鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

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永明寺開山の宗旭と大義寺の宗悦

2013-01-26 11:45:30 | 道竹城と永明寺
  大本山諸嶽山總持寺の能登国(石川県)から横浜市鶴見区への御移転100年を記念して出版された『住山記』は、總持寺開山の瑩山紹瑾大和尚禅師から輪番住持制が廃止され独住制になる明治期までの總持寺住職の記録です。その総世代数は、輪番住職と瑞世住職を含めて第51980世代になります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚は、瑞應山本光寺10世のとき、正保三年(1646年)11月11日に總持寺の第4928世住職(瑞世住職)をしています。同日に總持寺の第4929世住職をしているのが、鳥取市河原町佐貫にある百丈山大義寺(大儀寺)の宗悦です。この宗旭と宗悦は、ともに鳥取県岩美町浦富出身で總持寺5世の通幻寂霊大和尚禅師(1322-1391年)を派祖とする通幻派の住職です。
  大義寺は、武田高信とその家臣の墓(宝篋印塔)があることで有名なお寺です。因幡武田氏は、清和源氏の一家系で、河内源氏の庶流の甲斐源氏の流れをくむ若狭国守護大名の若狭武田氏のさらに庶流とされ、因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていました。
  武田高信の死については諸説ありますが、大義寺で不慮の死を遂げたとされています。天正四年(1576年)五月十八日付の書状で吉川元春は「武田高信は織田方への内通歴然につき、山名豊国によって切腹させられた(武田右衛門方事内々京儀取操歴然之由候て豊国生涯被申之由)」と記しています。近年の研究によれば、武田高信の死は天正四年よりもさらに早いことが判明し、天正元年(1573年)五月四日付の「小早川隆景書状写」(『萩藩閥閲録』)では武田高信について「不慮に相果て(因州武田事不慮ニ被相果之由)」とあります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚が總持寺で瑞世住職をした正保三年といえば、道竹城の跡地に本光寺の退居寺(隠居寺)として永明寺を開創した承応元年(1652年)のわずか6年前ということになります。因幡国から能登国にある總持寺まで宗旭と宗悦は瑞世住職をつとめるためともに旅に出たはずです。道中で二人は、どんなことを話していたのでしょうか、彼らは、ちょうど長い戦国時代から泰平の世となった江戸初期の禅僧ですから、多くの戦を見聞して、戦国武将たちの興亡をまのあたりにしていたのでしょう。

【参考文献】
『住山記-總持禪寺開山以来住持之次第-』(2011年)p.98
高橋正弘『因伯の戦国城郭・通史編』(1986年)
高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』(1993年)
鳥取県公文書館編『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(2010年)
Wikipedia「武田高信」参照

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