鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

永明寺公式ブログ【所在地】〒681-0065 鳥取県岩美郡岩美町新井210 【電話&FAX】 0857-72-0777

永明寺の御本尊 釈迦牟尼仏坐像の由来

2012-12-19 13:54:52 | 【永明寺の由来・歴史】
  永明寺は、大正元年に茅葺屋根の旧本堂を葺き替え中に出火し、地区の象徴となっていた壮大な伽藍(本堂、位牌堂、開山堂、回廊、書院、庫裡などの堂宇)を全焼失しました。
  火災後、鳥取藩士であった永明寺十四世の良宣佛英大和尚(慈眼寺十六世)とお檀家の皆様の尽力により、但馬は田井(兵庫県新温泉町)にある臨済宗天龍寺派の佛頂山楞厳寺塔頭の舒陽庵(楞厳寺二世の太初周廓禅師の開基、明治四十三年廃庵)が永明寺本堂とするために購入、解体移築されました。
  それは鳥取市栗谷にある鳥取藩主菩提寺の広徳山龍峯寺(臨済宗妙心寺派)本堂(間口10間、奥行7間)が火災で本堂を失った兵庫県美方郡新温泉町居組の虎嶽山龍雲寺(曹洞宗)によって明治期に購入され移築された事情とよくにています。
  舒陽庵の建材は、田井の浜から浦富の浜まで船によって運搬され、馬車でひいて新井の上屋敷まで運ばれました。楞厳寺は、延文五年(1360年)に創建された古刹であり、夢窓疎石国師の法孫で権中納言の平宗経の二男である南溟昌運禅師(1328~1412年)を開山としています。楞厳寺は、「絹本著色夢窓国師像」(弘和三年)「絹本著色仏国国師像」(應永二十二年)「絹本著色山名時熈像」(正長元年)など兵庫県指定文化財の宝庫で、「楞厳寺文書」(四巻四幅)といえば山名家の研究者の間では有名です。
  移築再建された本堂の上棟式と入佛式は、大正十二年八月に執り行われました。その折に、瑞松山景福寺(鳥取市新品治町)の塔頭のひとつであった周源院の御本尊「釈迦牟尼仏坐像」を永明寺に遷座して当寺の御本尊としました。この遷座にあたっては、永明寺十三世をつとめたのち景福寺四十三世となった眞應天龍大和尚の力添えもあったのでしょう。
  なお、現在の本堂は、永明寺十五世の黙翁玄笑大和尚のときに本堂を一度解体し、舒陽庵の部材のうち虫食いなどで損傷の見られる部材を一部交換して、昭和四十八年に修築されています。

永明寺の薬師如来像の由来(因幡薬師霊場 第26番札所)

2012-12-18 20:30:54 | 【永明寺の由来・歴史】
  永明寺の開創期の歴史をたどってみると当寺に薬師如来像が奉安されている背景には、白鳳期の創建とされる岩井廃寺(国史跡)や平安期に開かれたとされる岩井温泉と密接な関わりがあることがわかります。
  永明寺開山の日外宗旭大和尚は、本光寺十世、長安寺開山です。本光寺は、永明寺の本寺であり、岩井温泉に鎮座する御湯神社の社地の字「弥勒堂」のあたりにあった天台宗の岩井廃寺(弥勒寺)を曹洞宗に改宗し、応永元年(1394年)に山名煕貴(一説に山名煕高)が開基となって再興された由緒ある名刹です。岐阜市にある岩井山延算寺には、岩井廃寺の薬師如来像(重要文化財)が移され奉安されています。本光寺は、日外宗旭大和尚のときに鹿野にある少林山讓傳寺の末寺と定められました。また、岩井温泉近くの宇治の利生山長安寺は、岩井温泉の源泉を発見し病を癒したとされる宇治長者こと藤原冬久の菩提寺です。平安期作の仏像を有する長安寺は、廃寺となっていましたが、日外宗旭大和尚が寛文元年(1661年)に本光寺の末寺として再興し開山となりました。
  日外宗旭大和尚は、晩年に隠居して過ごす適地を新井の道竹城の上屋敷に得ました。高僧が隠居する知らせを聞いた近隣の地主、庄屋などが競って浄財を喜捨し、鳥取藩主の池田光仲の治世に寺領を安堵されて、永明寺は、承応元年(1652年)に本光寺の隠居寺として開創されました。開創以来、永明寺は、釈迦牟尼仏を御本尊としていますが、承応四年(1655年)に薬師如来像が奉安されたことが如来像の背面に記されています。永明寺三世の厳洲太密大和尚(本光寺十五世)が伽藍を整備し、そのあとを引き継いだ永明寺四世の鳳洲道林大和尚(本光寺十八世)が永明寺の開創期の由来に関して安永四年(1775年)に『永明寺因由記』を漢文で著し詳述しています。
  永明寺二世の華山太梁大和尚(本光寺十四世)は、寛文七年(1667年)に本光寺が坂上から恩志に移転した後、本光寺御本尊が「拈華微笑の釈迦牟尼仏」のため「拈笑山」だった山号を本光寺開山の南章長勝大和尚(勅賜佛頂瑞應禅師)にちなんで享保十一年(1726年)に「瑞應山」と改めました。永明寺には、延享元年(1744年)に華山太梁大和尚が御湯神社の神祇官の占部後胤と渡部長門のもとめに応じ、神社の由来を漢文で著した『御湯神社本記』が所蔵されています。