鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

永明寺公式ブログ【所在地】〒681-0065 鳥取県岩美郡岩美町新井210 【電話&FAX】 0857-72-0777

講座「古戦場・山城・荘園を歩くー岩井庄と道竹城ー」

2017-05-07 22:41:47 | 道竹城と永明寺
本日、鳥取県立博物館の歴史講座「古戦場・山城・荘園を歩くー岩井庄と道竹城ー」の受講者12名が永明寺に見えました。道竹城跡は、永明寺の裏にある山城跡であり、永明寺は、道竹城の上屋敷に創建された禅寺です。受講者の皆さんは、学芸員さんの解説で永明寺の一石五輪塔や宝篋印塔などを見学されました。

永明寺副住職(長谷寺住職)も永明寺の解説のあとに受講者の皆さんと岩美町内の佐彌乃兵主神社・太神社の美取神社・道竹城跡・許野乃兵主神社を歩いてまわりました。

①永明寺の宝篋印塔

②美取神社より道竹城跡を望む

③道竹城跡の主郭へ登山(左) 主郭のそばの五輪塔・宝篋印塔(右)

④美取神社 本殿(左) 許野乃兵主神社 本殿(右)

永明寺開山の宗旭と大義寺の宗悦

2013-01-26 11:45:30 | 道竹城と永明寺
  大本山諸嶽山總持寺の能登国(石川県)から横浜市鶴見区への御移転100年を記念して出版された『住山記』は、總持寺開山の瑩山紹瑾大和尚禅師から輪番住持制が廃止され独住制になる明治期までの總持寺住職の記録です。その総世代数は、輪番住職と瑞世住職を含めて第51980世代になります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚は、瑞應山本光寺10世のとき、正保三年(1646年)11月11日に總持寺の第4928世住職(瑞世住職)をしています。同日に總持寺の第4929世住職をしているのが、鳥取市河原町佐貫にある百丈山大義寺(大儀寺)の宗悦です。この宗旭と宗悦は、ともに鳥取県岩美町浦富出身で總持寺5世の通幻寂霊大和尚禅師(1322-1391年)を派祖とする通幻派の住職です。
  大義寺は、武田高信とその家臣の墓(宝篋印塔)があることで有名なお寺です。因幡武田氏は、清和源氏の一家系で、河内源氏の庶流の甲斐源氏の流れをくむ若狭国守護大名の若狭武田氏のさらに庶流とされ、因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていました。
  武田高信の死については諸説ありますが、大義寺で不慮の死を遂げたとされています。天正四年(1576年)五月十八日付の書状で吉川元春は「武田高信は織田方への内通歴然につき、山名豊国によって切腹させられた(武田右衛門方事内々京儀取操歴然之由候て豊国生涯被申之由)」と記しています。近年の研究によれば、武田高信の死は天正四年よりもさらに早いことが判明し、天正元年(1573年)五月四日付の「小早川隆景書状写」(『萩藩閥閲録』)では武田高信について「不慮に相果て(因州武田事不慮ニ被相果之由)」とあります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚が總持寺で瑞世住職をした正保三年といえば、道竹城の跡地に本光寺の退居寺(隠居寺)として永明寺を開創した承応元年(1652年)のわずか6年前ということになります。因幡国から能登国にある總持寺まで宗旭と宗悦は瑞世住職をつとめるためともに旅に出たはずです。道中で二人は、どんなことを話していたのでしょうか、彼らは、ちょうど長い戦国時代から泰平の世となった江戸初期の禅僧ですから、多くの戦を見聞して、戦国武将たちの興亡をまのあたりにしていたのでしょう。

【参考文献】
『住山記-總持禪寺開山以来住持之次第-』(2011年)p.98
高橋正弘『因伯の戦国城郭・通史編』(1986年)
高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』(1993年)
鳥取県公文書館編『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(2010年)
Wikipedia「武田高信」参照

明治期までの永明寺周辺の地形

2013-01-03 18:59:36 | 道竹城と永明寺
  今でこそ永明寺には本堂や庫裡のある境内地まで車であがり駐車場に停めて参拝できますが、明治期までの地形は、だいぶ違っていました。現在、表参道として利用している大きなヒノキの並木がある正面の坂道は、江戸期には存在しておらず、上屋敷は、道竹城の重要な防衛拠点のひとつだったので山がせり出していて侵入しにくい地形でした。新井地区のお檀家さまたちが地蔵盆を行う「はげらの地蔵さま」と呼んでいるお地蔵さまの祠がある崖に防空壕(イモの貯蔵穴)の横穴が二つあいているのですが、その横の小路がもともとの参道でした。かつての参道入口に現在の表参道に移してある常夜燈や永明寺七世の建てた延命地蔵尊の三界萬霊塔があり、参道は、敵の侵入をはばむ城砦のようになっており、ギザギザと直角に三つほどおれる小路を登り、やっと本堂などのある境内にたどりつくといった具合でした。
  今のような参道ができるきっかけになったのが明治期の国鉄工事でした。山陰本線の工事のため上屋敷の山肌は削られて、線路の工事用の土として利用されたのです。その工事により永明寺のまえには鉄道が走り、山が削られたことで本堂までの新たな道ができました。そこに明治期に石段がつけられて昭和50年代まで利用されていましたが、位牌堂の再建のための資材や重機を搬入するため石段をつぶし坂道として本堂の前の土地をならして駐車場にしました。車社会となった現在では必要な工事でした。
  また平成になってから永明寺の前に対面通行ができてる広い道ができましたが、それ以前には、新井の踏切からいわみ工芸村(旧 本庄小学校)あたりまで石垣でできた堀のような小川が流れていました。そして車がやっと一台とおれるような狭い道がとおっていました。いま永明寺の入口の川は石垣がとられてコンクリートの溝にはなりましたが、昔の小川の名残がみられます。
  新井地区あたりに民家がありましたが、かつて岩美駅あたりは一面の田園地帯で許野乃兵主神社や岩美高校のあたりは山がせり出していました。岩美中学、岩美高校、岩美町役場などの工事のために山が削られ、田園の湿地帯は埋められ、いまの岩美駅前の家並みができたのです。
  慶応四年(1868年)に最後の鳥取藩主の池田慶徳(江戸幕府最後将軍の徳川慶喜の兄)が藩主菩提寺の長谷寺もうでと湯村(岩井温泉)入湯の道中で休憩のため永明寺や本光寺などへ訪れていますが、そのときも昔の参道から本堂や庫裡の建つ境内地まであがってこられたのでしょう。鳥取藩主の岩井温泉への入湯については、『新編 岩美町史』上巻(pp.597-599)をご参照ください。

道竹城トンネルの工事はじまる

2012-12-20 19:09:56 | 道竹城と永明寺
  本日、新井地区に鳥取県東部総合事務所県土整備局から“国道178号(岩美道路)の「道竹城トンネル」の工事及び浦富側の工事着手に関して(お知らせ)”という文書が配布されました。道竹城トンネル(延長:1,187m)は、駟馳山バイパスの本庄地区から岩美道路の浦富地区に抜けるトンネルです。平成25年から本格的なトンネル掘削を開始して、平成26年夏頃に浦富側まで貫通するそうです。
  永明寺は、この道竹城の上屋敷に建っています。道竹城は、それまで因幡統治の居城とされてきた岩常地区の二上山城があまりに峻嶮であったため、川下の新井地区に新たに築城されました。1540年頃の築城とされていますから、永明寺が開創される110年ほど前です。かつて「殿様往来」とよばれていた永明寺の前を通る道ぞいや周辺には、庄司、下屋敷、中屋敷、上屋敷、大切戸、兵主など城に由来する地名が字として残っています。
  道竹城とは直接かかわりありませんが、永明寺の建つ新井地区の上屋敷の地からは、1951年11月25日に「上屋敷銅鐸」(京都国立博物館蔵・二区流水紋銅鐸)が出土しました。「上屋敷銅鐸」は、兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘町で1964年12月10日に出土した国宝「桜ケ丘銅鐸群」(神戸市立博物館蔵)中の3号銅鐸および島根県雲南市加茂町岩倉で1996年10月14日に出土した国宝「加茂岩倉銅鐸群」(文化庁所有・島根県立古代出雲歴史博物館保管)中の31号、32号、34号銅鐸などと同笵であることが解明されています。銅鐸が出土するような土地柄ですので、新井地区あたりには多くの古墳も点在しています。
  上述のことから、永明寺のあるあたりは、銅鐸がもちいられていた弥生時代、巨濃郡とよばれるようになった律令国家のころ、岩井郡(いまの岩美郡)とよばれるようになった近世をつうじて交通の要衝、地域の人々が集う土地であったことがわかります。この道竹城トンネルが開通すると、永明寺へのアクセスは格段に向上します。というのも、駟馳山バイパスの岩美IC(仮称)と岩美道路の浦富IC(仮称)に永明寺ははさまれているからです。鳥取市側と兵庫県側の両方から物流、地域間交流とも盛んになることでしょう。とても楽しみです。