

小林旭の「ズンドコ節」や守屋浩の「有難や節」とそれは同一線城にあった、と言えるだろう。競作となった「北帰行」ヤ「北上夜曲」、あるいは中曽根美樹の「川は流れる」、そしてまた小林旭の「惜別の唄」などは「アカシアの雨が止む時」と同じ感情をゆさぶってヒットとなった。