ポーランドからの報告

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フランス・アカデミック界のポーランド人

2007年01月09日 | その他のヨーロッパ

引き続きパリ旅行記ですが、当ブログ「ポーランドからの報告」はポーランド関連の話題がテーマということで、ポーランドにちなんだお話もご紹介します。

昨日の記事でも触れましたが、ポーランドでは、どの家庭でも、親戚のそのまた親戚の、、と辿っていくと、必ずフランスやアメリカ、カナダなどに亡命・移民した親戚や親類がいます。とりわけ18-19世紀、ポーランドがロシア・オーストリー・プロイセンの列強三国に分割されて完全に消滅してしまった時代には、インテリの多くが活躍の場を求めて、フランスやアメリカなどに渡りました。ミツキエヴィチ、ショパン、キュリー夫人は、この時代のポーランドに生まれ、フランスで活躍した代表的なポーランドの偉人です。

アダム・ミツキエヴィチ(Adam Bernard Mickiewicz) は、旧ポーランド領土東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ領ナヴァグラダク)に生まれた、ポーランドを代表するロマン派詩人です。政治・地下活動も行っていたため、幾度の投獄生活などを経て、晩年はパリに移り住んで活躍しました。代表作『パン・タデウシュ』は、世界各国語に翻訳され、アンジェイ・ヴァイダ監督によって映画化もされています。このミツキエヴィチの足跡は、パリ・セーヌ川中洲のサン・ルイ島にあるアダム・ミツキエヴィチ記念館にて辿ることができます。またこの記念館からほど近いセーヌ川右岸に、ポーランド文学図書館もありますので、あわせての見学が可能です。

フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin) は、ワルシャワ郊外の小さな村、ジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)に生まれた、ヨーロッパを代表する作曲家・ピアニストです。1830年、ショパン20歳の時、演奏活動でワルシャワを離れウィーン、さらにはパリに向かった際、ポーランド国内で革命が起こったため(フランスの七月革命の影響を受けたワルシャワ十一月蜂起)、そのまま二度とポーランドの土を踏むことはありませんでした。

ショパンは何人かということで、ポーランド人とフランス人で議論になるそうです。ポーランド人は、「ショパンはポーランド人だ」といい、フランス人は「ショパンはフランス人である」と主張します。実際ショパンは、ポーランド人の母親とフランス人の父親の元にポーランド・ワルシャワ郊外で生まれ、ショパンという父方のフランス語の姓を名乗り、パリで活躍したものの、ポロネーズやマズルカなどその作品には絶えず祖国ポーランドへの思いが込められていました。したがってどちらも正しいのですが、双方譲りません。それだけ、どちらの国にとっても、国を代表する偉人の一人であったということだと思います。(私個人的にはショパンはポーランド人であると、学校で習ったように思います。それにショパンコンクールの開催地もポーランド・ワルシャワです。)

現在ショパンは、パリのペール・ラシェーズ墓地にてひっそりと眠っています。そしてその心臓だけは、故人のたっての希望により、ポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬されています。

そしてキュリー夫人の名で知られる マリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie) も、フランスで活躍したポーランド人です。キュリー夫人は、ワルシャワに生まれ初等教育を受けたあと、パリに渡り、パリ大学にて物理学などを学びました。そしてフランス人の夫、ピエール・キュリーとともに、ラジウムとポロニウムを発見した功績で、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞しています。現在でも放射能の単位「キューリー」としてその名が残っているほか(1キュリー=3.7×1010ベクレル)、セーヌ川沿いのパリ第六大学に、キュリー夫人の名前が冠されており、この時代を代表する女性科学者であった人物です。

現在のフランスでは、ポーランドというと、旧東欧の貧しい国というイメージがどうしても先行するようです。実際、『ポーランド人の配管工』という単語が政治の場面で利用され、あたかもポーランド人はみなブルーカラーの単純労働者であるかのような印象を与えると、物議をかもしたことがありました。しかしこうして歴史を振り返ってみると、このように世界的に有名なポーランドの偉人が、フランスのアカデミック界で活躍していたことがわかります。


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