ポーランドからの報告

政治、経済からテレビのネタまで、詳細現地レポをお届けしています!

中央広場のクリスマス市

2006年12月17日 | 日常生活

暖冬といわれる今年のヨーロッパですが、雪景色も見ないうちに、カレンダーの暦だけはめくれてゆき、早いもので、クリスマスイブまであと一週間となりました。

   

クラクフ中央広場では、12月初旬からクリスマス市が立ち、リースやツリーの飾りを売る店がところ狭しと並んでいます。今日は「黄金の日曜日~Złota niedziela」、クリスマス前最後の日曜日で、クリスマス関連商品を売るお店にとっては、一番のかき入れ時の日です。そんなわけで、どのお店もみんな、休日返上で商売にいそしんでいました。

   

とりわけ、今日は中央広場で無料の炊き出しが行われ、大勢の人が集まりました。クリスマスは、一家団欒のイメージ。「だから、ホームレスや身寄りのない人など長らく家庭料理を味わっていない人にも、このクリスマスの時期だけでも、家庭料理を味わってもらいたい」という趣旨から、カトリック団体カリタスが主催となって毎年開催されており、今年もビエロギ、ビゴス、ジューレックなどの代表的なポーランド料理一万食余りが、無料で振舞われました。


ポーランドからの報告



ザメンホフの足跡を辿る III  カウナス・ドルスキニンカイ

2006年12月15日 | 文化

ザメンホフの足跡は、ポーランドのお隣の国、リトアニア共和国にても辿ることができます。

リトアニア第二の都市カウナスは、ザメンホフの妻、クララの出身地で、カウナスには、クララ一家がかつて住んでいた家が現在も保存されており、「エスペラントの家」として、ザメンホフ関係の資料館になっています。昨年2005年にリトアニアで第90回世界エスペラント大会が開かれた際には、多数のエスペランティストが、この「エスペラントの家」を訪れました。(写真)

   

ザメンホフの妻クララはリトアニア系ユダヤ人で、とりわけクララの父は、ザメンホフのエスペラント運動に非常に理解を示したことで知られている人物です。エスペラントを考案した当時、まだ若くてお金のなかったザメンホフは、クララの父からの経済的支援を得て、ついに1887年に、Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro-『エスペラント博士. 国際語. 序文と完全な学習書』を出版することができたのです。

   
   

カウナスには、そのほか、多数のユダヤ人を救ったことで知られる杉原千畝の記念館もあり、あわせての見学が可能です。カウナスは、ヴィリニュスからバスで2時間ほどですので、ヴィリニュスから日帰りで訪れることができます。

ところで「エスペラント発祥の地はどこか?」ということも、エスペランティストの間で議論されることがあります。ユダヤ人のザメンホフは、当時帝政ロシア領であった現在のポーランドのビャウィストクで生まれ育ち、ワルシャワにて書籍を発表しました。ですので、「現在のポーランドがエスペラント発祥の地である」ということで、議論の余地はあまりないように思えるのですが、リトアニアのエスペランティストに言わせると、「リトアニアこそがエスペラント発祥の地」なのだそうです。なんとなれば、ザメンホフはリトアニア南部ドルスキニンカイ近郊の保養地にしばし滞在していた時期があり、その後ワルシャワに戻って、最初のエスペラントの本を執筆したのですが、リトアニア人に言わせると、「この保養地にいたときに、エスペラントのアイディアが修練されたのだ」ということだそうで、かの地には、ザメンホフの銅像まで立っています。そして彼らは「ザメンホフはリトアニア人である」と、さも当然だという感じで主張しています。

   

リトアニアといえば、歴史上もっともユダヤ人迫害がひどかった地域の一つです。かつて幾度となく、ポグロムの嵐が当地のユダヤ人を襲い、第二次世界大戦中は、ナチス軍に率先して自警団を組み、ユダヤ人を虐殺したことで知られています。ザメンホフ妻クララの父がエスペラント運動を全面的に支援したのも、このような土地時代背景があったことでしょう。体制が変り2004年に欧州連合(EU)に加盟した現在でも、リトアニアでの対ユダヤ人感情は、ポーランド以上に悪いのが通常です。しかしユダヤ人として迫害の対象となる人物も、偉人であれば、リトアニア人として尊敬し、このように銅像まで立ててしまいます。

ところで、ビャウィストクやカウナスなど、ポーランド・ロシア・リトアニア隣接地域、つまり帝政ロシア時代のユダヤ教徒居住区であったグロドノ県一帯は、ザメンホフのほかにも、マックス・ヴァインライヒ、ウリエル・ヴァインライヒ、エリエゼル・ベン・イェフダーなど、言語に関係する人物を数多く排出しており、この地域と言語学との関係を結びつけて考える学者もいます。実際のところ、これらの言語学者が言語学に入れ組んだ、その動機と背景を学ぶことで、少なくとも、この地域の、複雑に入り組んだ民族史の、理解の一助となるのではないかと思います。


ポーランドからの報告



ザメンホフの足跡を辿る II ザメンホフ通り~ワルシャワ・ゲットー跡~ウムシュラークプラッツ

2006年12月15日 | 文化

ザメンホフは、その半生をワルシャワの街ですごしました。ワルシャワ旧市街北のユダヤ人共同墓地には、ザメンホフやその妻クララ、父マルコや兄弟らのお墓があります。この墓地の最寄のバス停は、ザメンホフにちなんで「エスペラント」という名前になっており、「エスペラント」行きのバスに乗れば、この墓地に簡単にアクセスできます。

   

旧市街の北東、ムラヌフ地区のザメンホフ通りには、ザメンホフの住居跡があり、建物側面の記念パネルに、ここがザメンホフの住居跡であった事が、ポーランド語とエスペラントで記されています。

このムラヌフ地区というのは、ワルシャワのユダヤ人居住地区で、歴史的にユダヤ人が多数住んでいた地域です。そのため、1939年に第二次世界大戦が始まり、ワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、このムラヌフ地区を中心に、ワルシャワ・ゲットー(ghetto)が設けられました。

ザメンホフ自身は1917年に亡くなっていますので、第二次世界大戦の悲劇は経験していませんが、息子アダムと、二人の娘リディアとゾフィアは、ワルシャワに住んでいた他のユダヤ人同様、ホロコーストの犠牲者となりました。たった一人、お孫さんが、この戦争を生き延びており、自らの戦争体験を、『ザメンホフ通り-エスペラントとホロコースト』という本にまとめています。

   

ザメンホフの直系の孫、つまり息子アダムの一人息子であるザレスキ=ザメンホフ氏は、ワルシャワゲットーからウムシュラークプラッツ、つまりゲットーから強制収容所へと運ぶ貨物列車の「死の待合室」へ送られましたが、危機一髪というところで、死体のふりをして難を逃れ、奇跡の生還を果たしました。

ウムシュラークプラッツ(UMSCHLAGPLATZ)は、もともとはグダニスク方面へ向かう貨物列車の荷物詰め替え場所でした。しかしゲットーのユダヤ人の収容所への輸送が開始されると、この広場が、絶滅収容所行き列車の「死の待合室」となりました。ザメンホフ通りをまっすぐ行った付き辺りの広場です。ウムシュラークプラッツへ行ったら最後、もはや生きて帰ることは出来ず、列車に乗せられ、行く先にはトレブリンカ絶滅収容所が待っていました。 このトレブリンカ収容所とは、ワルシャワとビヤリストックの中間に建設された、悪名高い絶滅収容所で、孤児院の院長をしていた教育学者のヤヌシュ・コルチャック先生、映画「戦場のピアニスト」で有名なピアニストのシュピルマン一家 をはじめ、ワルシャワ・ウッヂ地方の30万人を越えるユダヤ人が、トレブリンカ絶滅収容所に運ばれたきり、戻ってきませんでした。

   

ユダヤ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人など、互いに言語や宗教が異なる民族の、相互理解、そして平和共存を願ってやまなかったザメンホフですが、皮肉なことに、自らの子孫がホロコーストの犠牲になり、またその名を冠したザメンホフ通りこそが、同胞のユダヤ人を、ウムシュラークプラッツから絶滅収容所へと導く道となってしまったのでした。

本書『ザメンホフ通り-エスペラントとホロコースト』では、ザメンホフの孫であるが為に氏がたどった数奇な半生と、氏の語る世界観を、ジャーナリスト、ロマン・ドブジンスキー氏によるインタビュー形式で掲載しており、大変読み応えのある一冊です。また、日本のエスペランティスト67 名が、メーリングリストで連絡をとり合いながら、エスペラント語版から共訳したことでも話題となっています。


ポーランドからの報告



ザメンホフの足跡を辿る I ビャウィストク

2006年12月15日 | 文化

ザメンホフは何人か、という議論に、しばしばなります。文献によって、ポーランド系ユダヤ人と書いてあったり、ユダヤ系ポーランド人と書いてあったり、ポーランド人と書いてあったり、ロシア人と書いてあったり。。 そもそも、こういう議論が沸き起こること自体、東欧民族史の複雑さを、率直に物語っているように思います。

それでザメンホフが何人かということですが、ザメンホフは、民族的つまり血統的にはユダヤ人であり、従って、そのアイデンティティの中心には、常にユダヤ教と、ユダヤ文化がありました。しかし彼の母国語はロシア語であり、第二言語として、ポーランド語とドイツ語が堪能であったことが伝えられています。またビャウィストックに生まれた後、中等学校からワルシャワにて学び、大学卒業後は、ワルシャワで眼科医として開業しています。したがって、ザメンホフの足跡を辿るとしたら、その大部分は、生誕地ビャウィストクの街と、半生を過ごしたワルシャワの街、つまり現在のポーランドにて、辿ることができます。

   

ビャウィストクはポーランド北東地域最大の街で、ワルシャワから特急列車で3時間ほどの所にあります。この街で、まず訪れるべくは、ザメンホフの生誕地です。残念ながらザメンホフの生家(写真、当時)は現存していないのですが、かつて生家があった場所に、ポーランド語とエスペラントで、「ここに、エスペラントの創始者ザメンホフの生家があった」との説明プレートが飾られています。

このザメンホフの生家ですが、実は、保存の計画がありました。1987年のエスペラント発表100周年の時に、ビャウィストク市当局と世界エスペラント協会(UEA)が協力して、この生家を買い取り、ザメンホフ博物館にする計画を立案しましたが、ちょうど運悪く時代が80~90年代の体制変換のごたごたの時で、結局実現に至らず、この生家は取り壊されてしまいました。

この生家からほど近い小さな公園に、ザメンホフの胸像が立っています。malmeda通りとbialowny通りの間の小さな公園で、ビャウィストクの鉄道駅から徒歩20分位の場所です。ポーランド・エスペラント協会(Pola Esperanto Asocio)が発起人となって設立され、1973年4月14日に除幕式が行われています。

   

ビャウィストクにあるザメンホフゆかりの場所は、これくらいです。それでもザメンホフは、その偉業から100年以上もたってなお、ビャウィストク市民の誇りとなっています。例えば、ビャウィストクの街で、「ビャウィストクの街の出身で一番有名なのは?」というアンケートをとると、ザメンホフが大抵いつも一番になります。(ポーランドでは、昔も今もユダヤ人に対する感情があまりよくないことを考えあわせると、いかに市民がザメンホフを誇りに思っているかが伺えます。)


ポーランドからの報告


エスペラント語を学ぶ

2006年12月15日 | 文化

ビヤウィストックのユダヤ人眼科医、 ザメンホフ によって提案された エスペラント語 は、文法や発音の簡易さなどから、その後、瞬く間に世界中で支持を集めました。いまや、人工国際共通語としては最も成功したものといわれています。エスペラント使用者(エスペランティスト)は現在世界中で100万人以上といわれ、毎年世界各地で世界エスペラント大会が開かれる他、インターネットの掲示板やチャットのユーザーにも好んで使用されるなど、発表から100年以上たった今もなお、世界中の愛好者に利用されている言語です。

世界エスペラント大会 は、1886年に最初に行われ、その後毎年開かれています。(2004年北京[中国]=写真、2005年ビリニュス[リトアニア]、2006年フィレンツェ[イタリア]) この世界大会では、各民族の伝統文化の紹介に始まり、経済会議や女性運動会議など、大小実にさまざまな会合が催されており、通訳のいない国際会議が実現されています。

また日本のエスペラント運動は、1906年の二葉亭四迷による学習書発行、第1回日本エスペラント大会の開催などで本格化して、2006年に百周年を迎えました。年一度の日本エスペラント大会(2006年は岡山市)の他、春・秋の 合宿形式のエスペラント・セミナー や林間学校などが、大きな行事となっています。

   

ところで来年2007年の世界エスペラント大会は、他でもない、日本の横浜で開かれます。この横浜エスペラント大会には、ポーランドからも沢山のお客様が来ると予想されます。というのも、ザメンホフを産んだ国ポーランドでは、エスペランティストの数も他国より多いからです。

この2007年の横浜世界エスペラント大会を半年後に控え、東京エスペラントクラブ(TEK) など、全国のエスペラントクラブでは、これから来夏にかけて、エスペラント語の学習希望者に、集中勉強会や一日講習会などを行っています。

例えば、ポーランド人と会話をするのに、英語だとどこかぎこちない、ポーランド語は難しいので短期の学習での習得はまず無理、そんな場合に、エスペラント語を勉強して、エスペラント語で会話という手段もあるわけです。「今日は、英語ではなくて、エスペラント語で国際交流してみよう!」 なんて、とても新鮮ではありませんか?


ポーランドからの報告



エスペラント語の創始者、ザメンホフ

2006年12月15日 | 文化

今日12月15日は、世界共通語エスペラント(Esperanto)の創始者、ザメンホフの生誕日です。

エスペラント語 とは、19世紀に、ポーランドのユダヤ系眼科医、ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフ によって考案された、人工国際共通語のことです。

ザメンホフは1859年、ポーランド北東部の街、ビャウィストク( Białystok )のユダヤ系の医者の家系に生まれました。当時のビャウィストクは18世紀のポーランド分割を経て帝政ロシア領となっており、街にはロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人など、民族、宗教、言語の異なる人々が住み、互いに言葉が通じないことから住民同士のいさかいが絶え ませんでした。

   

「どの民族にも中立な共通語を作れば、異なる民族集団の間で相互理解が進み、憎しみや偏見がなくなる。」と考えたザメンホフは、1887年に、 Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro 『エスペラント博士. 国際語. 序文と完全な学習書』 を出版、人工国際共通語を提案しました。エスペラントとは希望する人という意味で、ザメンホフがペンネームとして用い、後に言語の名前として定着しました。

現在地球上に存在する言語の数は、3000とも6000とも言われています。エスペラント語は、各民族の言語や文化を、その歴史的遺産として尊重し大切にすると同時に、その違いを越えて自由なコミュニケーションを可能にする、そんな言語といえます。


ポーランドからの報告



「戒厳令」 から 四半世紀

2006年12月13日 | 歴史

ポーランド全土を震撼させた1981年の「戒厳令」から、今日で四半世紀が経過しました。

81年の「戒厳令」とは、 レフ・ヴァウェンサ 率いる 「連帯」 など国内で強まる民主化運動の動きに、当時の首相兼、党第一書記の ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ が、民主化運動の取り締まり、夜間外出禁止などを全国民に布告したものです。日本語の「戒厳令」だと、言葉の持つ重みがあまり伝わってこないように思うのですが、ポーランド語では スタン・ヴォイェンヌィ-Stan Wojenny と呼ばれており、これは和訳すれば、「戦時下状態」という意味です。

ヤルゼルスキは「戒厳令」を敷いたことで、「民主化の流れにそむいた」として世界中からの批判を浴びましたが、後年になって、この「戒厳令」がなければ、ポーランドでも、隣国で発生した ハンガリー動乱プラハの春 のように、ソ連の軍事介入の危機があったことが明らかになっています。

25年も経った今、若い人達のなかには「戒厳令」の存在すら知らない人もいます。学校の授業であまり詳しく教えない上に、そもそも教える側の教師ですら実体験していないためによく知らない(当時まだ子供だったため)という状況です。しかしもちろん、今でも中年以上のポーランド人にとっては、この「戒厳令」は決して忘れることのできない歴史の一コマであり、根強い反ロシア感情の原因の一つとなっています。私の夫の両親も、電話の盗聴におびえた話、バスで3時間かけてチェコまで食料品を買出しにいった話、せっかく買った新鮮なハムを帰りに国境で没収されてしまった話、肉は貴重品で魚を食べるなど夢物語だった話など、当時の貴重なエピソードを聞かせてくれました。

この戒厳令から10年、数度に渡る円卓会議を経て、ポーランドはついに体制変換の時を迎えました。そしてこの偉大なる歴史の一シーンを担ったヤルゼルスキはポーランド初代大統領に、ヴァウェンサは二代目大統領に就任し、ポーランドはついに民主化したのでした。時は下って1991年のOECD加盟、NATO加盟を経て、ついに2004年5月には念願の欧州連合(EU)加盟をも果たしました。これで西側への完全復帰ということで、EU加盟の日はお祭り騒ぎでした。

さて、誰もが明るい未来を夢見たEU加盟の日から2年半、「戒厳令」から25年が経った今年、周囲から聞こえてくるのは... 相変わらず不満の声です。確かにEU加盟で経済は活性化しました。通貨のズウォーティ(zl)の価格も上がり、外国からの投資も増えました。しかし肝心の生活水準は一向に豊かにならないままで、物価上昇、優秀な人材の流失など、いいことなし。医療体制も腐敗したまま、最近は社会福祉制度(ZUS)まで崩壊の危機にあることがちらちらと聞こえてきました。 実際ポーランドの生活水準はEU加盟25カ国中最下位で、これは東アジアの平均をも下回る水準です。 一方国外流失組の顛末も芳しくありません。西欧ではやはりポーランド人労働者の地位は低いため、イタリアやスペインの労働キャンプで低賃金の強制労働を強いられている話、仕事の契約をしてイギリスに渡ったものの実際には仕事がなく(詐欺にあい)、かといって故郷にも帰れずホームレスの日々を送る人達の話-こういったニュースが国内にも伝わってきています。

ポーランドの人々にとって、EU加盟はいわば最後の持ち札で、これで西欧と肩を並べられると、EU加盟にすべてを期待していた面がありました。しかし2年半経ってもちっとも生活水準が上がらず... かといって今後、EU加盟に匹敵するイベントは当面ないわけで、国民の間に、あせりと不安が出始めています。

私のレポートが概して悲観的過ぎるとの意見もあるようですが、私の住んでいるマウォポルスキ県が、ポーランドで一番政治の汚職と腐敗がひどいお土地柄である、ということも影響しているかもしれません。確かに首都ワルシャワなどでは、ニューリッチ層が確実にいます。最近では月20万以上稼ぐ人も増えていますし、教養のあるエリートビジネスマンの未来は明るいでしょう。(また今度機会があればレポートします。)しかし地方に行けばいくほど、底なしの貧困の現実があります。

81年の戒厳令から、90年代の民主化までほぼ10年 - ということは、ポーランドが所得や生活水準、福祉などの面で真に「西欧」の仲間入りをするには、EU加盟からやはり10年くらいは気長に待つことになるのでしょうか。


ポーランドからの報告



コウノトリの贈り物

2006年12月12日 | 日常生活

ヨーロッパでは、「コウノトリが、赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」という言い伝えがあり、コウノトリは幸福を呼ぶ鳥とされています。

ヨーロッパで見かけるのは、日本のコウノトリとは別の近縁種で、シュバシコウ Ciconia ciconiaという鳥です。日本のコウノトリと羽色は似ていますが、こちらはクチバシが赤い色をしています。主な生息地域は、ヨーロッパとアフリカ北部を中心に数十万羽といわれ、ポーランド北東部の湖水地方マズーリ地方にも、数多くが生息しています。

  

ところで先日、そのコウノトリさんに贈り物をいただいてしまい、来年6月末に第二子が生まれることとなりました。ポーランド語で、コウノトリは、ラテン語と同じで、ボッチャンといいます。果たして私がいただいた贈り物は、ボッチャンか、オジョウチャンか、いまから楽しみです。


ポーランドからの報告



ポーランドのユネスコ世界遺産

2006年12月11日 | 観光ガイド

今日12月11日から15日までの5日間、NHKの「シリーズ世界遺産100」という番組で、ポーランド特集が放映されます。5分ほどの短い番組ですが、ぜひ見てください。放送日程は以下の通りです。

  12月11日(月) 守り継ぐ心の都  ~ クラクフ歴史地区~
  12月12日(火) 塩の芸術  ~ ヴィエリチカの岩塩坑~
  12月13日(水) 騎士団の牙城  ~ マルボルクの城郭~
  12月14日(木) ルネサンスの真珠  ~ ザモシチ旧市街~
  12月15日(金) ホロコーストの記憶  ~アウシュビッツ強制収容所~ 

ポーランドには、このほかにも、中世都市トルン、ワルシャワ歴史地区、など8件、全部で合計13件の世界遺産があります。今回の番組ではこのうち5箇所しか放映されませんが、それ以外の場所も、どれもとてもすてきな場所ですので、機会のある方はぜひ訪れてみてください!

ところでポーランドは、ドイツと並び、ヨーロッパで最も早く世界遺産が登録された国なんです。
ご存知でしたでしょうか?

ユネスコ世界遺産は、ご存知のように、1972年の第17回ユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づいて、各国からの申請に基づき審査・登録されており、1975年に20ヶ国が条約締結して正式に発効され、1978年から登録が始まっています。初年度は、自然遺産4件、文化遺産8件の計12件が登録され、この時、ポーランドから「クラクフ歴史地区」と、「ヴィエリチカの岩塩坑」が、ドイツから「アーヘン大聖堂」が、この栄誉ある第一号登録リストに入っています(1978年登録)。またポーランドからは、翌年にも「アウシュビッツ強制収容所」と「ビュウォビィエジャの森林保護区」が登録リスト入りしています(1979年登録)。

ヨーロッパの世界遺産というと、イタリア、スペイン、フランスが有名というイメージがありますが、それぞれ第一号の登録は、「ヴァルカモニカの岩絵群」(1979年登録)、「コルドバ歴史地区」ほか4件(1984年登録)、「ヴェルサイユ宮殿と庭園」ほか4件(1979年登録)、となっています。ヨーロッパの世界遺産のメッカである、イタリア、スペイン、フランスを差し置いて、当時まだ社会主義国家だったポーランドが、世界遺産リストに一番乗りしたことは、意外と知られていないのではないかと思います。


ポーランドからの報告



聖母マリア信仰の総本山、ヤスナ・グーラ僧院

2006年12月08日 | 一般

古くから聖母マリア信仰の根強いポーランド。その信仰の総本山となっているのが、チェンストホーヴァのヤスナ・グーラ僧院です。ポーランド人なら、いやカトリック教徒なら生涯に一度は巡礼してみたい場所ではないかと思います。

   

しかしこのヤスナ・グーラ僧院ですが、一般の(キリスト教信者ではない)日本人観光客にとって、魅力的な観光地かというと、また別の話になるかと思います。というのは、ここはやはり本来観光地というより、巡礼地の要素が強い場所で、それゆえ写真なども撮りにくい雰囲気があります。ユネスコ世界遺産にも、1991年に申請していますが、いまだに登録されていません。

大手旅行会社のパックツアーでは、ヤスナ・グーラ僧院が旅行日程に入っている場合もありますが、個人旅行でポーランドに行かれる場合は、キリスト教徒の方以外は、あえて日程に入れる必要はないのではないかと思います。

   

大手のパックツアーで、ヤスナ・グーラ僧院が日程に組み込まれているのには、理由があります。一つには、チェンストホーヴァはワルシャワとクラクフの間の位置にあるため、 観光バスでの移動の場合、ちょうどよい中継地になること。ワルシャワ→クラクフをノンストップでバスで移動すると、6時間以上もかかり、お客さまも疲れてしまいます。そこで、ワルシャワ→(4時間)→チェンストホーヴァ→(3時間)→クラクフと移動することで、無理のない観光プランにすることができます。二つには僧院内の見学が一切無料だということ(=安上がりな日程が組める)。三つ目には、 旅行を企画しているのがポーランド人なので、ポーランド人の発想として、チェンストホーヴァ訪問は必須という考えになることです。(日本の旅行会社のツアーでも、ポーランド国内の旅程部分は現地の旅行会社に下請けに出しているためです。)

   

ちなみに、名物の「黒いマドンナ」のイコンや絵はがきなどは、クラクフやワルシャワなど他の街でも、みやげ物屋に行けば買うことができます。というわけで、私としては、このチェンストホーヴァのヤスナ・グーラ僧院は、ポーランド旅行2回目以上の、リピーターの方にお勧めしたいスポットです。


ポーランドからの報告