遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡60

2008-12-13 | 富山昭和詩史の流れの中で
君の名は」は歌謡曲が引き起こしたブームではない。
「君の名は」とは昭和27年4月からはじまったNHKの連続放送劇{毎週木曜日午後8時30分)のタイトルである。(放送劇としての「君の名は」は昭和29年4月8に「『君の名は』完結大会花まつり特集」で97回の幕を閉じる)

この連続ドラマの成功は、その後ラジオ東京の「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」や「花ふたたび」、ニッポン放送「サザエさん」などのヒット番組を生み、ラジオドラマ全盛期を招くことにもなる。

昭和20年5月の空襲の夜、戦災孤児である氏家真知子は数寄屋橋で後宮春樹に助けられた。ふたりは半年後、同じ数寄屋橋で再開を約束して別れるのだがー-真知子は叔父に連れられて佐渡に渡り、逢うことが叶わなかった。その後あえた時には真知子はすでに結婚している、しかし、その結婚は意に添わぬものであり、離婚を決意したときは妊娠していた。春木は虚しく去ろうとするが、真知子は諦めることができない。こうしてすれ違いドラマの舞台宇奈月温泉(富山)鳥羽、北海道、雲仙(九州)へととぶ。
菊田一夫原作の子のラジオドラマは、春木役の北沢彪と真知子役の阿里道子の名を一躍人々に知らしめしたが、内容は、戦時中の川口松太郎原作の「愛染かつら」の
ヴァリエーションに過ぎなかった。

そういえば、戦後、まだ制作体制がととなわない映画界は「愛染かつら」を再映して、女性観客を獲得したし、23年12月には、前にも述べたように竜崎一郎・水戸光子で「新愛染かつら」を制作し、ヒットさせた。

当時は、講和=独立とい事実がが醸成した反米思想は、ひとつは基地反対闘争となり、ひとつは皇室、神社、社会、風俗にたいするムード的復古調として現れた。
29年一月、正月参賀の「二重橋事件」(死者16名、重軽傷者63名)や、紀元節復活のための建国記念日制定促進会の結成などは、その典型的現象といえる。

さらに詳しく書く余裕はないが、左翼運動の挫折につながるスターリン神話の崩壊に向かう時代の流れがあった。
「君の名は」はいわば、復古調の波に乗った最初で最大のブーム現象でもあった。
女性観客を対象としたメロドラマ映画に伝統をもつ松竹は、この放送劇の人気に目をつけ、28年9月に第一部、同年12月に第二部、翌29年4月に第三部を封切り、それぞれに定石通りの主題歌を配して大成功を収めた。

三部作全国配給収入合計九億六千万という数字は、平均入場料で換算すると日本の全国民が一人残らず観たことになる。(当時の映画感入場料は、ロードショーで100円~120円)

●映画「君の名は」三部作の各く主題歌は次の通りである。
〈第一部〉
「君の名は」織井繁子
「君いとしき人よ」伊藤久男
〈第二部〉
「花のいのちは」岡本敦郎・岸恵子
「黒百合の花」織井繁子
〈第三部〉
「君は遙かな」佐田啓二・織井繁子
「忘れ得ぬ人」伊藤久男

「『君の名は』の放送時間になると、女湯がカラになる」(当時は内湯がある家は少なく、一般の人は銭湯を利用していた)という有名なエピソードは、松竹の宣伝担当重役野口鶴吉がラジオドラマの人気に映画も便乗しようと考えた宣伝文句と言われるが、そんなことにおかまいなく、この伝説は一人歩きした。