『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

中神谷の十九夜講

2006年10月02日 | 伝説
「十九夜講」という女性の講は、
多くの地域で行われているようだが、
いわき市平の中神谷(なかかべや)には、
十九夜講にまつわる次のような伝承が残されている。

慶長の頃、夏井武兵衛という武士が平中神谷字瀬戸に移り住み、居を構えた。
しばらくして、そこを若い男女の六部(「六十六部」の略。廻国巡礼者。
死後の冥福を祈るため、鉦を叩き、鈴を鳴らしながら、家々を廻り、銭を乞い歩いた)が訪れ、
「一晩の宿をお頼みいたします。どうぞ、泊めてください。
他の家々にもお願いしたのですが、応じてもらえませんでした」
と何度も何度も頭を下げる。
「それはお困りだろう」
と、武兵衛は一夜の宿を貸すこととした。
その夜、話を聞くと、その男女は親の仇を捜しながら、
六部として巡礼をしていることがわかり、
そして、武兵衛その人こそが、若い男女の親の仇であることが判明した。
ついには「尋常に勝負」ということになり、
武兵衛もそれを受けてたつことになった。
しかし、仇討ちは果たされず、その男女は返り討ちにされるという結末に。
武兵衛は男女の亡骸を丁重に葬ったが、その後、度々の怪奇に見舞われた。
ある夜、武兵衛が寝ていると、
囲炉裏の鉤を伝わって白蛇が屋根裏から降りてきて、
迫りかかるということもあった。
これはあの若い男女の祟りであろうと考えた武兵衛は、
剣八幡を祀って、男の霊を慰め、
また、女のためには十九夜様をお祀りし、毎年三月十五日に供養を行なった。
祠の近くには潔く散った男女を讃え、桜の木が植えられたが、
それが大正時代には古木大樹となり、
満開の折りには近郷近在の者たちが花見に訪れた。
また、その爛漫たる満開の花の様は、遠く閼伽井嶽からも眺望できたという。
しかし、昭和の初め、枯れてしまったという。
            『神谷村誌』より抄出

この話が、平の中神谷の「十九夜講」の始まりを伝えるものとなっている。


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