ポーランドからの報告

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クラクフのユダヤ人 II プワシュフ労働収容所跡

2007年01月28日 | 歴史

クラクフのユダヤ人は、クラクフ・ゲットーに集められた後、クラクフ市街に隣接する、 プワシュフ収容所(DAWNY OBÓZ PŁASZÓW) に収容されました。

1943年、クラクフ・ゲットーが解体されると、ゲットーのユダヤ人はクラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ連行されることとなります。このプワシュフ収容所は、ユダヤ人の労働力搾取を目的としていたため、労働力の近く、すなわち市街地のすぐそばに設けられました。絶滅収容所ではないため、ガス室などの絶滅施設は設置されませんでしたが、それでも虐待行為は日常茶飯事であり、加えて日々の重労働から命を落とす人も少なくなく、収容されていたユダヤ人は、毎日死と隣り合わせの生活を強いられました。

 

映画『シンドラーのリスト』にも登場しますので、ご存知の方も多いかもしれません。 シンドラーは、自身の工場をプワシュフ収容所の所属とし、工場の敷地内にプワシュフ収容所所属の私設収容所を設置、工場のユダヤ人労働者を強制労働収容所へ送ることなく、引き続きシンドラーの工場にとどめました。 過酷な労働条件の上、日常的な虐殺が耐えなかったプワシュフ収容所に比べ、シンドラーの工場での労働は、天と地の差でした。

 

プワシュフ労働収容所は、1944年に解体され、クラクフのユダヤ人はすべて絶滅収容所として悪名高いアウシュビッツへ送られることとなりました。この時すでに東側からソ連軍が快進撃を続けており、証拠隠滅のため、プワシュフ労働収容所は閉鎖されることになったのです。

 

このプワシュフ収容所があった場所は、現在モニュメントが残るのみです。収容所の建物自体は戦時中に解体されてしまった為一切残っておらず、また敷地も空き地のまま再開発もされていません。

このプワシュフ収容所跡へのアクセスですが、なにせクラクフの住宅地が、このプワシュフ収容所跡を避けるような形で広がっているため、距離の割りに非常に交通の便が悪いです。中心地からは、バスやトラムを乗り継ぎ、さらに停留所からも徒歩30分くらいかかります。一番よいのははタクシーです。でも運転手さんにびっくりされるかもしれません。それほど訪れる人がほとんどいない場所です。


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クラクフのユダヤ人 I クラクフのユダヤ人墓地

2007年01月28日 | 歴史

クラクフ・カジミエジュ地区、ミオドーヴァ通り(ul.Miodowa)を東へ進み、スタロヴィシルナ通り(ul.Starowiślna)を渡ってさらにいくと、ユダヤ人墓地があります。「地球の歩き方」などのガイドブックにも記載がないため、観光客の姿はほとんど見かけることは無い場所です。

このユダヤ人共同墓地の入り口の一角に、第二次世界大戦で犠牲になったユダヤ人の合同慰霊塔があります。クラクフには、第二次世界大戦開始前に、およそ6万5千人のユダヤ人が住んでいました。当時のクラクフの人口がおよそ24万人ですから、約4人に1人がユダヤ人であった計算です。しかしそのほとんどが、第二次世界大戦にて、ベウジェツ(Bełżec)、マイダネク(Majdanek)、アウシュビッツ(Auschwitz)などの絶滅収容所へ送られ、ガス室の露と消えました。

  

この慰霊塔をよく見ると、様々な形に切り取られた別々の墓石からできているのがわかります。周囲の壁も、同様にモザイク状に切り取られた墓石が敷き詰められているのが認められます。これは、ポーランドを占領したナチス軍が、ユダヤ人墓地から墓石を切り取り、こともあろうに、強制収容所の周辺の道路の舗装に使ったためです。戦後になって、道路にされていた墓石を回収し、このような慰霊塔としたのです。ナチス軍の残虐さは、ユダヤ人の生者を殺害するにとどまらず、このようにユダヤ人墓地を徹底的に破壊することで、死者への冒涜も行ったのでした。
つづく


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