江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年5月13日)

2018-05-13 19:20:29 | Weblog

主日礼拝(復活後第七)

2018.5.13

十二という数字に込められた意味

使徒言行録1:12-26

導入部

 みなさん、おはようございます。祈りをもって、このメッセージを始めていきたいと思います。お祈りしましょう。

 

祈り

 愛する天のお父様。あなたの尊い御名をあがめ、心より賛美いたします。

 本日、このように、この場所で、ここにいらっしゃるお一人ひとりとともに、礼拝を捧げられていることを、心より感謝します。

 私たちはあなたが必要です。あなたの助けなしでは無理です。だからこそ、このように礼拝を捧げられることを、心より感謝致します。目には見えませんが、あなたがここにおられることを信じ、あなたに期待をします。

 ただいま、聖書が開かれました。あなたが、聖霊さまにあって、導いて、書かせてくださった、このいのちのことばを、神のことばを、あなたの思いを、私たちが本当に悟ることができますように。どうか、私たちの心を照らしてください。

 弱き者が、取るに足らない者が、あなたに立てられたゆえに語ります。準備の中であなたが助けてくださったことを信じます。どうか今も、助けてください。憐れんでください。あなたの心を、あなたが教会に語りたいことを、忠実に語ることができますようにしてください。

 今日は江上先生は、浦和教会でご奉仕にあたっておられます。どうか、先生の上に、そして浦和教会の礼拝の上にあなたの助けがありますように。

 また今日ここに来たくても、来ることができなかった兄弟姉妹もおられます。あなたがその場所にあって、あなたとの深い交わりを与えてくださいますように。

 あなたに、ただあなたに期待し、また感謝をして、私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。

 

質問

 最初にみなさんに質問をしたいと思います。みなさんに質問をしたい。みなさんは、好きな数字はありますか?好きな数字はなんですか?

 

 ちなみに、私は、44という数字が好きです。何でやねんと思われるかもしれません。日本では、4は死を意味するとして、避けられる。それにも関わらずなぜ私が44が好きかというと、「よしき」、両親がつけてくれたこの名前のーちなみに今日は母の日ですね。私もあとで母に電話したいと思いますが、両親がつけてくれた、私の名前の、「よし」が44だからです。ちょっとどうでもいい話でしたが、みなさんは好きな数字はあるでしょうか?ラッキー7が好きだとか、自分の誕生日の数字が好きだとか、あるいは「特にありません」という方もいらっしゃると思います。

 

 実は、聖書のなかにも、神さまが特別に扱っている数字があります。それは、神さまが好きな数字と言っても良いかもしれませんが、それが十二という数字なのです。

 本日の説教のタイトルは、「十二という数字に込められた意味」という、少々不思議なタイトルをつけさせていただきました。

 十二という数字は私たちが普段生きているなかで、よく目にする数字であります。一年は十二ヶ月で、午前午後それぞれ十二時間で、一時間は六十分、一分は六十秒ということで、十二の五倍です。星座や、干支など、歴史のなかで、世界中で、十二という数字はたくさん登場していくのですが、それは月が地球を一年間にほぼ十二回転することから来ているそうです。 

 一方、聖書において、十二という数字が大切にされているのは、イスラエルの部族が十二あったからです。そして、それゆえに「使徒」という、イエスさまが最も近くに置かれた弟子たちが、十二人でなければならなかった。

 今日は、そのことの素晴らしい意味を、十二という数字に込められた神さまの愛を、ご一緒に見ていきたい。そして神さまの素晴らしさをご一緒に礼拝していきたいと願っています。

 

本論部

一.祈りつつ、待つ

 先週私たちは、「わたし待つわ」という、いつものように非常に面白いタイトルのもと、イエスさまが十字架にかかり、復活して、天に昇られた。その直前、エルサレムを離れずに、聖霊が注がれるのを待ちなさい。人間の力ではなく、神さまの力に頼って生きていくために、祈って、待ちなさい。「待っていた」弟子たちがいたのだということを、江上先生を通して学びました。

 今日読まれた箇所の直後、使徒言行録2章で、いよいよその約束通り、弟子たちに聖霊が注がれます。来週は、そのことを記念する「ペンテコステの日」という、教会の記念日ですので、そのことはまた江上先生が語ってくださることと思いますが、2章に向かう途中、彼らが「待っていた」間、何をしたのかということが、本日の箇所には描かれています。聖霊さまが注がれるのを待っている間、彼らがしたことが二つありました。

 

 一つは、祈ることでした。1:13-14をご一緒にお読みしましょう。

 

1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。

1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 

 11名の「使徒」たち、そして「婦人たち」と呼ばれている女性の弟子たち、「イエスの母マリア」、そして「イエスの兄弟たち」の姿が見えます。

 ヨハネの福音書によると、イエスさまの兄弟たちはイエスさまの生前、イエスさまのことを信じてはいなかったと書かれています。

 家族にイエスさまを伝えるのは難しいですよね。イエスさまですら、生前は家族全員が信じていたわけではなかったとすると、少し慰められますが、イエスさまの兄弟たちは、イエスさまが死んで、よみがえられた後、イエスさまを信じ、弟子たちの群れに加わり、一緒に祈っていた。15節を見ると、合計で百二十名ほどの弟子たちが一緒に祈っていたということが分かります。 

 

二.イスラエルと使徒の特権と責任、失敗と回復

 祈っていくなかで、ペトロが気づかされ、そして実行したことがありました。それが、彼らが、聖霊さまが注がれるのを待ちながら為した二つ目のことですが、それは、「使徒」を追加し、十二という数字を回復することだったのです。

 

 最初に少し触れましたが、イスラエルにとって、十二というのは特別な数字でした。なぜなら、イスラエルという民族が十二の部族から成り立っていたからです。

 イスラエルは、神さまに特別に選ばれた民族でした。だからこそ、旧約聖書のほとんどがイスラエルのことについて書かれてある。そして旧約聖書の申命記には、彼らは、他の民族よりも小さくて、ちっぽけな民族だったと書かれてあります。それにもかかわらず、神さまの一方的な恵みによって、彼らは選ばれた。その意味で、彼らには、特権が与えられていました。

 

 彼らの特権責任でもありました。イスラエルに特権が与えられたのには理由がありました。それは、彼らを通して、イスラエルを通して、全世界を祝福するということだった。それが彼らに与えられた責任だった。

 たまに誤解されますが、イスラエルというのは、自分たちさえ良ければ良いというのではない。彼らを通して、全世界が祝福されるために、彼らは特別に選ばれたのです。

 

 でも、ご存知のように、イスラエルの人々はその責任を果たすことはできませんでした。彼らは失敗を繰り返した。旧約聖書がこれほど分厚いのも、イスラエルがそれほどたくさんの失敗を繰り返してきたからだとも言われます。

 彼らは、神さまの愛を何度も何度も裏切り続けてきた。イエスさまの時代には、神さまに従おうとしている人々もいたことにはいたのですが、そうなると逆に、他の人々を見下し、さばきまくっていた。

 

 しかし、、、神さまはそんなイスラエルを見捨てなかった。イスラエルを諦めなかった。回復をしたいと願われた。そのために、選ばれたのが十二人の使徒たちであったわけです。

 彼らがなぜ十二人だったのか。なぜ十二人の使徒が選ばれたのか。それは、イスラエルが十二の部族から成り立っていたからです。イスラエルを回復するために、彼らは選ばれた。

 

 使徒たちと、イスラエル民族の姿は本当に重なるんですね。使徒たちもまた、イエスさまに特別に選ばれましたが、それは彼らがすごい人々だったからではありませんでした。それは特権でした。そして、その特権責任だった。イスラエルと同じように、彼らを通して、全世界が祝福されることが、彼らに与えられた責任でした。

 しかし、聖書、特に福音書が語っているのは、彼らもまた、失敗を繰り返したということです。イエスさまが十字架にかかる前には、彼らは高慢でした。自分たちが弟子であることを誇りに思い、人を見下していた。でも、十字架にかかられるときには、使徒たちはイエスを見捨て、逃げました。イエスさまの最も近くにいて、イエスさまが心から愛し抜いた、それにもかかわらず、彼らはイエスさまを裏切った。十二という数字に込められた特権責任を、彼らは果たすことができなかったのです。

 

 しかしですよ、幸いなことは、聖書が語る神は、何度でも回復を与えてくださる神である。諦めない方である。一度失敗をしたらもうアウトだという神であれば、弟子たちのストーリーはここで終わっていました。

 そうではない。もし私たちの神が、一度失敗をしたらもうアウトだという神であれば、私はここに立っていません。皆さんも今日教会に来られなかったでしょう。失敗をしたとしても、また戻ってくる時に、愛しているから、それを赦し、回復を与え、また使命を与える神であるから、彼らは、そして私たちは集まることができたのです。

 

三.回復を信じるか?

 しかし、使徒たちの中に、回復を、赦しを信じることができなかった人物が一人いた。それが、イスカリオテのユダという人物でした。この人は、イエスを裏切り、イエスを30枚の銀貨で売った人物です。後に、彼は、このことを後悔し、自殺をしてしまったと言われています。

 もちろん、ユダがしたことは、悪です。彼は、イエスさまに失望して、あるいは金に目がくらんで裏切った。大きな罪を犯した。でも、それは他の使徒も同じでした。もちろんやったことの種類や詳細は違うかもしれない。でも、裏切ったという事実は変わらないわけです。使徒たちの共同体は、十二という数字の意味を回復するはずであった使徒たちの共同体は、「裏切り者の共同体」だったのです。

 

 そして、イエスさまは、そのような彼らを、どこまでも愛し抜かれました。ヨハネの福音書には、イエスさまがユダをも愛し抜いたということが書かれています。イエスさまがユダを「友」と呼び、ユダの足をも洗われたということが書かれています。

 しかし、他の使徒たちとユダが、決定的に違ってしまったのは、ユダは諦めてしまったのです。もう自分は赦されないと諦め、自ら命を絶ってしまった。イエスさまの愛を、十字架の重さを、赦しの深さを舐めてしまっていた。これは悲劇です。赦しを、回復を信じられないことは悲劇です。

 

 私がアメリカ留学中に出会った学生で、こんな方がいました。彼はキリスト教と全く関係がない家庭で育ち、アメリカで初めて教会に来ました。そこで、メッセージのなかで、「人間は罪人である」ということを聞いたときに、どう思ったと思いますか?

 私の別の友人で、同じくキリスト教と関係がない家庭で育って、あるとき、道端でタダで配っている聖書を手に入れたんですね。これは、ギデオン協会という団体の聖書でした。この教会でもギデオン協会に関わってくださっている方々がいらっしゃって、五月は集中贈呈月間であると伺っていて、私たちも祈りをもって支えて行きたいと思いますが、この方はタダの新約聖書を手に入れるんです。

 で、読んでみたところ、まず最初のページにいきなり見たこともないカタカナの名前が並んでいてびっくりしたそうですが、でもとにかく読み進めてみた。すると、ひとつのことが分かった。それは、この書物は、自分のことを罪人扱いしている。どうやら、私のことを罪人であると主張しているらしい。

 それでこの人はこう思ったそうです。「何様?」そんなに悪い人でもない自分のことを罪人だと言っていることに腹が立ったそうです。もちろん、彼女もその後イエス様に出会っていくのですが、こういう人もある程度いますよね。

 でも、私がアメリカで出会ったその学生は、教会で「人間は罪人である」ということを聞いたとき、「そのとおりだ」と思った。彼は人生のなかで、ずっと自分は不完全で、本当に人を愛することができない。そのような人間であることを知って、悩んでいたそうです。なので、聖書のメッセージを聞いたとき、本当にそれが真理だと分かった。

 

 でも、問題があった。彼は、自分が罪人だということは分かっても、それでも赦されるということが信じられなかった。彼は、教会で赦しということを聞いても、自分のような人間は救われてはならないと思っていたそうです。

 彼は、やがて、赦しを信じることができた。イエスさまの十字架の血はそれほどまでに重いのだということを知っていく。彼は涙ながらにそれを話してくれたのですが、でも彼のように信じることができず、ユダのようになってしまうことは、この世界で起こっていると思うのです。たくさんの方が、自分び絶望して自殺を選んでしまっている。

 

 私も、時に、自分の罪深さ、弱さを思い知らされたとき、自分は赦されないのではないかと、赦しを信じられなくなりそうになることはあります。うまくいかないとき、自分は愛されていないのではないかと勘違いしてしまうことがある。でもその時には、私たちはイエスさまの十字架の重さを舐めてしまっている。イエスさまがどれほどまでに苦しまれたのかということを忘れてしまっている。

 私たちは、罪深いまま、イエスさまのもとに行って良いのです。疑いを持ったまま、イエスさまの十字架のもとに行って良い。なぜなら、そこに、赦しが、愛が、回復があるのです。

 

 ペトロを始めとする他の使徒たちは、その回復を、ギリギリだったと思います。でも信じることができた。そこにすがることができた。

 自分もまた裏切ってしまったという事実がある以上、彼らはユダを見下したり、ユダを裁いたりはできなかったと思います。今日のこの箇所の言葉も、厳粛な事実として、厳粛に語ったと思うのです。

 ペトロが、もう一度、十二という数字を回復しようと語ったということは、自分たちは過ちを犯した。取り返しのつかないような失敗をした。イエスさまを裏切った。でも、イエスさまが、十字架にかかって、その罪を赦してくださった。この特権を与えられた。だから、もう一度、責任を、使命を担っていきたい。イスラエルに委ねられた、自分たちに委ねられた、あの特権責任を担っていきたい。担わせてください。その願いを込めて、彼らは十二という数字を回復したのです。

 

 使徒たちは話し合いをして、最後にはくじを引いて、マティアという人が選ばれ、十二という数字は回復しました。そしてその十二人の使徒を中心とした交わりに、ペンテコステの日に聖霊が降る。それは神さまのメッセージでした。あなたたちを確かに赦したよ。そして、あなたたちに、もう一度使命を与えるよ。そして、聖霊の力によって教会が生まれ、全世界に広がり、やがてそこに私たちが加えられていくのです。

 

結論部

 私たちも、日々のなかで、イエスさまを裏切ってしまうことがあると思うのです。私自身の日々の生き方を振り返るとき、イエスさまを悲しませることがなんと多いものかと思います。

 でも、日常のなかで、十二という数字を見るとき、思い出してください。十二部族から成るイスラエルは罪を犯した。十二人の使徒たちは裏切り者だった。でも、主は、回復を与えるのです。その十字架にあって、彼らを回復へと招かれた。

 私たちには十字架しか誇れるものはありません。でも、だからこそ私たちは十字架を語るのです。その愛の力によって、日々を生きていくのです。

 イスラエルを用いられたように、使徒たちを用いたように、神は教会を用いたいと願っておられる。何度失敗をしたとしても、あなたを用いたいと願っておられる。主はあなたを諦めておられない。

 十二という数字を見るとき、そこに込められた意味を、私たちに与えられた特権と、そして与えられた尊い責任を思い出し、十字架を見つめつつ、これからの1週間を共に歩んでいこうではありませんか。お祈りしましょう。

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