江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

大旅淵の蛇神 「土佐風俗と伝説」より

2023-04-17 23:37:12 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

大旅淵の蛇神  「土佐風俗と伝説」より

                2023.4

今は昔、長岡郡本山郷天坪(あまつぼ)の字(あざ)穴内赤割(あなないあかわた)川と称する川上に、大旅(おおたび)の淵と言う、底の知れない深い淵があった。

昔より蛇神が棲んでいて、金物などを淵に入れると、怒って大暴れした。
たちまち、暴風雨などを起こす、と言って、人々は皆恐れていた。

ところが、ここの村に一人の男がいた。
物好きの人であって、ある日ここに魚釣に出掛けて、釣糸を垂れた。
さて、魚の釣れることは、たとえようもなく、多かった。
丸で引っ切り無しであったが、最早や籠一杯になったので、急いで家路を指して帰った。

家で、ふたをあけて見れば、これはどうしたことか、ただの木の葉のみと変っていた。
流石の大胆なる男もこれに懲りて、その淵では、二度と釣りはしなかった。

しかし、ある無頼の者が、又この淵には魚が豊富にいるので、鵜飼いをしようと、ある日、一羽の鵜を放った。
しかし鵜は、水中にもぐったまま、再び出て来なかった。
これは不思議、と衣服を脱いで水底にもぐって行くと、珍らしい殿閣があって、丸で浦島太郎の龍宮の話のようであった。
一人の美しい女神が、殿中で機(はた)を織っていた。
機(はた)の上に彼の鵜を止まらしてあった。

女神は、
「ここは人間の来る所では無い。早く帰れ。」
と言った。
その男は鵜を放ったことを詫びて、ゆるしてもらい、命からがら這うように逃げ帰った。

それより、再びこの淵に近付かなかった。

また、この村に国見山と言う、強力無双の力士があった。
ある日、外出して帰宅途中の夜半の丑満(うしみつ:午前二時位)の刻(とき)に、この淵の傍を通った。
すると話にもきいたことが無いような大蛇が、悠然と横たわっているのを見た。
彼は、流石に強気の男であって、大蛇に「通れないからどうぞ通してくれ」と言った。
しかし、蛇は中々動かなかった。
この男は乱暴にも、手頃な松を引き抜き、それで大蛇を打ち叩き、大蛇が去っていくのを見て、家に帰った。

それから、毎夜、大蛇の神が枕神に立って、うたれた
苦しみを訴へた。
力士は大熱を病み、遂に煩悶しながら死んだ。
そしてその最後には、身体には鱗のようなものがあらわれた。


朝倉の蛇田 「土佐風俗と伝説」より

2023-04-17 23:35:37 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

朝倉の蛇田  「土佐風俗と伝説」より

                     2023.4

今は昔、土佐郡朝倉村の南方の網代谷(あじろだに)と言う所に、毎年秋の稲の熟する頃、猪が出てきて歩き、田を荒らすことがあった。

百姓の難儀は、大変なものであった。
所の若い郷士の桑山大八と言う剛勇の武士は、
「おのれ害敵を退治してやろう」
と、ある夜、手銃をさげて、そこへいった。

夜ふけに及び、果して猪の群れが出てきたので、引金に手を掛けんとするや、にわかに猪は何物にか恐れたのであろうか、驚き逃げ散った。
大八は不審ながら、急に妙に眠気を催したので、銃を投げ仮眠してしまった。
しかし、頭上へ、亡き父の姿が朦朧と枕神に立った。
「大八、猪は逃けたが、他の敵が来たぞ。」
と告げたので、目を覚したが、何者もいなかった。
又、眠れば枕神が立った。
この様なことが三度に及んだので、大八も怪しみ、あたりを見わたした。

果して、巨大な蛇が大口を開き、まさに一ロに大八を呑みこもうと近づいた。
そこですぐに銃を取り、目にも見せない早さで一発二発、その両眼を打ち貫いた。
それで、流石の怪物も急所の痛手に耐えきれなかった。
近辺の稲田をのたうち回りながら逃げて行方を見失しなった。
翌朝、村民とともに大蛇を探したが、東方の鏡岩の近くに、枯木の様な巨大な遺骸を発見した。

蛇の死んだ田は、後に崇があった。
小さい祠を建てて、大蛇を祀った。
漸く、祟りが起こらなくなった。

今なお、この辺に蛇田と言って、一町六反一畝二十六歩の大田がある。


蛇身鹿に変ず  「土佐風俗と伝説」より

2023-04-17 23:33:09 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

蛇身鹿に変ず  「土佐風俗と伝説」より

                        2023.4

今より百年程昔、佐川領(家老領)河内(かうち)の足軽に篠原助蔵と言う者があった。

ある朝未明に狩猟に行き、尾川(高知県佐川町)の山中で長者が瀧と言う瀧の下に一匹の鹿を見た。
しかし何となく鹿とも見えないので、化け物と思い、
「真の鹿で無くば姿を変へそこを立退け。さもないと打つぞ」
と銃を構えたところ、鹿はたちまち角を生やし、助蔵に喰いかかった。

このように、一発に打ち止めると、尾川の轟淵に墜ち込んだが、この轟淵と越知(おち)樽瀧の上流の囲炉裏淵と同じ流れてあったのか、血潮がここ(囲炉裏淵)まで流れた。
後、助蔵が囲炉裏淵へ来て見れば、大蛇の鱗が三枚あったので、拾ってこれを祀った。

つまり淵の主が鹿に恣を変えていたものであろう、ということであった。

篠原一家はこれを恐れ、近頃は大樽の瀧の近くへ行ったことがない、と申し伝えられている。
     

 


槇山(まきやま)の蛇釜の淵 「土佐風俗と伝説」より

2023-04-17 23:29:47 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

槇山(まきやま)の蛇釜の淵   「土佐風俗と伝説」より

                              2023.4

今は昔、香美郡(こうみぐん)槙山村岡内(まきのやまむらおかのうち)に大きな池があった。
大蛇がここに棲み、埋め立てることが出来なかった。
ある時、平家の武士の宗石権守が戦に敗れて落ちて来て、大蛇を退治しようとした。
手飼の名犬を連れ、名剣を口にくわえ、七日七夜池の中を泳ぎまわった。

流石の大蛇もその勢いに恐れ、二匹の児蛇をつれて、どことも無く去っていった。
しかし、あわてて、一匹の小蛇を池の下の谷間に残していった。
権守(ごんのかみ)は、このようにして池を埋め立て、六反六畝の農地を得て、民の益をなすこと、極めて大であった。

しかし、後世に至り、その残されたる児蛇も年と共に成長し、又その子孫も出産繁昌した。

後の宝暦(ほうれき)年間(1751~1764年)に、加賀の国(石川県)より蛇釣りに巧みなる人が来た。
同所の誓渡寺(せいどじ:高知県香美市)と言う寺院の庭に、その術を以って淵に住んでいた蛇を呼び集めた。
その数は九十九匹いたそうである。
その中の親蛇の長さは七尋(ひろ:大人が両手を広げた長さ)あった、その他は、皆二尋三尋の児蛇のみ
であって、すべて元の池へ放った。

今なお、その淵に数多くの蛇が棲んでいるといわれている。

権守の事績を、土地の人々は忘れず、池の明神と称し、同所の氏神の側に小さな社を建立してを祭った。又、その従った犬も、犬塚と言って傍に祭ってある。