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★伊香保温泉★宿泊

2012年09月01日 | ★旅行★国内
伊香保温泉(いかほおんせん)は、群馬県渋川市伊香保町(旧国上野国)にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯で、上毛かるたでは「伊香保温泉日本の名湯」と歌われた。

温泉街

急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。石段の上には伊香保神社が存在する。

石段上の源泉周りは整備されており、源泉が湧出する様子を見ることができる。また石段から源泉までの遊歩道の途中に飲泉所も存在する。源泉の傍には「伊香保露天風呂」が、石段の途中には共同浴場「石段の湯」が存在する。

温泉街と近くの物聞山にある上ノ山公園を結ぶロープウェイ(伊香保ロープウェイ)が存在する。

温泉街の周辺には榛名山や、水沢うどんで有名な水沢観音などが存在する。

























歴史

発見は1900年前とも1300年前とも言われている。万葉集にもその名が登場している。

現在の温泉街が形成されたのは戦国時代である。長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じ、整備された。石段もこのときにできた。

明治時代以降は竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など文人が多く訪れた。また、御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られた。

伊香保温泉の老舗旅館、千明仁泉亭は、伊香保を愛した明治の文豪徳富蘆花が常宿として生涯10回宿泊し、ひいきにした旅館であり現存する。海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘浪子が、愛し合いながらも運命に翻弄される悲劇の物語小説『不如帰』の冒頭を飾る宿である。

更に1910年(明治44年)には、渋川から路面電車も開通した。同線は後に東武伊香保軌道線となり、バスの台頭で1956年(昭和31年)に全廃されている。

東京などからの避暑客で賑わう1920年(大正9年)8月20日、深夜に火災が発生。温泉街を焼き尽くす大火となった。

戦後は歓楽街温泉としても栄えた。芸妓組合が現在も存在している。近年、温泉街の店舗が東南アジアから人身売買によってつれてこられた少女を監禁し、売春行為を行っていた事実が発覚し、マスコミに取り上げられている。また、2012年(平成24年)1月にも、人身売買によって同地に連れてこられたタイ人女性に売春を強制した同地の飲食店が検挙されている。

2004年(平成16年)の温泉偽装問題では、水道水を使用しているにもかかわらず温泉表示を行っていた温泉があったと報道され、注目を集めた。これは、戦後の旅館数増加に対して、開湯以来の黄金の湯の源泉は、小間口権利者ならびに権利者から購入した旅館のみの利用に限られ、源泉が不足していたことによる。

この小間口権利者が源泉を利用する権利が、周辺の湯を分配していた宿に対しての供給量を抑えて湯を引けなくなった宿が多くなった時期と、伊香保温泉における温泉偽装問題が発覚した時期が符合することから、権利者の行動に疑問を投げかけた見方もあった。

源泉の不足を補うために、1996年(平成8年)に白銀の湯が開発されたが、すべての旅館で使われなかった。また、この白銀の湯は成分的にも黄金の湯に比べ温泉特有の成分が非常に少ない(メタ珪酸単純泉:つまり、「温泉法第2条による温泉」)ので、人によっては温泉かどうか分からない、といった声もある。湧出温度も低く成分も特有のものがないため、温泉というよりは湧き水に近いと想像した方が無難かもしれない。

茶色の温泉饅頭の発祥の地とも言われ、1910年(明治44年)から売り出されている。「湯の花まんじゅう」と呼ばれている。

1955年(昭和30年)6月に、観光協会の陳情によって日本最初のケーブルテレビ(NHKによる難視聴解消用のテレビ共同受信実験設備)が設置されたとされ、温泉地にある「文学の小径公園」にはその記念碑が設置されている。