だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

幻覚妄想のススメ

2019-03-02 19:30:42 | Weblog

 この社会を成り立たせているのは人間の協力共同の形としての組織とその運用規則集である制度だ。これらはすべてそこに参画する人々が共有する「お約束」で成り立っている。例えば、お店で一万円札を出して買い物ができるのは、客とお店の人とが一万円札の価値を「お約束」として共有しているからだ。その価値は一万円札そのものの紙に何かが印刷されているものの実体的な価値ではなく、何かうまく説明できない「お約束」された価値である。この「お約束」は共同幻想と言っても良い。

 今ちょうど確定申告の時期で、たくさんの人が自分が払うべき税金の額を自分で計算して申告し国庫に払い込んでいる。もちろん税金を納めないと罰則が科されるということもあるが、多くの人は罰則が怖くて税金を払うのではなく、「税金を払うのが社会人の務めだ」という内面化された「お約束」に従っている。なぜそうなのかはうまく説明できない。あるいはこと細かに説明しようと思わなくても平気でいられる。

 会社では上司から指示されて部下は動く。少々不合理・不条理なものでも従わざるを得ない。その強制力はどこから生まれるのか。就業規則である。しかしそれは紙に書かれた文章でしかない。最近は紙にも書かれていなくて電子ファイルだったりする。暴力や武力のような具体的な強制力ではない。部下も上司もそれに強制力があると思うから強制力があるのであって、それは共同幻想と言える。

 このように、すべての組織と制度は共同幻想のもとに成り立っている。

 幻想とはいえ、それが社会の中に登場したのは、そこに必要性と必然性があったからである。一人だけの幻想は社会の制度とはならず、むしろ社会から弾圧され排除される。多くの人が何がしかの必要性を感じたからこそ、同じ幻想を抱いた、あるいはある幻想を共有することに同意した、あるいは空気のように無意識のうちに共有しているのである。共同の幻想になるからこそ制度として成立するのである。

 歴史は一定の安定期の後に世の中がひっくりかえるような変革期がやってくる。混乱の後に新しい秩序がもたらされる。すなわち古い共同幻想が新しい共同幻想に置き換わる。そうすると、またしばらく安定期が続く。その繰り返しが歴史である。

 今、私たちが生きている時代は変革期である。これまで私たちがその上に乗って浮いていたのは、成長型社会という海であった。日本では明治維新にはじまり、2008年まで続いた。人口と経済が指数関数的に増大する、すなわち成長する時代であった。

 2008年というのは日本の人口がピークに達した年である。人口が減少する時代には成長する時代の数々の「お約束」は成り立たなくなる。例えば企業の終身雇用・年功序列という制度。この制度ではある年に入社させた社員を20年後に全員課長にしなくてはいけないため、20年間で社員の数を指数関数的に増やさなくてはいけない。そのためには会社は売り上げを指数関数的に増やさなくてはならない。つまりこの制度は一種のネズミ講のようなものなのだ。人口が増える時代は需要が増えるのだからそれが可能であったのだが、人口が減る時代には破綻する。

 そうすると、「良い学校に行って良い会社に入れば人生安泰」という「お約束」も破綻する。これと連動して、大企業のホワイトカラー大量養成機関だった学校もその存在意義を消失する。「良い学校」の「良い」という「お約束」が消滅してしまう。

 波は砕け、私たちの乗った船はコントロール不能となる。乗客は荒れ狂う波間に一人ずつ放り出される。

 つまり、ここしばらくは共同の幻想などないのだ。しばらくの混乱の後に新しい共同幻想が成立するだろうが、それまでは個々人の幻覚妄想が多いに許されまた推奨される時代となる。おもしろい時代ではないか。

 例えば、成長型社会では、いなかは遅れたところ、価値のないところであり、都市は憧れるべきところ、価値あるところであった。「いなかくさい」とか「いなか者」というのは蔑称であり、あるいはへりくだるかもしくは自虐の言葉だった。「いなかの風景は美しい」と言う時、それはきらびやかな都市の価値を前提とした上で、その足らないところを部分的に補間するものとして言われてきたのである。しかし、なぜいなかの価値が薄くて都市の価値が高いのか。それぞれに良いところと悪いところがあるのであって、一方的にいなかの価値が低い理由はよくわからない。これなども典型的な共同幻想である。このような共同幻想が定着したのは、成長型社会とは都市化社会であり、人々が都市に引きつけられるべき時代であったからだと思われる。

 そして、今はあらゆる共同幻想から自由になって良いのである。むしろ新しい発想の手がかりになるのは、従来の共同幻想(常識と言っても良い)の逆を発想してみることだ。すなわち、偏差値の高い学校に行かないのが良い、大学に行かないのが良い、大企業に入らないのが良い、お金をたくさん稼がないのが良い、35年ローンを組んでマイホームを購入しない方が良い、都市に行くよりもいなかに行くのが良い。

 そこまでの発想が許されるという広いレンジの中で、自分が思いたいように思えば良く、ただやりたいことに打ち込めば良いのである。みんなにとって大切なことは何かなどおもんばかる必要はない。そのような共同幻想はまだ確立していないのだから。自分にとって本当に大事に思えることだけを思い行動すれば良い。またそのことについて周囲の人が理解できるよう説明しなくては思う必要はない。どうせこれまでの共同幻想もその根拠は説明不能なのだから。自分が大事だと思えないことにエネルギーと時間を使う必要はない。ほっておこう。

 明治維新のさなかに台頭し活躍したのは、藩の幹部から下級武士、庶民にいたるまで幻覚妄想に溢れた無鉄砲な豪傑たちだった。今また豪傑よ来たれ。勇気を持って幻覚妄想を豊富にたくましくしよう。


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