鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

永明寺公式ブログ【所在地】〒681-0065 鳥取県岩美郡岩美町新井210 【電話&FAX】 0857-72-0777

垣屋家と巨濃郡の史跡

2013-01-22 15:24:28 | 郷土史覚書
  鳥取藩城代家老の荒尾家菩提寺の瑞松山景福寺隠居寺で、明治期に永明寺に合併された地霊山香林寺の跡地の近くに垣屋八幡宮(岩美町浦富新町南側1537)があります。瓦葺の覆堂の内部に檜皮葺の御霊屋があり、御霊屋の内部には切石基礎を含めた高さ135.5mの「垣屋播磨守光成の五輪塔」(岩美町史跡)があります。この垣屋光成(大光院殿悦岩宗歓大居士)は、但馬国の山名家の武将でしたが、羽柴秀吉の鳥取城攻めに参戦して軍功をあげ、巨濃郡(いまの岩美郡)1万石の戦国大名として浦富の桐山城を居城としていました。
  垣屋家は、曹洞宗に帰依しており、但馬国には垣屋播磨守隆国(隆国寺殿一関宗無大禅定門)を勧請開基として垣屋光成が開創した垣屋家菩提寺の布金山長者峰隆国寺(豊岡市日高町荒川)があります。また、永明寺開山の日外宗旭大和尚が開山となった岩美町宇治地区の利生山長安寺には垣屋光成の息子の垣屋恒総(學窓寺殿清雪宗圓大禅定門)の遺髪をおさめた「垣屋隠岐守恒総の宝篋印塔」(岩美町史跡)が建っています。
  但馬国の「山名の四天王」という言葉があり、例えば沢庵禅師が「垣屋は山名殿の内一番衆にて御座候、二番太田垣、三番八木、四番田結庄にて御座候」(『校補但馬考』)と評し、垣屋家は代々武勇の家門として名高かったようです。関ヶ原の合戦で垣屋家は西軍について敗戦し、高野山に逃れた垣屋恒総は自刃しました。かつては桐山城のそばにあった垣屋光成の五輪塔は動かすと祟りがあると恐れられていたのですが、町浦富に鳥取藩家老の鵜殿家陣屋敷がおかれて以降は現在地に移され、今でも浦富地区の方々によって大切に供養されています。

【参考文献】
『新編 岩美町史』上巻 pp.548-567;下巻 pp.491-493

本庄観音堂の大祭

2013-01-19 10:54:45 | 郷土史覚書
  永明寺では、春(1月)と秋(8月)の二度、本庄地区の方々と本庄観音堂で大祭の法要をしています。かつては観音堂のそばに小さな庫裡もあり、永明寺の弟子が住持をしていました。観音堂の所在地は、国道9号線から見える岩美町本庄字福元で秋葉山麓の小高い場所にあります。
  周辺には本庄古墳群、嶋根の水(因幡国の名水)、辻堂跡(薬師堂)、向山地区までいけば羽柴秀吉の焼討ののち廃寺となった二上山城主の山名家菩提寺の大杉山満願寺跡などがあります。そのうち「嶋根の水」は、『因幡誌』によれば「本庄村西の山下にあり深さ三尺許りの廃井なり、是を嶋根の水と号し、又岩井の水といふ。此池、旧裏海なりしが海潮退き平地となる其井の側に巨岩数多有り、海嶋の形をなせるも其故にて嶋根、岩井の名も茲に生するならむ。今は水涸れて掬する許りなれども国中名に負へる名水也」とあり、「岩井」の名の起源のひとつとされているようです。観音堂の下の道は、かつて小田但馬往来としてにぎわっていました。

松風山と竹美山

2013-01-01 12:02:05 | 郷土史覚書
  「松」と「竹」は、「松に古今の色なし 竹に上下の節あり(松無古今色 竹有上下節)」という禅語としても有名で、古来より縁起の良い植物とされています。
  永明寺の山号は、「松風山」といいます。永明寺のお檀家さまが多い牧谷地区には、かつて「竹美山 龍王寺」という蔵王権現をまつる天台宗の寺院がありました。龍王寺などの金峯山の寺社は、ちょうどいまの金峯山神社があるあたりから、すそ野の平地にかけて三十二院の宿坊が立ち並び「吉田保」「吉田千軒」などとよばれて、一時は大山寺の伽藍をしのぐほどだったそうです。牧谷地区のあるお檀家さまの話によれば、永明寺に牧谷地区のお檀家さまが多いのは、この金峯山の廃寺を江戸時代に曹洞宗に改めて再興したのが永明寺だからと以前うかがったことがあります。江戸時代には新しく寺院を建立することに制限がありましたが、廃寺を復興するのなら寺院数は増えないので認められることがあったようです。特に慶長二十年(1615年)に一国一城令が制定されて後は、道竹城の跡地の上屋敷は交通の要衝のため永明寺という寺院をすえることで有事の際には砦の役割もになわせたかったのかもしれません。
  岩美町の金峯山は、『新編 岩美町史』(pp.582-583)によれば、判明している限り、文治四年(1188年)に源頼朝が寺社領300石を寄進してから、南北朝期の延元三年(1338年)頃に最も隆盛を極めたそうです。さらに文和二年(1353年)に山名氏清が二上山城へ帰城の際にたちより祈願し、寺社領3000石を寄進したようです。しかし、天正八~九年(1580~1581年)に羽柴秀吉の鳥取城攻めのときに兵火にかかり全ての伽藍を焼失して廃寺となったそうです。金峯山の蔵王権現をまつり、牧谷地区にあった龍王寺の流れをひきついでいるのが、浦富地区の殿町にある天台宗の瑞泉山吉祥院です。吉祥院の詳細に関しては、『新編 岩美町史』(pp.563-564)をご参照ください。
  岩美町には、奈良県の霊場や地名と共通するものがいくつかあります。たとえば、金峯山、二上山などです。岩美町の金峯山と同じく、奈良県の吉野にある修験本宗の総本山金峯山寺にも蔵王権現がまつられています。以前に詳述しましたとおり、長谷寺の開山の徹要尼は、奈良県の吉野にある霊鷲山世尊寺の雲門即道大和尚という師への報恩供養のために「長谷」の地名のある地に雲門山長谷寺を建立することを発願し、成就しました。鳥取市内にも長谷という地名があり長谷寺という天台宗のお寺がありますが、そこではなくて岩美町の長谷地区を選んだのには、奈良県桜井市初瀬の長谷寺を意識しているのかは定かではありませんが、それなりの理由があるように思えてなりません。なお、岩美町の荒金地区にも三徳山のような修験の霊場がありました。
  「松竹梅」は、歳寒の三友ともいわれます。「松」と「竹」が、永明寺の「松風山」と龍王寺の「竹美山」や永明寺の裏山にある「道竹城」にみられるとしても、早春をつげる「梅」は「百花の魁」としてめでたいのですが、岩美町の寺社で「梅」のつくものはありませんし、地名も思い当りません。今後の新たな郷土史研究によって永明寺と龍王寺をはじめとする金峯山の寺社との関わりも解明されるかもしれません。