鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

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明治期までの永明寺周辺の地形

2013-01-03 18:59:36 | 道竹城と永明寺
  今でこそ永明寺には本堂や庫裡のある境内地まで車であがり駐車場に停めて参拝できますが、明治期までの地形は、だいぶ違っていました。現在、表参道として利用している大きなヒノキの並木がある正面の坂道は、江戸期には存在しておらず、上屋敷は、道竹城の重要な防衛拠点のひとつだったので山がせり出していて侵入しにくい地形でした。新井地区のお檀家さまたちが地蔵盆を行う「はげらの地蔵さま」と呼んでいるお地蔵さまの祠がある崖に防空壕(イモの貯蔵穴)の横穴が二つあいているのですが、その横の小路がもともとの参道でした。かつての参道入口に現在の表参道に移してある常夜燈や永明寺七世の建てた延命地蔵尊の三界萬霊塔があり、参道は、敵の侵入をはばむ城砦のようになっており、ギザギザと直角に三つほどおれる小路を登り、やっと本堂などのある境内にたどりつくといった具合でした。
  今のような参道ができるきっかけになったのが明治期の国鉄工事でした。山陰本線の工事のため上屋敷の山肌は削られて、線路の工事用の土として利用されたのです。その工事により永明寺のまえには鉄道が走り、山が削られたことで本堂までの新たな道ができました。そこに明治期に石段がつけられて昭和50年代まで利用されていましたが、位牌堂の再建のための資材や重機を搬入するため石段をつぶし坂道として本堂の前の土地をならして駐車場にしました。車社会となった現在では必要な工事でした。
  また平成になってから永明寺の前に対面通行ができてる広い道ができましたが、それ以前には、新井の踏切からいわみ工芸村(旧 本庄小学校)あたりまで石垣でできた堀のような小川が流れていました。そして車がやっと一台とおれるような狭い道がとおっていました。いま永明寺の入口の川は石垣がとられてコンクリートの溝にはなりましたが、昔の小川の名残がみられます。
  新井地区あたりに民家がありましたが、かつて岩美駅あたりは一面の田園地帯で許野乃兵主神社や岩美高校のあたりは山がせり出していました。岩美中学、岩美高校、岩美町役場などの工事のために山が削られ、田園の湿地帯は埋められ、いまの岩美駅前の家並みができたのです。
  慶応四年(1868年)に最後の鳥取藩主の池田慶徳(江戸幕府最後将軍の徳川慶喜の兄)が藩主菩提寺の長谷寺もうでと湯村(岩井温泉)入湯の道中で休憩のため永明寺や本光寺などへ訪れていますが、そのときも昔の参道から本堂や庫裡の建つ境内地まであがってこられたのでしょう。鳥取藩主の岩井温泉への入湯については、『新編 岩美町史』上巻(pp.597-599)をご参照ください。