鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

永明寺公式ブログ【所在地】〒681-0065 鳥取県岩美郡岩美町新井210 【電話&FAX】 0857-72-0777

永明寺開山の宗旭と大義寺の宗悦

2013-01-26 11:45:30 | 道竹城と永明寺
  大本山諸嶽山總持寺の能登国(石川県)から横浜市鶴見区への御移転100年を記念して出版された『住山記』は、總持寺開山の瑩山紹瑾大和尚禅師から輪番住持制が廃止され独住制になる明治期までの總持寺住職の記録です。その総世代数は、輪番住職と瑞世住職を含めて第51980世代になります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚は、瑞應山本光寺10世のとき、正保三年(1646年)11月11日に總持寺の第4928世住職(瑞世住職)をしています。同日に總持寺の第4929世住職をしているのが、鳥取市河原町佐貫にある百丈山大義寺(大儀寺)の宗悦です。この宗旭と宗悦は、ともに鳥取県岩美町浦富出身で總持寺5世の通幻寂霊大和尚禅師(1322-1391年)を派祖とする通幻派の住職です。
  大義寺は、武田高信とその家臣の墓(宝篋印塔)があることで有名なお寺です。因幡武田氏は、清和源氏の一家系で、河内源氏の庶流の甲斐源氏の流れをくむ若狭国守護大名の若狭武田氏のさらに庶流とされ、因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていました。
  武田高信の死については諸説ありますが、大義寺で不慮の死を遂げたとされています。天正四年(1576年)五月十八日付の書状で吉川元春は「武田高信は織田方への内通歴然につき、山名豊国によって切腹させられた(武田右衛門方事内々京儀取操歴然之由候て豊国生涯被申之由)」と記しています。近年の研究によれば、武田高信の死は天正四年よりもさらに早いことが判明し、天正元年(1573年)五月四日付の「小早川隆景書状写」(『萩藩閥閲録』)では武田高信について「不慮に相果て(因州武田事不慮ニ被相果之由)」とあります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚が總持寺で瑞世住職をした正保三年といえば、道竹城の跡地に本光寺の退居寺(隠居寺)として永明寺を開創した承応元年(1652年)のわずか6年前ということになります。因幡国から能登国にある總持寺まで宗旭と宗悦は瑞世住職をつとめるためともに旅に出たはずです。道中で二人は、どんなことを話していたのでしょうか、彼らは、ちょうど長い戦国時代から泰平の世となった江戸初期の禅僧ですから、多くの戦を見聞して、戦国武将たちの興亡をまのあたりにしていたのでしょう。

【参考文献】
『住山記-總持禪寺開山以来住持之次第-』(2011年)p.98
高橋正弘『因伯の戦国城郭・通史編』(1986年)
高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』(1993年)
鳥取県公文書館編『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(2010年)
Wikipedia「武田高信」参照

永明寺への交通アクセスご案内

2013-01-25 15:24:38 | 【交通アクセス】ご案内
(1) 飛 行 機 ご 利 用
【羽田空港】⇒約1時間⇒【鳥取空港】⇒バス⇒【鳥取駅】⇒山陰本線⇒【岩美駅】
 所要時間:約2時間半 (鳥取市 約1時間半)
 ※鳥取空港からタクシー利用なら約2時間で永明寺に到着
(2) 鉄 道 ご 利 用
【東京駅】⇒新幹線⇒【姫路駅】⇒スーパーはくと⇒【鳥取駅】⇒山陰本線⇒【岩美駅】
 所要時間:約6時間 (鳥取市 約5時間半)
【京都駅】⇒スーパーはくと⇒【鳥取駅】⇒山陰本線⇒【岩美駅】
 所要時間:約4時間 (鳥取市 約3時間半)
【大阪駅】⇒スーパーはくと⇒【鳥取駅】⇒山陰本線⇒【岩美駅】
 所要時間:約3時間半 (鳥取市 約3時間)
【三ノ宮駅】⇒スーパーはくと⇒【鳥取駅】⇒山陰本線⇒【岩美駅】
 所要時間:約3時間 (鳥取市 約2時間半)
(3) 自 動 車 ご 利 用
【京都】⇒〈京都南IC〉⇒中国自動車道⇒鳥取自動車道⇒〈鳥取IC〉⇒山陰近畿自動車道⇒〈岩美IC〉【岩美】
 所要時間:3時間半 (鳥取市 約3時間)
【大阪】⇒〈中国吹田IC〉⇒中国自動車道⇒鳥取自動車道⇒〈鳥取IC〉⇒山陰近畿自動車道⇒〈岩美IC〉【岩美】
 所要時間:約3時間 (鳥取市 約2時間半)
【三ノ宮】⇒〈神戸三田IC〉⇒中国自動車道⇒鳥取自動車道⇒〈鳥取IC〉⇒山陰近畿自動車道⇒〈岩美IC〉【岩美】
 所要時間:約2時間半 (鳥取市 約2時間)

垣屋家と巨濃郡の史跡

2013-01-22 15:24:28 | 郷土史覚書
  鳥取藩城代家老の荒尾家菩提寺の瑞松山景福寺隠居寺で、明治期に永明寺に合併された地霊山香林寺の跡地の近くに垣屋八幡宮(岩美町浦富新町南側1537)があります。瓦葺の覆堂の内部に檜皮葺の御霊屋があり、御霊屋の内部には切石基礎を含めた高さ135.5mの「垣屋播磨守光成の五輪塔」(岩美町史跡)があります。この垣屋光成(大光院殿悦岩宗歓大居士)は、但馬国の山名家の武将でしたが、羽柴秀吉の鳥取城攻めに参戦して軍功をあげ、巨濃郡(いまの岩美郡)1万石の戦国大名として浦富の桐山城を居城としていました。
  垣屋家は、曹洞宗に帰依しており、但馬国には垣屋播磨守隆国(隆国寺殿一関宗無大禅定門)を勧請開基として垣屋光成が開創した垣屋家菩提寺の布金山長者峰隆国寺(豊岡市日高町荒川)があります。また、永明寺開山の日外宗旭大和尚が開山となった岩美町宇治地区の利生山長安寺には垣屋光成の息子の垣屋恒総(學窓寺殿清雪宗圓大禅定門)の遺髪をおさめた「垣屋隠岐守恒総の宝篋印塔」(岩美町史跡)が建っています。
  但馬国の「山名の四天王」という言葉があり、例えば沢庵禅師が「垣屋は山名殿の内一番衆にて御座候、二番太田垣、三番八木、四番田結庄にて御座候」(『校補但馬考』)と評し、垣屋家は代々武勇の家門として名高かったようです。関ヶ原の合戦で垣屋家は西軍について敗戦し、高野山に逃れた垣屋恒総は自刃しました。かつては桐山城のそばにあった垣屋光成の五輪塔は動かすと祟りがあると恐れられていたのですが、町浦富に鳥取藩家老の鵜殿家陣屋敷がおかれて以降は現在地に移され、今でも浦富地区の方々によって大切に供養されています。

【参考文献】
『新編 岩美町史』上巻 pp.548-567;下巻 pp.491-493

本庄観音堂の大祭

2013-01-19 10:54:45 | 郷土史覚書
  永明寺では、春(1月)と秋(8月)の二度、本庄地区の方々と本庄観音堂で大祭の法要をしています。かつては観音堂のそばに小さな庫裡もあり、永明寺の弟子が住持をしていました。観音堂の所在地は、国道9号線から見える岩美町本庄字福元で秋葉山麓の小高い場所にあります。
  周辺には本庄古墳群、嶋根の水(因幡国の名水)、辻堂跡(薬師堂)、向山地区までいけば羽柴秀吉の焼討ののち廃寺となった二上山城主の山名家菩提寺の大杉山満願寺跡などがあります。そのうち「嶋根の水」は、『因幡誌』によれば「本庄村西の山下にあり深さ三尺許りの廃井なり、是を嶋根の水と号し、又岩井の水といふ。此池、旧裏海なりしが海潮退き平地となる其井の側に巨岩数多有り、海嶋の形をなせるも其故にて嶋根、岩井の名も茲に生するならむ。今は水涸れて掬する許りなれども国中名に負へる名水也」とあり、「岩井」の名の起源のひとつとされているようです。観音堂の下の道は、かつて小田但馬往来としてにぎわっていました。

阪神淡路大震災18年を迎えて

2013-01-16 20:37:03 | 【永明寺災害避難所】
  明日で1995年1月17日の阪神淡路大震災から18年を迎えます。2011年3月11日の東日本大震災を経て、更に人と人の「絆」の大切さを意識される方々が増えたのではないでしょうか。
  いま太平洋側の東海・東南海・南海地震にそなえ、「日本海国土軸」の形成の重要性が再認識され、山陰新幹線構想や主要都市間を連絡する高規格幹線道路等のうち、未整備の部分の整備を推進する動きが鳥取県でも現実味をおびてきました。これは地域にとっては本当に喜ばしいことだと思います。ただ、それはインフラ整備の公共事業です。一方で、地域の人々どうしの心のつながり、家族の心のつながりがもてるような、助け合いや思いやりのある社会を形成する取り組みも大切になってきます。
  重機でおこなう公共事業は工期が決まっており、決められた工程ですすめて竣工することができますが、人と人の心をつなぐ社会の取り組みは、そんなに計画通りにはすすみません。現代は様々な手段がありますから、心配してお寺が介入しなくても実は社会はつながっているのかもしれません。そのような中で、永明寺では、最新の社会的な交流手段とは別に、人と人のつどいの場、つながりの場として、地域とどのように関わっていくべきかを模索しながらすすめているところです。

永明寺歴代住持墓所の宝篋印塔

2013-01-13 19:32:11 | 【境内・施設】ご案内
  永明寺に訪れた時、山門をくぐると本堂と庫裡がまず目に入ります。庫裡の横を永明寺所有地の山林にむかって歩くと境内墓地や永明寺の三段畑の菜園につづく細い山道があり、その山道ののぼりはじめに歴代住持墓所への分かれ道があります。
  歴代住持墓所には永明寺の住持とその弟子たちの墓とともに、たくさんの五輪塔や宝篋印塔があります。かつてはもっと多くの五輪塔や宝篋印塔や石仏がありましがたが、永明寺のご近所のお檀家さまが屋敷でおまつりしたいと言われて20基ほどをそちらのほうに別におまつりしています。
  そのなかでも最も大きな宝篋印塔が写真のものです。この宝篋印塔は、その見た目から、もしかすると鳥取県内でも最古級のものではないかと思われますが、特に文化財には指定されていません。おそらく地元の人々もほとんど知らないまま今まで永明寺でまつられてきたのだと思います。宝篋印塔の上部の九輪と宝珠が途中で折れて二輪だけが部分的に現存していますが、塔全体は、ほぼ原形をとどめています。
  本庄地区の田圃の中には、道竹城主の三上兵庫頭の討死した場所とされるところに、かつて三上八幡宮がありました。そこには五輪塔や宝篋印塔が今でも大切にまつられていますが、それらの塔と比較しても、永明寺の歴代住持墓所にある宝篋印塔は、その大きさ、古さからして、それなりに名の知れた歴史上の人物の供養塔だと推測されます。今後の研究により解明され、後世にひきつがれることを願います。


地域の景観まちづくり

2013-01-13 14:01:39 | 地域に関する管見
  鳥取県には「景観まちづくり課」がおかれ、「鳥取県景観形成条例」(平成5年)が制定されています。国の法律としては、「景観法」(平成16年6月18日法律第110号)という景観に関わる法律があり、「景観法」「景観法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」「都市緑地保全法等の一部を改正する法律」を景観緑三法と呼んでいます。
  岩美町は、駟馳山バイパス、岩美道路(仮称)等の地域高規格道路工事により住民の生活が便利になりつつあります。道路が整備されて岩美町にも書店や鳥取市内と変わらない大手量販店が出店することを町民ものぞんでいると思います。ただ、岩美町や鳥取県の多くの市町村のように明治維新までの伝統的な景観がほぼ保持されているところは全国的にそう多くないと思います。ある意味、開発から取り残されていたともいえますが、これは岩美町や鳥取県にとっては貴重な宝物だと思います。県庁所在地である鳥取市内は、「景観法」の施行される以前、久松山の鳥取城の周辺から旧城下町にかけて高層マンションやビルが増えて景観がすっかり変わってしまいました。
  岩美町でも、例えば(1)蒲生川にかかる恩志橋から岩美駅までの「およし道路」を通るときに見える「青木さん」(青木のしたに昔の合戦の供養塔があり中江丹後墳墓ともいわれる)「永明寺」「道竹城」「桐山城」をのぞむ景観、(2)町浦富地区の鵜殿家陣屋敷や江戸時代からの家並や町の区割りのある景観、(3)岩井温泉街あたりの社寺のある景観など、本格的に開発がすすむまえに「岩美町の景観100選」のような選定がなされるといいのですが。

因幡薬師霊場の札所めぐり

2013-01-11 16:13:21 | 【因幡薬師霊場】ご案内
  鳥取県東部の因幡地方には、現在加盟している札所30ヶ寺院と番外札所からなる因幡薬師霊場があります。毎年、霊場会の札所を会場に宗派をこえて加盟寺院で合同法要を行っており、永明寺でも2011年10月に合同法要が厳修され、参拝者の皆様の願意成就とともに東日本大震災追悼の祈願もこめて大般若転読会と真言宗のご寺院様のご協力をえて柴燈護摩供を行いました。掲載写真はその時の様子です。永明寺の薬師如来像の由来に関しましては、カテゴリーの「永明寺の歴史・由来」に記しております。年間を通じて県内外から札所の参拝者(お遍路さん)の方々が団体や個人でお参りいただき、すばらしいご縁をいただいていることに感謝いたしております。皆様も札所めぐりをしてみませんか。

第1番 最勝院(真言宗)  第16番 三光院(真言宗)  
第2番 田後薬師堂     第17番 松泉寺(曹洞宗)  
第3番 貞信寺(曹洞宗)  第18番 勝見薬師堂
第4番 長楽寺(曹洞宗)  第19番 大安興寺(真言宗) 
第5番 東源寺(天台宗)  第20番 極楽寺(真言宗) 
第6番 瑞泉寺(曹洞宗)  第21番 西光寺(真言宗) 
第7番 国分寺(黄檗宗)  第22番 東光寺(真言宗) 
第8番 大樹寺(曹洞宗)  第23番 福善寺 
第9番 祥雲寺(曹洞宗)  第24番 林泉寺(曹洞宗)   
第10番 吉祥寺(曹洞宗)  第25番 森福寺(曹洞宗) 
第11番 寺前薬師堂     第26番 永明寺(曹洞宗)
第12番 新興寺(真言宗)  第27番 江波薬師堂
第13番 奉安寺(臨済宗)  第28番 座光寺(天台宗)
第14番 宝泉寺(曹洞宗)  第29番 龍徳寺(曹洞宗)
第15番 吉岡薬師堂     第30番 峰寺薬師堂

永明寺で演奏会や展覧会をしてみませんか

2013-01-09 19:55:56 | 【演奏会・展覧会】ご案内
  県内外、国内外の音楽家や芸術家や工芸家の皆様、永明寺は、間口7間半(約13.635m)ほどのコンパクトな本堂ですが、お寺の荘厳な雰囲気の中でクラシック音楽、邦楽、洋楽の演奏会を開催したり、庫裡など境内地で芸術作品や工芸作品の展覧会を開催したりしてみませんか。ぜひ岩美駅から近く、車でのアクセスもよい永明寺をお気軽にご活用ください。

【演奏会・展覧会 お申込 ご連絡先】

お電話 0857-72-0777(FAX共通)

仏典と禅籍を読む会

2013-01-09 10:20:16 | 【仏典と禅籍を読む会】
  永明寺の「仏典と禅籍を読む会」では、「仏典」とは、仏教典籍の略で、ひろく経典や論書など仏教に関する書物をさし、「禅籍」とは、禅宗に関する書物をさしています。かたくるしい研究会ではなく、主に岩波文庫などになっているような誰にでも入手できる典籍を選んで、お茶でも飲みながらリラックスして輪読会をしていきます。ときには、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、漢文などの原典を配布したりして解説も交えながらすすめたいと思っています。仏典や禅籍は、声に出して味わうだけでも気持ちが安らいだり、生きるためのヒントが得られたりします。まずこころみに、写経や坐禅にこられる方との読書会から始めたいと考えております。

鎌倉市と岩美町の比較

2013-01-08 11:58:48 | 地域に関する管見
  逗子海岸、鎌倉の由比ヶ浜、湘南海岸から大磯にかけては、岩美町の東浜海岸、熊井浜、浦富海岸、砂丘海岸にかけての自然環境とよく似ています。特に大磯は、戦後、岩崎家大磯別邸に孤児院エリザベス・サンダースホームが設立され、岩美町浦富出身の外交官 澤田廉三先生と妻の澤田美喜さん(三菱財閥の創業者 岩崎弥太郎の孫娘)ゆかりの地です。そんな澤田先生は、故郷の浦富海岸も大好きで、熊井浜に鷗鳴荘という別荘を建てたり、「浦富小唄」を作詞・作曲されたりしています。
  このように鎌倉市あたりと岩美町には地形的な共通点があり、それぞれに歴史があるのですが、観光客の入りから見ると、首都圏からの近さ、鎌倉幕府がおかれ寺社の規模がちがうこともあり、圧倒的に鎌倉市のほうが年間通じて多くの人々が訪れる人気の観光スポットになっています。では、鎌倉市のあたりにあって岩美町に足りないのは何なのでしょうか。
  先日、鳥取県第二教区曹洞宗寺院の護持会研修会で兵庫県美方郡にある浄土真宗の西光寺(新温泉町浜坂)、天台宗の巖山寺(新温泉町飯野)を訪れました。そのときに写真のような「美方郡の自慢景観 お寺のある風景」(兵庫県建築士会浜坂支部地域活性化委員会、北但西部 夢まちづくり推進会議 発行)という小冊子が目をひきました。この小冊子は、美方郡(新温泉町と香美町)に点在する52ヶ寺院を写真と地図でわかりやすく示しています。
  この小冊子のようなことは、ほんの一例ですが、ブログを書いている筆者自身も含めて、岩美町に住んでいる町民は、どれだけ地元の有形・無形の文化財や史跡のことを知っているでしょうか。お寺のブログなので話題がそちらにいきがちですが、今は、ばらばらに点在している寺社の由来をつなぎ合わせてテーマごとに分類してみると、もしかすると人々をよびこむような新発見があるかもしれません。
  最近、岩美町を含む山陰海岸国立公園が世界ジオパークネットワークへの加盟を認定され、山陰海岸ジオパークのジオスポット(見どころ)のガイド養成など町としても力をいれていて、とてもよいことだと思います。それとともに地域の歴史や文化を大切にしていることが、岩美町を訪れた時に伝わるような町づくりも加われば、なおよいのではないでしょうか。

永明寺で一息いれませんか

2013-01-07 13:41:19 | 【永明寺よりお知らせ】
  岩美町に大型バイクなどで訪れたライダーの皆様、ロードバイクなどで長距離サイクリングを楽しんでおられる皆様、ドライブで近くに立ち寄った皆様、浦富海岸などの美しい岩美町の海でサーフィンなどをされている皆様、お寺巡りをされている皆様、なにも特別めずらしいものがあるお寺ではありませんが、永明寺でお茶でも飲んで一息していきませんか。県外や海外から岩美町へ観光にこられた皆様も見知らぬ土地は不安なもの、まずは岩美駅から徒歩7分ほどの永明寺でくつろいでいかれてはいかがでしょうか。永明寺は、いつでも皆様のために開かれている身近なお寺でありたいと願い活動しています。

栗村哲象博士著「通幻・仙英両禅師顕彰碑物語」

2013-01-07 10:14:30 | 【永明寺合併寺 香林寺】
  曹洞宗の高名な「通幻禅師」・「仙英禅師」は鳥取県岩美町浦富の出身で、その生誕地は何れも筆者の近所にある。「通幻禅師」(1322-1391年)は生誕と同時に母を、そしてまた幼時に父を失い、苦学立行、遂に大本山總持寺第五世となられた高僧で、鳥取市景福寺を始め多くの寺を開創し、通幻派の派祖と仰がれ曹洞宗最多の寺院を擁したとされている。
  また「仙英禅師」(1794-1864年)は鳥取市景福寺(第三十三世住職)、次いで滋賀県 清凉寺の住持となり、彦根藩主 井伊直弼公の参禅師として公とは親子にも似た師弟関係があり、後の大老 井伊直弼公に、日本を欧米列強の侵略から守るには開国より他に道無し、との決死的決断をなさしめた近世稀に見る傑僧であった。
  両禅師の顕彰碑建立が計画されたのは、大東亜戦争の最中、ミッドウェー沖の大敗戦、ガダルカナル島を巡る敗戦に次ぐ敗戦が報じられていた昭和十七年の晩秋であった。計画立案は、長年の小学・中等の校長・町村長(四期十六年)の勤めを終え、それを予てから退職後の仕事と予定した栗村嘉水(筆者の祖父1872-1944年)が進めた。
  その動機は勿論、郷土出身の両禅師の顕彰にあったが、祖父の在任中に満州事変・支那事変・大東亜戦争に際会、そのつど大勢の出征兵士を励まし送り出したが、無念にも英霊となって帰還した多数の兵士を弔う縁とすること、更に「仙英禅師」に因み大東亜戦争終結の英断を下す人物の一刻も早い出現を祈願することにあった。
  早速、祖父は鳥取市景福寺の方丈様(元 永明寺の方丈様の眞應天龍大和尚)の教示を仰ぎつつ、碑文の原案を作成し、碑文の完成は大本山總持寺に依頼、書は東京芝高輪 泉岳寺に依頼した。昭和十八年六月に畳三畳程もある、立派な碑文の原書が我が家に届き、奥座敷いっぱいに広げられて家族一同緊張して拝見したことをついこの間のように思い出す。祖父は早速 趣意書を作成、送って協賛を仰いだのは、澤田家本家の澤田虎蔵氏、浦富出身の兄弟大使として戦前より有名な澤田節蔵(ブラジル大使・後に初代東京外国語大学長)・澤田廉三(フランス大使・後に初代国連大使・日韓全面会談日本代表)の両氏、オックスフォード大出身の実業家の澤田退蔵氏、澤田御兄弟姉妹の方々をはじめ、澤田家一統の東大卒業後 米国の大学に留学、国際関係評論や世界の偉人伝作家として活躍した澤田謙氏等々国際的視野抜群の方々を主としていた。
  紙面の関係で年長の澤田節蔵先生(1884-1976年)についてのみ述べれば、氏は信念を貫き地位に恋々としない英傑とも言うべき外交官中の外交官で、昭和の初頭 米国で何百回も英語で講演し米国の日本人移民排斥等の非を訴え、また日本の国際連盟脱退に最後まで反対(ために「親英派」と目された)、更に日独伊三国同盟に最後まで反対、又 対米戦阻止の工作は勿論、終戦の斡旋をソ連に依頼するのは最も危険とし、依頼すべきはバチカンと強く主張。これらの判断は歴史的に見て全て正しく、又 反日運動の激しかったブラジルに左遷されながら、同国を見事に親日国に変革された等々、稀に見る我国外交官中の外交官であった。このような同郷の士による顕彰碑建立は時節柄、真に意義深いものと言うべきであったろう。昭和十八年夏、戦争は既に敗色漂い軍需物資以外の超重量物の輸送許可を得るのは極めて困難な状況の中、建碑用の巨大とも言うべき石材は瀬戸内の業者に発注された。ところが九月十日に鳥取大地震が発生、鉄道線路が広範囲に寸断、輸送中の石材は遂に行方不明、顕彰碑建立は事実上完全に頓挫。祖父は大変気落ちし戦争の行方を案じながら、半年後に無念の内に亡くなった。その後 日本は陸・海・空軍共々敗戦に次ぐ敗戦、遂に終戦。戦後は社会経済の大動乱、我が家にも戦争の直接間接の被害(戦没者三人)が出、生活苦のため顕彰碑のことなど長らく家人はもとより誰も考え及ばなかった。
  ところが昭和三十三年に至り、澤田廉三先生が国連大使等の大任を終えられ、暫し時間的余裕を得られた時、戦時中の通幻・仙英両禅師顕彰碑建立計画の顛末に想いを馳せられた。
  しかし前述の我が家にあるべきと思われていた碑文の所在が杳として不明となっていた(節蔵・廉三両先生を始め多額寄付者は生前には遂に未見)。止む無く廉三先生は新たに通幻・仙英両禅師顕彰碑建立を決意された。独自に先ず「佛洲仙英禅師之碑」の建立(昭和三十三年)を発起されこれに時の文化町長 石河大直氏が全面的に協力され、終に岩美中学校の裏山の峠に建立が実現した。次いで廉三先生は、通幻禅師の顕彰碑を計画されたがその矢先に、昭和四十五年惜しくも急逝された。その後、町の自治会が先生の遺志を継ぎ「母子愛之碑」として生誕地に昭和六十三年建立した。
  ところが其の直後、皮肉にもあれ程探しても見つからなかった碑文が予想もしなかった所の役場の倉庫から、不死身の如く出現、新聞等に大いに報じられた。碑文は一体何処をどうさ迷っていたのか、今もって不思議でならない。
  只、推測の域に過ぎないが、敗戦後、家人(病を得て除隊になっていた陸軍中尉の叔父)が我が家の行く末を案じ、死去(昭和二十五年)の直後に、大事なもの(碑文)で我が家に置いておけばどうなるか分からないからと言うことで、誰か見舞い客にでも、役場で保管を依頼したのはないか、としか考えられない。何故なら筆者を初めとするその他の家人は、この件について誰も、何も知らされていなかったからである。
  碑文の発見後、幸いにも早速、鳥取市景福寺から通幻禅師六百回忌の記念事業として、同碑文による顕彰碑建立の要請があり、筆者は勿論、快諾。平成二年四月、同寺の山門前に通幻禅師・仙英禅師の顕彰碑が、「追遠碑」として遂に半世紀ぶりに堂々建立されたのであった。祖父の想いが遂に現実のものとなった。祖父は地下でどんなに喜んだか知れない。景福寺には感謝してもしきれないところである。なお仙英禅師の生誕地には、最近町内会の集会所が建てられ「せんえい」と名付けられ、禅師は今に偲ばれている。今日、我が国が直面する戦後未曾有の難局の打開に、為政者に是非この碑にあやかって欲しいと願うのは筆者一人ではなかろう。最後に筆者の希望を述べさせて頂くならば、役場の倉庫(?)に表装され保管されているという同碑文は、永明寺に於いて保管され展示されたいものと思う。

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  以上の玉稿は、永明寺檀家の栗村哲象先生(鳥取大学名誉教授・農学博士)より賜りました。栗村先生がおおせのとおり、岩美町役場に保管されている「追遠碑」の碑文原書が永明寺で保管され、展示公開される日が訪れるように岩美町役場へ働きかけていきたいと思います。

駟馳山バイパスと岩美道路

2013-01-06 12:22:29 | 地域に関する管見
  平成25年度中に開通する駟馳山バイパスと現在工事中の岩美道路のインターチェンジ(IC)の名称は、まだいずれも「仮称」となっています。鳥取豊岡宮津自動車道のうち京都府宮津市のICは「宮津天橋立IC」、山陰自動車道でも鳥取県東伯郡琴浦町のICは「琴浦船上山IC」と、そこのICを出たらなにがあると具体的に来訪者にわかりやすい名称になっています。
  駟馳山バイパスと岩美道路は、福部IC(仮称)、大谷IC(仮称)、岩美IC(仮称)、浦富IC(仮称)、東浜IC(仮称)となっていますが、例えば、福部鳥取砂丘IC(案)大谷網代港IC(案)本庄岩井温泉IC(案)浦富海岸IC(案)東浜海岸IC(案)などの名称になるとすごくわかりやすくなるように思うのですが、やはり今までの仮称のまま正式名称になるのでしょうか。
  ICの名称ではないのですが、駟馳山バイパス内の「福部砂丘トンネル」「駟馳山トンネル」、岩美道路内の「道竹城トンネル」は、すごくよい名称になったと思います。これから金峯山のあたりにもトンネルがついて東浜IC(仮称)まで接続されますが、以前にブログで記しました通り、金峯山は歴史的にも修験道場として有名ですから、「金峯山トンネル(案)」などの名称がついたらいいなと個人的には思います。これは少々大胆な案だと思われるかもしれませんが、かつて金峯山の周辺一帯には広大な霊場がひろがっていましたし、地域振興にとってもインパクトのある仮称ではあると思います。

お正月の祈祷札くばり

2013-01-04 20:13:57 | 【永明寺よりお知らせ】
  毎年1月4日は、永明寺で正月三が日に『大般若経』転読をし祈祷したお札をくばる日です。本年も県外をのぞく全檀家さまのお宅に年頭のごあいさつにまわりお札をお届けいたしました。県外にお住まいのお檀家さまで祈祷札の郵送をご希望の方には送らせていただきます。
  2013年は、3月に鳥取自動車道が全線開通して鳥取と大阪は2時間半で結ばれ、平成25年度内には駟馳山バイパスも開通いたします。地域のますますの発展に期待がふくらみます。皆様にとって本年が幸多き一年となりますことをご祈念申し上げます。