ポーランドからの報告

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「戒厳令」 から 四半世紀

2006年12月13日 | 歴史

ポーランド全土を震撼させた1981年の「戒厳令」から、今日で四半世紀が経過しました。

81年の「戒厳令」とは、 レフ・ヴァウェンサ 率いる 「連帯」 など国内で強まる民主化運動の動きに、当時の首相兼、党第一書記の ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ が、民主化運動の取り締まり、夜間外出禁止などを全国民に布告したものです。日本語の「戒厳令」だと、言葉の持つ重みがあまり伝わってこないように思うのですが、ポーランド語では スタン・ヴォイェンヌィ-Stan Wojenny と呼ばれており、これは和訳すれば、「戦時下状態」という意味です。

ヤルゼルスキは「戒厳令」を敷いたことで、「民主化の流れにそむいた」として世界中からの批判を浴びましたが、後年になって、この「戒厳令」がなければ、ポーランドでも、隣国で発生した ハンガリー動乱プラハの春 のように、ソ連の軍事介入の危機があったことが明らかになっています。

25年も経った今、若い人達のなかには「戒厳令」の存在すら知らない人もいます。学校の授業であまり詳しく教えない上に、そもそも教える側の教師ですら実体験していないためによく知らない(当時まだ子供だったため)という状況です。しかしもちろん、今でも中年以上のポーランド人にとっては、この「戒厳令」は決して忘れることのできない歴史の一コマであり、根強い反ロシア感情の原因の一つとなっています。私の夫の両親も、電話の盗聴におびえた話、バスで3時間かけてチェコまで食料品を買出しにいった話、せっかく買った新鮮なハムを帰りに国境で没収されてしまった話、肉は貴重品で魚を食べるなど夢物語だった話など、当時の貴重なエピソードを聞かせてくれました。

この戒厳令から10年、数度に渡る円卓会議を経て、ポーランドはついに体制変換の時を迎えました。そしてこの偉大なる歴史の一シーンを担ったヤルゼルスキはポーランド初代大統領に、ヴァウェンサは二代目大統領に就任し、ポーランドはついに民主化したのでした。時は下って1991年のOECD加盟、NATO加盟を経て、ついに2004年5月には念願の欧州連合(EU)加盟をも果たしました。これで西側への完全復帰ということで、EU加盟の日はお祭り騒ぎでした。

さて、誰もが明るい未来を夢見たEU加盟の日から2年半、「戒厳令」から25年が経った今年、周囲から聞こえてくるのは... 相変わらず不満の声です。確かにEU加盟で経済は活性化しました。通貨のズウォーティ(zl)の価格も上がり、外国からの投資も増えました。しかし肝心の生活水準は一向に豊かにならないままで、物価上昇、優秀な人材の流失など、いいことなし。医療体制も腐敗したまま、最近は社会福祉制度(ZUS)まで崩壊の危機にあることがちらちらと聞こえてきました。 実際ポーランドの生活水準はEU加盟25カ国中最下位で、これは東アジアの平均をも下回る水準です。 一方国外流失組の顛末も芳しくありません。西欧ではやはりポーランド人労働者の地位は低いため、イタリアやスペインの労働キャンプで低賃金の強制労働を強いられている話、仕事の契約をしてイギリスに渡ったものの実際には仕事がなく(詐欺にあい)、かといって故郷にも帰れずホームレスの日々を送る人達の話-こういったニュースが国内にも伝わってきています。

ポーランドの人々にとって、EU加盟はいわば最後の持ち札で、これで西欧と肩を並べられると、EU加盟にすべてを期待していた面がありました。しかし2年半経ってもちっとも生活水準が上がらず... かといって今後、EU加盟に匹敵するイベントは当面ないわけで、国民の間に、あせりと不安が出始めています。

私のレポートが概して悲観的過ぎるとの意見もあるようですが、私の住んでいるマウォポルスキ県が、ポーランドで一番政治の汚職と腐敗がひどいお土地柄である、ということも影響しているかもしれません。確かに首都ワルシャワなどでは、ニューリッチ層が確実にいます。最近では月20万以上稼ぐ人も増えていますし、教養のあるエリートビジネスマンの未来は明るいでしょう。(また今度機会があればレポートします。)しかし地方に行けばいくほど、底なしの貧困の現実があります。

81年の戒厳令から、90年代の民主化までほぼ10年 - ということは、ポーランドが所得や生活水準、福祉などの面で真に「西欧」の仲間入りをするには、EU加盟からやはり10年くらいは気長に待つことになるのでしょうか。


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