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ザメンホフの足跡を辿る I ビャウィストク

2006年12月15日 | 文化

ザメンホフは何人か、という議論に、しばしばなります。文献によって、ポーランド系ユダヤ人と書いてあったり、ユダヤ系ポーランド人と書いてあったり、ポーランド人と書いてあったり、ロシア人と書いてあったり。。 そもそも、こういう議論が沸き起こること自体、東欧民族史の複雑さを、率直に物語っているように思います。

それでザメンホフが何人かということですが、ザメンホフは、民族的つまり血統的にはユダヤ人であり、従って、そのアイデンティティの中心には、常にユダヤ教と、ユダヤ文化がありました。しかし彼の母国語はロシア語であり、第二言語として、ポーランド語とドイツ語が堪能であったことが伝えられています。またビャウィストックに生まれた後、中等学校からワルシャワにて学び、大学卒業後は、ワルシャワで眼科医として開業しています。したがって、ザメンホフの足跡を辿るとしたら、その大部分は、生誕地ビャウィストクの街と、半生を過ごしたワルシャワの街、つまり現在のポーランドにて、辿ることができます。

   

ビャウィストクはポーランド北東地域最大の街で、ワルシャワから特急列車で3時間ほどの所にあります。この街で、まず訪れるべくは、ザメンホフの生誕地です。残念ながらザメンホフの生家(写真、当時)は現存していないのですが、かつて生家があった場所に、ポーランド語とエスペラントで、「ここに、エスペラントの創始者ザメンホフの生家があった」との説明プレートが飾られています。

このザメンホフの生家ですが、実は、保存の計画がありました。1987年のエスペラント発表100周年の時に、ビャウィストク市当局と世界エスペラント協会(UEA)が協力して、この生家を買い取り、ザメンホフ博物館にする計画を立案しましたが、ちょうど運悪く時代が80~90年代の体制変換のごたごたの時で、結局実現に至らず、この生家は取り壊されてしまいました。

この生家からほど近い小さな公園に、ザメンホフの胸像が立っています。malmeda通りとbialowny通りの間の小さな公園で、ビャウィストクの鉄道駅から徒歩20分位の場所です。ポーランド・エスペラント協会(Pola Esperanto Asocio)が発起人となって設立され、1973年4月14日に除幕式が行われています。

   

ビャウィストクにあるザメンホフゆかりの場所は、これくらいです。それでもザメンホフは、その偉業から100年以上もたってなお、ビャウィストク市民の誇りとなっています。例えば、ビャウィストクの街で、「ビャウィストクの街の出身で一番有名なのは?」というアンケートをとると、ザメンホフが大抵いつも一番になります。(ポーランドでは、昔も今もユダヤ人に対する感情があまりよくないことを考えあわせると、いかに市民がザメンホフを誇りに思っているかが伺えます。)


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