かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 264 韓国②

2024-06-12 14:44:48 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


264 中大兄の三万の軍海を渡り帰り得し数とはにしられず

    (レポート抄)
 661年1月、斉明天皇は百済復興のため出港。「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と額田王が詠んだのはこのころである(1月14日)。

【レポートではここに、『日本書紀』から20行の漢文が引用されているが省略。またこの後、様々な歴史書への考察があるが、それも省略した】

 上に長々と引用したのは「三万」の根拠の確認と、例えば「わずかに何名帰るのみ」という記述が無かったか確認するためである。さすがに『三国史記』、『三国遺事』まで読む気はないがそれは作者も同じであろう。死者数については「赴水溺死者衆(みづにゆきておぼれしぬものおほし)」とのみある。一見這々の体で帰ってきた兵のことを歌っている。それは悲惨なことであっただろう。白村江の生還者数は書記に記されていない以上永久に知られない。それはともに白村江で死んだ兵の数も分からないということである。この一連は詞書の太平洋戦争を重ねると、ガ島に死に、敵潜に撃たれて死んだ、草生し、水漬いた屍を、私は思う。(実之)



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 馬場あき子の外国詠 263... | トップ | 馬場あき子の外国詠 266... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌の鑑賞」カテゴリの最新記事