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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

サッカー(蹴鞠けまり)の精霊 千年前の  「伊勢参宮図会」

2023-03-09 19:14:05 | 奇談

サッカー(蹴鞠けまり)の精霊 千年前の

                                                                                  2023.3

昨今は、サッカー(フットボール)が、大変な人気です。
私が、子供の頃は、スポーツと言えば、野球であり、
サッカーやフットボールという言葉を、ほとんど聞いたことがありませんでしたが。
大分、変わったものです。
その、サッカーについて、興味深いものを見つけました。
「伊勢参宮図会」(寛政9年1797年)を見ていると、おもしろい絵が目に付きました。
蹴鞠の精(精霊、Spirit)の絵です。
これは、と思い、読んでみました。
蹴鞠とは、鞠を蹴って遊ぶスポーツです。
いわば、千年前のサッカー(フットボール)です。
もうすこし、知りたいと、「古今著問集(鎌倉時代の説話集)」も参照してみました。

表題に精霊と書きましたが、「古今著問集」には、「性(= 精に音が通じる)」とあります。「伊勢参図絵」には、「精神」とあります。
現代語では、「精霊=Spirit」が、最も文意に沿っているので、これを使いました。


以下、絵と、著問集の蹴鞠の部分を紹介します。

この絵は、私所有の「伊勢参宮図会」の中にあり、そのままだと見ずらいので、見やすいように加工しました。
江戸時代のものなので、もう、著作権は切れています。自由に、引用して下さい。

以下、本文

大納言藤原成通(ふじわらのなりみつ、1097~1162年)卿の、蹴鞠(けまり:昔のサッカー)の技は、大変に優れたものであった。

このようなことが伝えられている。
蹴鞠(けまり:昔のサッカー・フットボール)を好むようになって以来、競技場に行くこと、7000日。
そのうちの2,000日は、休まず連続であった。
その間に、病気の時は、寝ながら鞠を脚(あし)にあてていた。
大雨の時は、太極殿の屋内で蹴鞠をした。

千日間連続の蹴鞠の終わりの日には、続けて300回以上、蹴って、落ちる前に蹴り上げた。
そして、棚を二つ設けて、一つの棚には、鞠を置いた。
もう一つには、神様に供えるような、さまざまな供物を並べた。
そしてお祓いなどに使う幣(ぬさ)を一つ立てた。
また、幣(ぬさ)を手に取って鞠を神様のように敬い拝した。

蹴鞠の競技の終わった後、参加者全員が席につき、乾杯した。
三度目の乾杯の後、それぞれの参加者が得意技を披露した。
五回の乾杯の後で、参加者に褒美を与えた。
すぐれた者には、檀紙・薄様(うすで)を、侍者たちには、衣服を与えた。

祝宴が終わって人々が退出し、夜になって、そのことを記るそうとした。
灯(あか)りを近くに引き寄せ、墨をすったが、棚に置いてあった、鞠が前にころがって落ちてきた。


「不思議だ・何事であろうか?」と思ううちに、怪しげなのが現れた。
顔は、人で、手足や体つきは猿のようで、大きさは、三・四歳位のものが三人、手には鞠持っていた。
驚いたと思いながら、
「何者だ?」と厳しい声で聞いた。

「我らは、鞠の精である。」と答えた。
「昔より、あなたほど蹴鞠を好んだ人は、いません。千日の後に、さまざまな供物をいただき、お礼を申し上げようと、また、我らの姿や、鞠のことをも話そうと、出て来ました。我らそれぞれを名をお教えしましょう。これを、見よ。」
と、眉にかかった毛を押し上げた。
すると、
一人の額(ひたい)には「春陽花」と言う字があり、
一人の額には、「夏安林」と言う字があり、
もう一人の額には、「秋園」と言う字があった。
文字の色は、金であった。
(伊勢参宮図会には、「しゅんようか」、「かあんりん」、「しゅうえん」とルビがふってある。)

このような、文字を見て、、「いよいよ不思議だ」と思った。

また、鞠の精霊(原文では、玉生=たましい、となっている)に質問した。
「蹴鞠は、いつも行われてはいない。その時は、どこに住んでいるのだろうか?」
答え。
「鞠の競技のときは、鞠に付いております。蹴鞠の無いときは、柳の多い林、清い所の木に棲んでおります。蹴鞠を好む時代は、国が栄え、良い政治が行われている時代です。幸福感があり、寿命は長く、病気もせず、来世も良いことになります。」
また、質問した。
「国が栄え、出世も出来、命も延び、病気もせず、福がくるのは、さもあるであろう。
しかし、来世までも良いと言うことは、言い過ぎではなかろうか?」
と言った。

鞠の精は、
「そのように、思うのは、もっともな亊です。
しかし、人間というものは、一日のうちの多くは、つまらない亊やよこしまな亊を考えるものです。
それも、神仏から見れば、罪に当たります。
蹴鞠を好む人は、蹴鞠の競技に臨んで、鞠のことだけ考えて、他のことは考えません。
すると、邪念が起こらないので、来世に極楽に生まれ変われる機縁となりましょう。
ですから、蹴鞠のことを好むべきなのです。
あなた様が、私どもの誰かの名を呼べば、木を伝って、お仕えいたします。
ただし、庭での蹴鞠は、お好きではなさそうです。
木から離れている建物では、近寄る術(すべ)が、ありません。
今後は、私ども蹴鞠の精霊がいることを、心にかけていただければ、お守りとなりましょう。
蹴鞠の技(わざ)は、ますます良くなって行かれましょう。」
と、このように話している内に、姿が、見えなくなった。

(訳者注:当時の仏教の思想では、死後に極楽浄土に行けることが、理想でした。
当然、生前に悪事を働いたり、邪悪なことを考えたりしては、極楽に行けません。
蹴鞠、つまりスポーツに没入すれば、邪悪なことを考える隙間はありません。
だから、極楽に行くことに近づける。と言う事でしょう。)

 

 

 

 


猫の審判  猫の彫刻の優劣を判断させた話 「安濃津昔話」

2023-01-13 17:27:19 | 奇談

猫の審判  猫の彫刻の優劣を判断させた話  「安濃津昔話」


                                 2023.1
これは、化け猫の話ではなくて、猫に彫刻の優劣を判断させた話である。

津藩の誉れである彫物師田中岷江は、享保二十年に伊賀の中柘植で生れて、文化十三年に八十二歳で津において歿した。
藩に抱えられて十二人扶持を受けたが、その技術は大変に精妙であった。
眠江の弟正好は淵田氏の養子となって淵田の姓を相続したが、これまた彫刻の妙手であった。

或る時、兄弟が彫物に腕前について賭をした。
それは、おのおの一個の鼠を刻んで、それを猫に見せ、一番に飛び掛られた方の鼠の作者を、優勝者としようというものであった。
猫の審判こそ、最もえこひいきの無い公平なものであるとの考えからであった。

それで弟の正好は色々と考えを練って、鰹節を材料に使って精巧な鼠を作った。
形が鼠で、中身が鰹節、これに飛付かぬ猫はいないであろう。
こんどこそ、兄貴の鼻もへし折ることが出来るだろうと、自信満々であった。

それに反して、岷江は無雑作に薪の中から一本の木を引っ張り出した。
それを以て一匹の鼠を作り上けた。
そこで二個の鼠を一室に並べて置いて、襖の間から猫を入れた。
すると、猫は例の如くじっと首を下にし、二匹の鼠を、ややしばらくニラんでいた。
やがてパッと飛びあがった。
そして一疋の鼠をくわえて室外へ走り去った。
あとに残ったは、鰹節で作った鼠であった。

技を称賛したとの事であった。


この話は、弟の淵田氏の子孫が言い伝えた話である。

「安濃津昔話」より

 


果心居士の幻術・魔術・手品  原典、典拠  「義残後覚 巻之四」

2022-07-07 19:26:00 | 奇談

果心居士の幻術・魔術・手品
            2022年7月


果心居士(かしんこじ)は、戦国末期の人で、数々の不思議を行った人である、とされている。
道士でも、行者でもなさそうである。宗教的な背景がないので。
実在の人物ではなく、いつくかの話をつないで、仕立て上げられたのかも知れないが、面白い人物である。
果心居士が行ったのは、手品のたぐいであろう。

「義残後覚 巻之四」に果心居士の事が収載されている。

果心居士が事

中頃(なかごろ:すこし昔という程度)に、果心居士(かしんこじ)という幻術を行なう者があった。
筑紫(福岡県)より、上方(かみがた)へと上ってきたが、日をかけて伏見(京都)に来た。
その時、日能大夫が勧進能を行っていたが、
見物客が多く、芝居小屋の内外に、あふれていた。
い見聊で
果心居士も見物しようと思って、中に入ってみた。しかし、多くの見物人がいて、足の踏み場もないくらいであった。
果心居士も芝居を見ることが出来ないので、人々をどけてみようと、こんな事をした。

見物人の後に立って、あごをそろそろと、ひねった。
すると、見る見るうちに、おおきな顔になった。
人々は、これを見て驚き、不思議がったり、恐ろしがったりした。
人々が、顔の変わっていくのを見るに従い、果心居士は、少し傍らに退いていった。
芝居の見物人たちは、上へ下への大騒ぎとなって、入れ替わり立ち替わり見ているうちに、果心居士(かしんこじ)の顔が二尺ばかりの長さとなった。
人々は、これが魔法と言うものだ、後の世にも話の種としよう、と押し合いへし合いしている内に、能の役者も、楽屋をあけて、見物に来た。
果心居士は、これは良いと、かき消すように、失せて行った。
見ていた人々は、これは珍しい不思議な化け物であると、驚いた。
さて、果心居士(かしんこじ)は、場所が空いたので、舞台のそばの良い場所に、編み笠を敷いて座り、芝居を思うままに見物し楽しんだ。

また、中国地方の広島という所に長く住んでいた。
その間に、ある商人から、お金を借りた。
しかし、京都に上るにあたり、一銭も返さずに、密かに出て行った。

貸した商人は、
「にくい果心居士め、何処に逃げたのか?」と悔しがったが、どうにもならず、時間だけが経っていった。

ある時、彼は、商売のために、京へ上った。
すると、鳥羽のあたりで、この果心居士と出会った。
商人は、そのまま果心居士を捕まえて、
「さても、久しぶりだな。果心居士よ。
それにつけても、御身には、ずいぶんと親切にした甲斐もなく、夜逃げするとは。
人の、好意を裏切るとは、ひどい人だな。」
と、ののしった。
果心居士は、これはまずいと思ったのか、この人に捕まってから、また、顎をそろりそろりとなで始めた。
すると、顔が丸く広がり、目も丸くなり、鼻は極めて高くなり、歯も大きくなった。
商人は、これは?と思った。
果心居士は、
「なんのことかな?
それがしは、御身を存ぜぬが。
そのような事を言われるのは、不思議でござる。」と言った。
商人は、初めは果心居士だと思った。
しかし、見ると、彼とは別の人であった。
それで、見間違えたと思って、
「まことに、はや合点して、申し訳ない。
見知った人と間違えました。
お許し下さい。」と謝った。

後に、人々はこの話を聞いて、「これは、何よりも知りたい術である。」と笑った。


また、ある時、戸田の出羽と言う兵法者が、天下で最も強い、との評判があった。
果心居士は、そのもとに行って、近づきになった。
いろいろと話をしたが、果心居士は、
「それがしも、兵法に少し心がけがござる。
それほど、深い事は、存ぜぬが、世の常の人には、負けませんぞ。」と、ふと漏らした。
戸田は、これを聞いて、
「それは、立派なことでござる。
さらば、御身の太刀筋を見たいものでござる。」と言った。
果心居士は、それならと、木刀を取って立ち会い、「やっ!」と小鬢(こびん:頭の側面の髪)をちょうと打った。
出羽は、まるで夢を中のようで、太刀筋も見えなかった。
「今一度」と言うと、
「心得た」と、また同じように打った。

戸田は、
「さりとは、御身の太刀筋は、兵法の上の方術を行うことによる、格別の法でござろう。」と打ち笑った。
その後、戸田は、こう問いかけた。
「御身には、八方から打ちかかっても、身にはあたらぬのでござるか?」と。
果心居士は、
「打たれるとは、思いも寄らぬことでござる。」

それならと、十二畳敷の座敷に、弟子を七人、自分を入れて計八人で、果心居士を中に置いて座敷の四方の戸を閉ざした。
そして、皆で打ちかかったが、果心居士は、
「やっ!」と言って、見えなくなった。
皆は、驚いて、
「果心居士、果心居士」と呼びかければ、「やっ!」と言う。
「何処にいるのか?」というと、「ここにいる。」と答えた。
座敷には、ちり一つ無いので、それなら、「縁の下に隠れているぞ。」と誰かが言った。
それで、畳を上げて、縁の下をみたが、何も無かった。
「果心居士」と呼べば、返事をする。
これは、まことに不思議な事である、と人々は驚いた。
しかし、突然に部屋の真ん中に現れた。
果心居士(かしんこじ)は、
「我が名を呼ぶのは、何事でござるかな?」と言った。

人々は、驚き、果心居士の顔をのぞき込んだ。
「このようであれば、百人,千人でかかっても、かなわないであろう。」と言って、うらやんだ。

 


座臥記における漂流民の記述

2022-07-05 19:07:01 | 奇談
座臥記における漂流民の記述

                              2022.7

江戸時代は、鎖国をしていたので、外国との交渉は、少なかったとされています。
しかし、漂流をして、帰って来たものが、少数いました。

「座臥記(ざがき)」桃西河(もも にしかわ)著、という随筆に記載されているのを、紹介します。


筑前の国の唐泊浦に、孫太郎と言う者がいた。
十二、三歳のとき、大船の炊事係りとして、乗船した。
風波に遭って、天竺のあたり、「バンヤルマアジン」と言う国の中の、「バンヤルマッサン」と言うところに漂着した。
21人の舟子(かこ)の内、死ななかった残りの10数人がいた。
それを「バンヤルマッサン」の人が、奴隷として売った。
1人当たり銀銭6、7枚から10枚位、あるいは金銭1枚などで、売られたものもいた。
孫太郎は、銀銭8枚で買われて、民間人の奴隷となった。

バンヤルマッサンに大きな川があった。
幅が4km位であった。
その川にボハヤ(ワニ)という、大きな動物がいた
。長さは、2、3間から6、7間まで、大小のがいた。
背は黒く、腹は黄白赤であった。
トカゲやイモリに似ていて、四つの足がある。
川の中で、人を襲い、或いは陸上まで走り出て、人を追いかける。

それで、年に一度、ボハヤ狩りが行われる。
もし、数人の人が襲われれば、年に2度3度も、狩りが行われる。
狩りには、必ず銅製の武器が使われる。武器の形は、さまざまであるが、大抵はとびぐち、長柄の鎌のたぐいである。
役所より、狩りの時に支給されるようである。
この動物が、はなはだ銅を恐れる。少しばかりであっても、銅を身につけていれば、その人は、ボハヤ(ワニ)には、襲われない。

それで、この国の人は、銅を貴んでいる。
嫁取りの時にも、銅を持っている家の娘を、争って娶る。
しかしながら、銅は、この国には産出しない。
日本より産出したものを、オランダ人が持って来て、大いに利益を得るとのことである。

孫太郎は、この国で、年月を経て、その後転売されて、ジャガタラ(ジャカルタ)に至った。
ジャガタラは商船の多く集まる所で、甚だ繁華の場所である。
オランダ人もここで商品を買って、日本に持ってきて売るのである。
孫太郎はオランダ船に乗って、帰ってきた。

おおよそ、異国にあること十三年にして、帰って来た。
時に、二十四、五歳であった。

この話は、石州の松村喬(字は子堰)世策と通称する人より聞いた。



編者注:孫太郎の流れ着いたのは、インドネシアのどこかであろう。
転売されて、邪ガタラ(ジャカルタ)に至ったとあり。
また、ワニ鰐をボハヤ(Bohaya)と言っている。
現代インドネシア語で、ワニはBuayaであることから、このボハヤ(Bohaya)は、インドネシア、マレー系の単語と思われる。

「座臥記 」は、「続日本随筆大成第一巻」にあるのを元に、現代語訳をした。

蛇の大集合  蛇の塊   「中陵漫録」

2021-05-27 19:53:18 | 奇談

蛇の大集合  蛇の塊
                         2021.5
「中陵漫録」には、蛇が多数あつまる現象を記述した部分がある。
本来の題名は、「蛇相闘(へび あいたたかう)」となっています。

薩州(鹿児島)の西に蛇塚と云う所がある。6,7月時分、蛇が大に集まる時がある。人がその傍らを通り過ぎても、その塚の上に数百匹が塊になって、逃げ去る事はない。
また、備中油野(ゆの)村(岡山県備中町)の山に蝮蛇が集まって、相い闘う事がある。
また、奥州会津の盤梯湖(福島県の猪苗代湖)のあたりでも、このように相い闘う事がある。

編者注:ヘビなどは、時として、繁殖のために、多数が集まることがある。この現象を指していると思われる。