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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

淵猿(ふちざる)=河童   続武将感状記

2025-04-11 00:10:37 | カッパ

淵猿(ふちざる)=河童   続武将感状記

                   2025.4


表題は、「淵猿」であるが、河童の事を淵猿と呼ぶ事もある。
河童の顔が猿に似ているとの説もあるので、水中にいる(淵)にいる猿という名が起こったのであろう。


天文三年、勢州(伊勢:三重県)吉田の釜ケ淵に化生(けしょう)の物があった。近辺の男女児童をつかんで淵に引き入れた。
民間は恐れて、往来が絶えた。

大江元就(おおえもとなり:毛利元就1497~1571)は、この事を聞いて、「早く退治するように」と下知した。
大蛇か鬼類かと、衆議は遅々として進む者はなかった。
荒源三郎元重(あら げんざぶろう もとしげ)は、
「大蛇鬼類であっても、我が壮勇を以ってすれば、退治するのは容易(たやす)いことだ。」
と言った。
彼は、身長が七尺、力は七十人力と称される大男であた。

彼は、太刀をとって釜ケ淵に往き、裸になり、下帯に太刀をさし、水ぎわに立って、
「この化生(けしょう:バケモノめ)。たしかに聞け。
 人民を悩ますその咎(とが)によって、お前を殺害する為に、荒源三郎元重、主命を承って来た。
出て来て勝負せよ。」と大声で呼びかけた。
すると、淵の底が鳴りひびき、逆浪が立って、水は岸に溢れて来た。元重の両足を、水中よりヒシトつかんで、水中に引き込もうとするものがあった。源三郎はその両手をとって引き合ったが、山の如くにして動かなかった。
その顔をよく見れば、淵猿であった。頭のくぼんでいる所に水があれば力があり。水がなければ力が出ないとかねねて聞いていた。それで、頭をつかもうとすると、滑らかで、つかみにくかったが、何とかして頭をつかんだ。逆しまにふり廻し、頭上の水がこぼれて、カが弱ったのを、捕まえて提げて岸にあがり、縛つて
城中に帰った。
元就は、その勇猛を賞して加増五十貫、及び、「来国行」の太刀を下賜した。
元重は、「吾れは、数次の戦で多くの敵を討ち取ったが、恩賞は少なかった。しかし、特に不満は無かった。
今、この淵猿を生け捕ったとして過分の恩賞を頂くのは、却って不快である。」と打ち笑って、太刀を置いて退出した。
元重のような者にとっては、その功にたいしては、大したことではないと思っているようだ。

続武将感状記  広文庫より


河童の名称 物類称呼  

2025-04-10 23:59:48 | カッパ

河童の名称    物類称呼  

                   2025.4

「川童」、「かわたろう」。
畿内及び九州にて、「がわたろう」、又、「川のとの」、又、「川童」と呼ぶ。(九州に多し、特に筑後の森川に大変多い)
周防(山口県)及び石見(島根県)又、四国にては「えんこう」と言う。
土佐国の住民は「がわたろう」、又「かだろう」、又「えんこう」とも言う。その手の肱(こう:肩からひじ)がよく左右に通りぬけて滑(かつ)であるからだ。猿猴に似ている故に河太郎も「えんこう」と言う。
東国では「かっぱ」と言う。(川わっぱをちぢめた言葉である。小児をしかるにも「かっぱ」とも言う。)越中にては、「がわら」と言い、伊勢の白子にては、「かわら小僧」と言う。

その姿は、四五歳ばかりの子供のようである。髪の毛が赤くて、頭の頂に凹んだ皿が有る。その皿に、水をたくわえる時は、カは大変に強い。性は、相撲を好み、人を水中に引入れようとする。
あるいは、怪しい事をして婦女を奸婬する。その災いを避けるには、猿を飼うのが一番良いと言う。
又、九州にて川を渉る人がこんな歌を吟ずる。

いにしえ(古)の やくそく(約束)せしを わす(忘)るなよ 川だち男 氏は菅原

この歌を、吟詠すれば、河童の害から逃(のが)れられると、言い伝えられている。

「物類称呼」 広文庫より

 


小山の天狗 「南紀土俗資料」

2025-04-09 19:36:52 | 天狗

小山の天狗 「南紀土俗資料」

             2025.4.8

和佐笹山(日高川町和佐か?)の城主である玉置権守(たまおきごんのかみ)は戦國時代の勇将の一人である。


ある時、所用があって有田(和歌山県有田市:ありだし)に赴き、帰途の津水より早蘇(和歌山県日高川町)への山道に件も連れず、独り峠に来かかった。師走二十日過の、日もはや暮れて隨分寒い淋しい晩であった。

と見れば路の真中に、一人の山伏が立塞って、「ここを通すことが出来ない」と言った。
気の短い権守は、ここぞ手並の見せどころと、帯びていた刀を、抜く手も見せず、彼の山伏の肩先へ切りつけた。
はっと言う声が、谷に入って行って、山伏の姿は見えなくなった。
跡には、長さ八尺ばかりの鳶色の片羽が残っていた。
さては天狗であったわい、とその羽を引きかたげ、笹山木城へと立帰った。

その後、小山で片羽の天狗が時々見られたそうである。
権守は帰えって来てから七日間物忌をして城にこもっていた。

そうこうするうちに、由良の開山からだと言って一人の僧が訪ねて来て、
「住持が彼(か)の片羽を所望すること切である」との旨を話した。
住持は、権守(ごんのかみ)の伯父なので、
「御坊の御所望とあらば差上げたいは山々だが、この羽だけは、我が身代りとして家宝として子々孫々に伝えたい。
 どうか此の儀だけは」と固く辞退した。
使いの僧は、突然に大天狗に成って、
「我は開山上人の使憎ではない。実の所、この間その方のために片羽を失った小山の天狗の親類である。
この場合、命だけはゆるすが、以後心を改め高慢の気を去らねば、汝の家は遠からず滅びるであろう。
まずこの片羽は、我が部下のものだから持帰ろう。」
と引き奪って高く高く飛び去った。

権守は刀の柄に手を懸け、一打ち にしてやろうと思ったが、体がしびれて動けず、物言うことも出来ず、口惜気ににらんでいるばかりであった、と言う。

 


以上、「南紀土俗資料」土俗編、呪詛伝説 より


開山の天狗(二) 「南紀土俗資料」

2025-04-07 19:30:50 | 天狗

開山の天狗(二) 「南紀土俗資料」

             2025.4

ある時、五右衛門五右衛門と言う気の強い男がイノシシ狩りに出かけたが、影も見えないが、木の上で笑う声がした。
それで、五右衛門は、「何を小癪な」とすぐに鉄砲を一発、その方へ向けて、ずどんと打った。

その夜更けて、皆の寝静った頃、
「五右衛門 五右衛門 これこの足を治せ。」と言いつつ戸をたたく音がした。
五右衛門は直ぐさま起きて、
「どれ治してやろう。」と鉄砲片手に戸を開けたが、影も形も見えない。

その翌夜も、翌々夜も、そんなことがあった。

後に五右衛門は、ふと足が痛くなり、湯崎(和歌山県白浜温泉)へ入湯に出かけた。
そこに、一人の眉目(みめ)よき僧が来ていたので、
「どこから」と尋ねてみると、
「由良の開山で去年中、村の五右衛門と言う者に足を撃たれた。」
とのことであった。
さすが五右衛門も、にわかに心地が悪くなって、ほうほうの体(てい)で帰村したと言う。


以上、「南紀土俗資料」土俗編、呪詛伝説 より

 


開山の天駒(一) 「南紀土俗資料」

2025-04-06 19:27:30 | 天狗

開山の天駒(一) 「南紀土俗資料」

              20205.4.6

由良の開山興国寺(和歌山県日高郡由良町)の森には、昔から元狗がいると伝えられている。

安政元年(1855年)の大地震及び大津波は、                                                                 丁度闇夜の子の刻(ねのこく:午前0時位)で、何も見えないという暗さであった。
しかし、この山におおよそ畳一枚ほどの燈火が二つ点(とも)って山陰(やまかげ)の所までも明かりが晃々(こうこう)照らされて、人々の避難には、まことに好都合であった。
これは全く天狗の所為(しわざ)であったのだ、と言われている。

以上、「南紀土俗資料」土俗編、呪詛伝説 より