だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

自然死について

2012-04-01 16:16:26 | Weblog

 

 中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな-「自然死」のすすめ』幻冬舎新書2011年はぜひおすすめである。本のオビには「死ぬのは『がん』に限る。ただし、治療はせずに。」とあり、まったく同感で、私はもう読む必要がないのであるが、人に勧めるためにと思って、買って読んでみたらやはりおもしろかった。

 著者は特別養護老人ホームの常勤医であり、多くの老人の死を看取ってきた。その経験から得られた知見はとても興味深く、勇気を与えてくれるものである。私が新しく知ったのは、著者が「老衰死コース」と呼ぶ、穏やかな死についてである。食べものを受け付けず、さらには水も受け付けなくなってから、7日ほどで死に至るという。若い世代が元気な状態から餓死するのはとてもつらいのだと思うが、歳をとってまさに枯れるように死ぬというのは、苦痛もなく穏やかな死だと言う。
 もっともどのような死に方でも、たとえ即死に近いものであっても、最期の時には、自然に快楽物質や麻酔作用が働いて、夢見心地になるそうだ。

 私は胃ガンで死ぬのが一番よいと思っている。昔は、老衰とされた死の多くは胃ガンだったのではないかと言われている。まさに、食べ物も水も受け付けなくなって枯れるように死んでいく死に方である。
 私は何年か前に、内視鏡検査を受けた時に、胃壁に小さなガンが見つかり、その後自然に消えたという経験をした。なので、私はガンになるなら胃ガンだろうと思う。そこで、私はもう決してガン検診を受けないことにしている。胃ガンが見つかって胃を切り取られたら、もう胃ガンにはなれない(!)。そうすると、そのうち他の場所のもっと苦しいところのガンになりかねない。それはごめんこうむりたい。

 ガン検診に行かないだけでなく、調子が悪くても医者に行かないし、人間ドックや健康診断も願い下げである(ただし、宮仕えの身、職場の健診は法律上定められているので志を曲げて受けているが)。今死んでも、住宅ローンは保険によってちゃらになるし、死亡保険金によって子どもが大学を出る学費くらいは出るだろう。
 今日死んでも、とても充実した幸せな人生だったと思える。それ自体が、とても幸せなことだと、有難い気持ちでいっぱいである。まだ50歳前なので、えらく早いと思われるかもしれないが、特定の個人の死亡年齢と平均寿命はまったく関係がない。いつ死んでも、若くして死んでも、それはその人の寿命であり、天寿なのである。

 自ずから然るべきように生きたいと思うが、なかなか世間のしがらみがあって、そうもいかないことが多い。つい努力したりがんばったりとりつくろったりしなくてはいけない。思えばもったいないことである。せめて死ぬ時くらい、自ずから然るべきように死んでいきたいものだ。それは、次の世代のために、この地球の住み場所を明け渡す、積極的な行為だと思う。その日が来るのを楽しみに待ちながら、今日一日を有難く生きたいと思う。

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5 コメント

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全く同感です!! (バッシー)
2012-04-02 14:35:16
僕も5年ほど前から眼科、歯医者以外の医療機関には今後かからない、がん検診は絶対に行かない、健康診断はもうお世話にならないと決めました。

自ずから然るべきように生きたい気持ちも理解できるようになりました。

中村仁一氏の本読んでみます。
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THANKS! (daizusensei)
2012-04-02 19:03:54
バッシーさま>コメントありがとうございます。
私は歯医者もやめました。
奥歯が痛くなって、ぐらぐらして、抜かなきゃだめかなぁと思っていたら、そのうち治りました(爆)。歯痛も体と心全体の反映ということのようです。
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でも・・・ (togo.M)
2012-04-03 00:35:23
“いつ死んでも、若くして死んでも、それはその人の寿命であり、天寿なのである…”。
この一文にのみ腑に落ちないものがある。

20代の教え子を自死で失ったことがある。悲しかった、とてつもなく。でもスゥッと僕の中に受け容れることの出来る思いは、これはこの子の天寿なのだ、というものだけだった。そう思う以外に、どう思えばよいのか…?

ただし、こうも思う。
確かに、その瞬間に快楽物質や麻酔作用が働いて、夢見心地になったのかもしれないけれど、少なくとも自死を選んだこの子はとても充実した幸せな人生だったとは、直前まで思っていたはずがない。その場に自分がいたら間違いなく、自死を見逃すわけには行かない。
だいず先生の言われることはそのまま受けとめられる。
でもその目前にいたら、僕には止めるという選択肢しかなく、死した後の棺のその子には、きみは全うしたんだねと全肯定するしかない。

そこにいま少しの引っ掛かりを感じる。

自身がこの年齢で受け容れる自然死は、まさに然り。一切衆生悉有仏性、生死一如と迷わない。
しかし、たとえばそれがまだ年端も行かぬ幼児の発癌だったとしたら…。自身の命などより比べるまでもなくいとおしい子や、孫の発癌だったとしたら…。それもまた医者にも診せず“自然死”と受け容れられるはずもない。

戦争の犠牲で、環境の劣化で失われる子どもたちの命をして、それが自ずから然るべき死とは決して言えない。

生死一如と言うは易い。
しかれども、生と死は一如である分だけ、またその逆でもある。
だから唯一、生死を知ってしまった人は祈る。
その祈りの中味とは、生と死のはざまを愛という思いで繋ぐことに他ならないのではないだろうか。
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THANKS! (daizusensei)
2012-04-03 09:26:02
Togoさま>コメントありがとうございます。
もちろん、ここで中村氏が扱い、私が話題にしているのは、「繁殖期」の終わった生き物の死についてです。
ただ、それより若い死であっても、もちろんそれを避けるべく最大限の努力をするわけですが、それでもやむを得ずやってきた死は、それを天寿と考えるべきだと、最近は考えています。たとえそれが自死であっても。もちろんそれは自然な死ではないかもしれませんが。自死した人を責めないで、許して認めてあげなければと思うのですが。
ブータンでは死んでも49日でこの世に帰ってくるそうです。あの世に対して、この世が特別なものと思わなければ、どっちにいてもよいという考え方もありえます。いかがでしょう。
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私も読みました。 (wakuwakuchizuru)
2012-04-06 11:24:59
ガン検診も人間ドックも、受けたことはありません。術後13年近く与えられていた薬もやめました。そのせいか、職場の検診でちょっとひっっかかりましたが、気にしてません。(法律で決まっているとはいえ、強制管理されたくはないです。自分の健康くらい)

7~8年前、ある人に言われました。過去に病気になったのは、エネルギーが発散できなかったから。精神にこなくて良かったと思ってください。これからは動けるし、動けば動くほど元気になるので健康の心配はいりません、と(笑)

医師・岩田健太郎さんの『感染症は実在しない』(北大路書房)に次のようにあります。こういうお医者さんなら、冥土の土産に一度くらいかかっても良いかな~と思います。

「医者にも医療にも、ちゃんと存在価値がある。でもそれは、病気を認識して病気を治すというオートマティズム、思い込みではないと思います。そこに私たちの価値があるのではありません。
 では医療行為とは何かというと、何のためにするかというと、それは個人個人の価値観との交換行為のためだと私は思います。」P.189

「私がここで提案したいのは、自らの「生き方」を規定することです。「医療とは、ある人の生き方の規程、目的に照らし合わせ、それに不都合がある場合に提供される支援のあり方。こんなふうに意味の組み直しをしてみることが大切だと思うのです。」P.243

「そこに検査があるから検査をする、そこに薬があるから薬を与える、そこにがんがあるから切る、心臓が止まったから心臓マッサージをする・・・・・こうしたオートマティズムがもたらす不毛な感覚から脱却するためには、自らの生きるあり方を探していくことしかないように思います。」P.243
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