だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

計画的無計画

2018-07-16 00:46:08 | Weblog

 何事も計画的に、と私たちは子どもの頃から言われ続けてきた。目標を立て、それを実現するための道筋を考え、スケジュールを組み、中間地点での細かい目標を立て・・・夏休みの宿題などがその典型だった。朝は何時に起きて何時に勉強して、いつまでにこの宿題をやって、と夏休みの学習帳の最初のページに書かされたものだ。そして私は自慢ではないが、その通りにできたためしがない。しかもそのことについて子ども心に深く罪悪感を感じていた。

 大人になっても同じだ。会社でも役所でも大学でもNPOでも、目標を立てスケジュールを組み、中間評価をして・・・現代の組織というのはそういうものがないとやっていけないもののようである。

 そういう物事の進め方が良くないと思うのは、目標が達成できてもそれが当たり前で別に褒められるわけでもない一方、目標が達成できない場合は叱られる。たいていの場合はプロジェクトがスタートした初期の段階から目標が達成できそうになく、追い詰められた気持ちになっていく。夏休みの宿題ができなくて罪悪感まみれになるのと同じ構図である。

 組織というのは、一人ではできないことを多くの人の力を合わせて実現するためのものである。メンバーひとりひとりがのびのびとイキイキと取り組んで初めて何事かが達成できるものである。しかしながら、みんなが追い詰められた気持ちになり罪悪感まみれになっていては、何かを実現できるはずがない。全体を管理する立場にある人は、そのようにモチベーションが低いメンバーのお手当てをしようとして疲弊する。上から下まで、下りのエレベーターを上っていくような消耗感がある。現代の組織のあり方は非常に非効率である。

 歴史の大きな曲がり角に来ているような時は、ますますそうである。そして今がそれにあたる。今年は明治維新150年。成長型社会がスタートしたところから150年を経て、日本は縮小する社会に突入した。人口や経済が縮小する中で、人々がより幸せになる社会になるよう舵を切り直さなければならない。それは今までの社会がひっくり返るということであり、大変な変革期であると言える。

 そもそも計画というものは、外的条件が揺るがず安定している中で、自分たちの努力が実るということが期待できる、という状況が前提されている。外的条件が大きく変化している時にはそもそも計画するということが成り立たない。

 そこで計画的無計画である。この言葉を最初に目にしたのは(株)リレイションの祁答院弘智氏のfacebookの記事である。言い得て妙と思い私も使わせていただいている。以下、私なりの実践的解釈を紹介したい。

 計画的無計画とは、まず目標を設定しない。そうすると、目標達成できないという事態がそもそもないので追い詰められない。やりたいことをやれば良い。組織といっても、メンバーは一人ひとりが独立した存在であって、やりたいことが重なれば、いっしょにやれば良い。重ならなければやらなければ良い。やりたいことしかやらないので、みんなのびのびイキイキ取り組む。管理の仕事はとても楽であり、究極的には管理の仕事はなくなる。一人ひとりが全体を見渡して仕事をするので、全員が管理職のようになるからだ。

 もちろん無計画なので、いつまでにできる、ということを約束できない。できる時にできるとしか言いようがない。何ができるかも約束できない。プロジェクトの進行につれて、方向は随時修正されていくので、どこに行き着くかは行き着いてみなければわからない。

 すべては「作業仮説転がし」である。この方向が良さそうだと思えば、とにかく小さくやってみる。いい感じならばその線でやっていく。そうではなくて、やるごとに苦しくなっていくようであれば、仮説が間違っていたのであり、修正を加えるかもしくは全くやめてしまって別の仮説を立てる。

 いい線でやっていると、そのうち、「仮説に転がされる」感じになってくる。そうなれば存分に転がされてみる。その先に何事か新しいものが実現することになる。この「転がされる」感覚がとても大事だ。そもそも計画というのは、人間が努力すれば何でも実現する、ということが前提されている。それは、繰り返しになるが、安定した外的条件のもとで、何を努力すべきか、何は努力しても仕方ないか、そのルールがはっきりしている時にのみ有効なのだ。しかし現在の世界はそうではない。人事を尽くして天命を待つ。天命に依って人事を尽くす。成果は出すものではなく出るものである。これは歴史の変革期に共通した、事に向かう時の態度である。

 計画では、最もよくて計画されたものが実現する。つまり想定の範囲内だ。しかもたいていの場合はその少し低いレベルのものが実現し、敗北感に苛まれる。オリンピックで銀メダルを取った選手が、それは素晴らしい結果なのに、悔しさでいっぱいになるのと同じだ。

 一方、計画的無計画は、最初の段階で何が実現できるかわからない。すなわち、できたものは必ず想像を超えたものが実現することになる。その種目の選手は世界で自分一人なので、自動的に金メダルである。もちろんこの場合、金メダルといっても意味がない。そもそも競争ではないからだ。

 では計画的無計画はただの無計画とはどこが違うのか。計画的無計画の「計画的」とはどういうことか。それは、多くの人の力を引き出すための場を用意するということについては周到にやるということだ。みんながオモシロイと寄ってくる場、そこでワイワイ話していたら、まずはこれをやってみようよと、仮説が転がりはじめる場。もちろん、その場づくりも仮説転がし的にやっていくのであり、そのことをもあらかじめ仕込んでいるような場の設定。

 そこに必要なのはリーダーシップではなくてファシリテーションである。しかもメンバーが全員ファシリテーターであるような場である。お互いがお互いの思いを引き出し、それぞれが持っている知識やスキルを持ち寄り、物事を進めていく。

 また、その場の進め方は問題解決型ではなく価値創造型で。社会は問題だらけだ。それを解決しようとするのだが、その問題だけにフォーカスしても実は問題は解決しない。容易に解決しないから問題なのであるから。しかしながら社会問題は決して解決しないかというとそうではない。解決できたケースをよく観察してみると、大抵は、別のところから何か新たな価値が見出されたり創造されたりして、その副作用として問題が解決するか、あるいは問題が消滅するということだ。諸々の課題は整理した上で、むしろ資源に注目する。それを活かし伸ばしていくにはどうすれば良いかを考えるのが肝要である。

 ということで、今私が実践している計画的無計画は、ミライの職業訓練校とつくラッセル電工室。何ができるかはまったく分からないけれども、何かすごくイノベーティブなものが生まれてくるということだけは分かる。まったくワクワクしかないのである。

 


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