鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

永明寺公式ブログ【所在地】〒681-0065 鳥取県岩美郡岩美町新井210 【電話&FAX】 0857-72-0777

追遠碑の掛軸が岩美町から永明寺に

2020-03-31 18:13:49 | 【永明寺合併寺 香林寺】

岩美町に石碑を建立する計画だった「追遠碑」の掛軸が昭和18年から行方不明になっていましたが、昭和63年に岩美町倉庫から見つかり、平成2年4月に鳥取市新品治町の景福寺の山門横に「追遠碑」の石碑が建立されました。その後、掛軸は、さらに岩美町が所有して岩美町倉庫で眠っていました。その「追遠碑」の掛軸が令和2年3月30日に永明寺が所有すべき品として岩美町から寺に移されました。

このたび永明寺の所有となった「追遠碑」の掛軸がつくられた経緯については永明寺のブログに上げた栗村哲象氏の「通幻・仙英両禅師顕彰碑物語」に詳述されています。

永明寺檀家総代の栗村嘉水氏は、岩美町浦富出身の通幻寂霊大和尚禅師(總持寺妙高開基)と佛洲仙英大和尚禅師(井伊直弼の参禅の師)の遺徳を顕彰するため永明寺13世・景福寺43世の眞應天龍大和尚(山根天龍師)に教示を仰ぎつつ「追遠碑」の碑文の原案を作成しました。

原案をもとに碑文の撰は、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺の紫雲臺侍者の仭崖定坦(高橋定坦師)に依頼。碑文の書は、東京都港区高輪の泉岳寺副寺の天舜堯海に依頼。碑の篆額は、曹洞宗大本山永平寺貫首 勅賜大鑑道光禅師 玉堂瓏仙大和尚猊下(高階瓏仙大禅師猊下)に題字を揮毫いただきました。

毎日新聞に永明寺ゆかりの追遠碑の記事

2015-04-20 22:44:55 | 【永明寺合併寺 香林寺】


 2015年4月20日の毎日新聞の24面「支局長からの手紙」に、先日、鳥取支局長の北村弘一さんより取材を受けた永明寺ゆかりの「追遠碑」の記事が掲載されました。記事の中の鳥取大学名誉教授の栗村哲象さんは、永明寺のお檀家さまです。取材当日には北村支局長に永明寺の本堂に安置されている佛洲仙英禅師ゆかりの品々を一通りご覧いただきました。その後、副住職が北村支局長とともに永明寺の裏の道竹城跡に建立されている岩美町浦富出身の佛洲仙英禅師の顕彰碑まで登山し、明治期に永明寺に合併された浦富の香林寺跡(岩美町史跡 通幻禅師誕生地)を訪れました。
 佛洲仙英禅師は、大本山總持寺開山の瑩山紹瑾禅師が撰述した『傳光録』を安政4年に開板しています。浦富海岸のそばの浦富や牧谷は、永明寺のお檀家さまが住んでいる地区です。佛洲仙英禅師の顕彰碑のそばの案内板には牧谷で生まれたとなっていますが、佛洲仙英禅師の生家の坂根屋があったのは浦富と言ってよいと思います。佛洲仙英禅師は、生家の坂根屋が火元で町浦富の殆どが焼失した坂根屋火事の罪滅ぼしに香林寺で出家得度しました。
 佛洲仙英禅師の顕彰碑の碑文は、岩美町浦富出身の外交官で初代国連大使をつとめた澤田廉三の揮毫です。澤田廉三の妻の澤田美喜(旧姓 岩崎)は、三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の孫娘であり、戦後、エリザベス・サンダースホームという混血孤児院を創設しました。
 澤田廉三は、露軍将兵漂着記念碑(人類愛)、江戸幕府大老の井伊直弼の師として開国を決断させた佛洲仙英禅師之碑(祖国愛)、死後に土葬墓で大本山總持寺五世の通幻寂霊禅師を出産した母の愛をたたえる母子愛碑(母子愛)という三愛碑を岩美町内に建立しています。

栗村哲象博士著「通幻・仙英両禅師顕彰碑物語」

2013-01-07 10:14:30 | 【永明寺合併寺 香林寺】
  曹洞宗の高名な「通幻禅師」・「仙英禅師」は鳥取県岩美町浦富の出身で、その生誕地は何れも筆者の近所にある。「通幻禅師」(1322-1391年)は生誕と同時に母を、そしてまた幼時に父を失い、苦学立行、遂に大本山總持寺第五世となられた高僧で、鳥取市景福寺を始め多くの寺を開創し、通幻派の派祖と仰がれ曹洞宗最多の寺院を擁したとされている。
  また「仙英禅師」(1794-1864年)は鳥取市景福寺(第三十三世住職)、次いで滋賀県 清凉寺の住持となり、彦根藩主 井伊直弼公の参禅師として公とは親子にも似た師弟関係があり、後の大老 井伊直弼公に、日本を欧米列強の侵略から守るには開国より他に道無し、との決死的決断をなさしめた近世稀に見る傑僧であった。
  両禅師の顕彰碑建立が計画されたのは、大東亜戦争の最中、ミッドウェー沖の大敗戦、ガダルカナル島を巡る敗戦に次ぐ敗戦が報じられていた昭和十七年の晩秋であった。計画立案は、長年の小学・中等の校長・町村長(四期十六年)の勤めを終え、それを予てから退職後の仕事と予定した栗村嘉水(筆者の祖父1872-1944年)が進めた。
  その動機は勿論、郷土出身の両禅師の顕彰にあったが、祖父の在任中に満州事変・支那事変・大東亜戦争に際会、そのつど大勢の出征兵士を励まし送り出したが、無念にも英霊となって帰還した多数の兵士を弔う縁とすること、更に「仙英禅師」に因み大東亜戦争終結の英断を下す人物の一刻も早い出現を祈願することにあった。
  早速、祖父は鳥取市景福寺の方丈様(元 永明寺の方丈様の眞應天龍大和尚)の教示を仰ぎつつ、碑文の原案を作成し、碑文の完成は大本山總持寺に依頼、書は東京芝高輪 泉岳寺に依頼した。昭和十八年六月に畳三畳程もある、立派な碑文の原書が我が家に届き、奥座敷いっぱいに広げられて家族一同緊張して拝見したことをついこの間のように思い出す。祖父は早速 趣意書を作成、送って協賛を仰いだのは、澤田家本家の澤田虎蔵氏、浦富出身の兄弟大使として戦前より有名な澤田節蔵(ブラジル大使・後に初代東京外国語大学長)・澤田廉三(フランス大使・後に初代国連大使・日韓全面会談日本代表)の両氏、オックスフォード大出身の実業家の澤田退蔵氏、澤田御兄弟姉妹の方々をはじめ、澤田家一統の東大卒業後 米国の大学に留学、国際関係評論や世界の偉人伝作家として活躍した澤田謙氏等々国際的視野抜群の方々を主としていた。
  紙面の関係で年長の澤田節蔵先生(1884-1976年)についてのみ述べれば、氏は信念を貫き地位に恋々としない英傑とも言うべき外交官中の外交官で、昭和の初頭 米国で何百回も英語で講演し米国の日本人移民排斥等の非を訴え、また日本の国際連盟脱退に最後まで反対(ために「親英派」と目された)、更に日独伊三国同盟に最後まで反対、又 対米戦阻止の工作は勿論、終戦の斡旋をソ連に依頼するのは最も危険とし、依頼すべきはバチカンと強く主張。これらの判断は歴史的に見て全て正しく、又 反日運動の激しかったブラジルに左遷されながら、同国を見事に親日国に変革された等々、稀に見る我国外交官中の外交官であった。このような同郷の士による顕彰碑建立は時節柄、真に意義深いものと言うべきであったろう。昭和十八年夏、戦争は既に敗色漂い軍需物資以外の超重量物の輸送許可を得るのは極めて困難な状況の中、建碑用の巨大とも言うべき石材は瀬戸内の業者に発注された。ところが九月十日に鳥取大地震が発生、鉄道線路が広範囲に寸断、輸送中の石材は遂に行方不明、顕彰碑建立は事実上完全に頓挫。祖父は大変気落ちし戦争の行方を案じながら、半年後に無念の内に亡くなった。その後 日本は陸・海・空軍共々敗戦に次ぐ敗戦、遂に終戦。戦後は社会経済の大動乱、我が家にも戦争の直接間接の被害(戦没者三人)が出、生活苦のため顕彰碑のことなど長らく家人はもとより誰も考え及ばなかった。
  ところが昭和三十三年に至り、澤田廉三先生が国連大使等の大任を終えられ、暫し時間的余裕を得られた時、戦時中の通幻・仙英両禅師顕彰碑建立計画の顛末に想いを馳せられた。
  しかし前述の我が家にあるべきと思われていた碑文の所在が杳として不明となっていた(節蔵・廉三両先生を始め多額寄付者は生前には遂に未見)。止む無く廉三先生は新たに通幻・仙英両禅師顕彰碑建立を決意された。独自に先ず「佛洲仙英禅師之碑」の建立(昭和三十三年)を発起されこれに時の文化町長 石河大直氏が全面的に協力され、終に岩美中学校の裏山の峠に建立が実現した。次いで廉三先生は、通幻禅師の顕彰碑を計画されたがその矢先に、昭和四十五年惜しくも急逝された。その後、町の自治会が先生の遺志を継ぎ「母子愛之碑」として生誕地に昭和六十三年建立した。
  ところが其の直後、皮肉にもあれ程探しても見つからなかった碑文が予想もしなかった所の役場の倉庫から、不死身の如く出現、新聞等に大いに報じられた。碑文は一体何処をどうさ迷っていたのか、今もって不思議でならない。
  只、推測の域に過ぎないが、敗戦後、家人(病を得て除隊になっていた陸軍中尉の叔父)が我が家の行く末を案じ、死去(昭和二十五年)の直後に、大事なもの(碑文)で我が家に置いておけばどうなるか分からないからと言うことで、誰か見舞い客にでも、役場で保管を依頼したのはないか、としか考えられない。何故なら筆者を初めとするその他の家人は、この件について誰も、何も知らされていなかったからである。
  碑文の発見後、幸いにも早速、鳥取市景福寺から通幻禅師六百回忌の記念事業として、同碑文による顕彰碑建立の要請があり、筆者は勿論、快諾。平成二年四月、同寺の山門前に通幻禅師・仙英禅師の顕彰碑が、「追遠碑」として遂に半世紀ぶりに堂々建立されたのであった。祖父の想いが遂に現実のものとなった。祖父は地下でどんなに喜んだか知れない。景福寺には感謝してもしきれないところである。なお仙英禅師の生誕地には、最近町内会の集会所が建てられ「せんえい」と名付けられ、禅師は今に偲ばれている。今日、我が国が直面する戦後未曾有の難局の打開に、為政者に是非この碑にあやかって欲しいと願うのは筆者一人ではなかろう。最後に筆者の希望を述べさせて頂くならば、役場の倉庫(?)に表装され保管されているという同碑文は、永明寺に於いて保管され展示されたいものと思う。

---------------------------------

  以上の玉稿は、永明寺檀家の栗村哲象先生(鳥取大学名誉教授・農学博士)より賜りました。栗村先生がおおせのとおり、岩美町役場に保管されている「追遠碑」の碑文原書が永明寺で保管され、展示公開される日が訪れるように岩美町役場へ働きかけていきたいと思います。

「浦住」から「浦富」へ

2013-01-02 13:34:33 | 【永明寺合併寺 香林寺】
  浦富海岸は、江戸期の古地図や明治期、大正期の古写真を見ると今よりも民家がなく、浦富砂丘といわれるくらいに砂浜がひろがっていました。ただ、町浦富は、鳥取藩家老の鵜殿家の陣屋敷もおかれており、町人や御用商人が暮らし、にぎわっていたようです。
  この浦富地区にも永明寺のお檀家さまがおられます。『鳥取藩史』第一巻(世家藩士列伝)によれば、もともと「浦住」と呼ばれていた同地区を「浦富」と改めたのは、永明寺に位牌が安置されている鳥取藩家老の鵜殿長発だそうです。鵜殿長発は鳥取藩家老の津田元謨の第三子ですが、父の津田元謨も鳥取藩筆頭家老の荒尾成熙の第三子です。永明寺には他にも鵜殿家や荒尾家などの位牌が安置されています。それらの位牌は、おそらく鳥取藩城代家老の荒尾志摩家菩提寺の瑞松山景福寺隠居寺で浦富にあった地霊山香林寺を明治初期に永明寺が合併した時、過去帳とともに殿様たちの位牌ももたらされ、まつられるようになったのだと思います。
  鵜殿家は、法華宗陣門流に帰依しておりますので、鵜殿家に関わりのある寺院は永明寺のほかにもあります。そのうち浦富地区の高性山仙龍寺(法華宗)は、鳥取市寺町にある鵜殿家菩提寺の正栄山妙要寺(法華宗)の末寺で、妙要寺に一大事があったときに備えて建立された寺院です。仙龍寺の寺号は、浦富の鵜殿家三代目の鵜殿長定(仙龍院殿昇雲日寛居士)の戒名に由来しています。仙龍寺の本寺である妙要寺には、徳川家譜代の家臣であった鵜殿家から徳川家康の側室となった蓮葉院(池田輝政に再嫁した良正院督姫の母)などの位牌が安置されています。他には鵜殿長定の母である霊祥院殿禎室元榮大姉を供養した龍華山霊祥寺(黄檗宗)が浦富にありましたが、明治期に廃寺になっています。まだ実際に目にしたことはないのですが、浜浦富の観音堂には、霊祥寺の涅槃図や薬師如来像があり、地区民により大切にされているそうです。  

浦富の香林寺が永明寺に合併された経緯

2012-12-18 20:32:16 | 【永明寺合併寺 香林寺】
  香林寺は、大本山諸嶽山總持寺の妙高開基の通幻寂霊大和尚禅師の生誕地に建っていました。通幻寂霊禅師は、曹洞宗が全国に広まる礎を築いた名僧で、その誕生にまつわる「飴買い幽霊」の民話でも有名です。また、香林寺は、江戸幕府大老の井伊直弼の師である佛洲仙英大和尚禅師が得度した寺です。
  鳥取藩次席城代家老(倉吉荒尾)の荒尾嵩就(透關院殿、倉吉荒尾初代)の三男で瑞松山景福寺(鳥取市新品治町)の中興開基である荒尾秀就(瑞松院殿、倉吉荒尾三代)は、兄の荒尾宣就(満正院殿、倉吉荒尾二代)の妻である池田備中守長幸の娘(香林院殿心岳理清大姉)の菩提を供養する為に浦富に地霊山香林寺を建立し、陣屋敷のある倉吉にも荒尾家(倉吉荒尾家)先祖代々の牌所(菩提寺)として父と兄の戒名を山号と寺号とする透關山満正寺を建立しました。
  香林寺は、鳥取藩主の池田家、次席家老の荒尾家、浦富を管轄していた家老の鵜殿家、御用商人などの牌所と祈願所になっていましたが明治期に廃寺となり、香林寺の過去帳と檀家を永明寺が継承し、香林寺を合併しました。永明寺では本堂に香林寺の霊廟壇を設け、香林寺歴代住職と香林寺を庇護していた池田家、荒尾家、鵜殿家の方々の供養をしています。
  香林寺開山の彌峰理天大和尚は、浦富の土葬神(つげのさい)の墳墓(通幻寂霊禅師の生誕地)のそばに草庵をむすび隠棲していましたが、宮城の金剛山輪王寺十六世となるにあたり、弟子の独之が草庵に住持していました。元禄三年(1690年)に鳥取藩城代家老の荒尾秀就は、兄の荒尾宣就室の香林院殿(池田備中守長幸の娘)の二十五回忌に景福寺十六世の徳翁孫隆大和尚(香林寺初祖、満正寺開山)と独之の両者と合議して、瑞應山本光寺の末寺で白地にあった雪渓山龍泰寺を改称して瑞松山景福寺の末寺の地霊山香林寺とし、香林院殿の牌所(菩提寺)としました。
  香林寺は、佛洲仙英禅師の実家が火元となった「坂根屋火事」で浦富の繁華街と香林寺が焼失する香林寺八世の佛山本宗大和尚(景福寺三十二世、吉祥院十世、本光寺二十五世、佛洲仙英禅師の得度師)までは景福寺の退居寺(隠居寺)として堂宇が存在していました。しかし、「坂根屋火事」ののち香林寺九世の讓山謙觜大和尚(周源院八世、龍澤庵二世)から香林寺十七世の鐵山全牛大和尚(洞泉寺六世)までは景福寺住職をしておらず、景福寺の退居寺としての性格は弱まり幕末を迎えました。