内山節氏によれば自然を「しぜん」と読むようになったのは明治からだそうで、natureの訳語としてあてたのだという。それまでは「じねん」と読んでおり、その意味は「自ずから然らしむる」ということだ。もちろん、自然(しぜん)というのはそういうものである。草のタネは気候が芽吹きにふさわしくなったら芽吹く。いろんな植物がいっせいに芽吹けば、一番成長の早いものが勝ち残って花をつける。花が咲けば虫がやっている。タネが実れば枯れる。その後でまた別の草が生えてくる。誰かが計画をたてるわけでも号令をかけるわけでもなく自ずから然るべきように営まれている。しかしそこに毎年、青々とした生きものたちの世界が濃厚に繰り返される。
人間の暮らしもそこに組み込まれてじねんに営まれていたのがかつての里山の暮らしであった。生きものたちの生長に全面的に依存してしか生きられないのであるから、そのおもむくままに人間の方があわせて生きていかなくてはいけない。その結果、例えば夏の間は夜明け前から日没後、手元が真っ暗になるまで草刈りに明け暮れる、という生活だった。堆肥につんで肥料にするための草は夏しか生えないからである。
自然(じねん)の対義語は作為であろう。人間があらかじめ意図し、計画し、実行する。今、周りに存在するものをみれば、ほとんどが作為的に作られたものである。建物はまず設計図を描いて、そのとおりに作られる。身近な家具や道具類はすべて大量生産品であって、設計図があり、それに基づいて金型がつくられ、大量に同じ形のものが作られる。町にでれば、都市計画に沿って鉄道が走り、道路があり、住宅地があり、商業地がある。社会の仕組みは契約に基づいている。あらかじめ約束事をして、それに沿ってものごとを進める。それから逸脱することは許されないか、やらなくてもよいのでやらない。
こういうことができるようになったのは、化石燃料を使うことができるようになって、生態系の制約から逃れて、人間の意図するままにものの生産ができるようになったからである。
私は自然科学を志して名古屋大学理学部に入学した。そのころは物理学を志していた。当時は「物理学帝国主義」と呼ばれたもので、物理学こそ科学の王道であり、量子力学や素粒子物理といった基礎的なところから、生物や地球にまで物理学の領域が広がっていた。当時その最前線は巨大な加速器をつくって通常の状態では起こりえないような高エネルギー状態を作り出して、新しい素粒子の探索を行うというような分野であった。理論物理学では、そのような巨大な実験設備でも到達できないような超高エネルギー状態での粒子の振舞いがテーマとされていた。そういう最前線の姿を垣間見て、漠然と違和感をもった。自然界にはありえないような状態を人為的に作り出して研究するのが自然科学なのだろうか?「不自然科学」ではないのか?
それで少し軌道修正して物理学科ではなく、地球科学科に入り、同じ物理学でも地球物理学の道に進んだ。地球科学というのは物理学に比べれば今でも牧歌的なものである。山を歩きまわって岩石をハンマーでたたき地質を調べる。川の水を採取して溶存成分を分析する。地震計を設置して地震を観測する。地面に電極をさして地中を流れている電流を測る。これぞ正真正銘の自然科学と言ってよいだろう。
その後いろんないきさつで、今は環境学を教える立場になり、自然エネルギーの技術開発と普及の研究をやるようになった。2012年からは「再生可能エネルギー電力の調達に関する特別措置法」によって、自然エネルギー発電施設を作れば高い単価で電力会社に売電できるので、確実に利益が上がる状況となった。それで、あちこちに大規模な太陽光発電所ができて、今は各地でバイオマス発電所なども建設が始まっている。
そうすると自然エネルギーにも二つのタイプがあることが分かった。一つはメガワットソーラー発電所のようなものである。広大な敷地にずらっとピカピカのソーラーパネルが並んでいる。その下は、砂利が30cmくらいの厚さで延々と敷き詰められている。ソーラーパネルは少しでも影がかかると出力ががっくり下がるという特性があるため、パネルの周囲に草が生えては困るからである。それでも生えてきたらおそらく除草剤が撒かれるのだと思う。1haとか2haとかの広大な面積に草も生えないというのは、自然エネルギーと言ってよいのだろうか?「不自然」エネルギーと言うべきではないのか?
もう一つは、同じソーラーでもオフグリッド・ソーラーのようなものである。つまり、電力網につながず、当然売電もしない。昼間できた電気をバッテリーにためて、夜使うという独立電源である。家の屋根にソーラーパネルを数枚載せる程度で、当然、曇りや雨の日が続くと電気が足らなくなる。一方、晴れの日が続くと、日中でもバッテリーがいっぱいで充電できず、電気がムダになる。それで、洗濯機を回すのは天気のよい昼間にするとか、天気が悪い日はテレビを見ないとか、日々そういう工夫をしながら暮らす必要がある。自然のそりに人間が合わせてくらす、これぞ自然(じねん)エネルギーである。
日本のような先進国で、オフグリッドに経済合理性はない。電気が欲しいならば、電力会社がどこでも電線を引いてくれる。そうやって買った方が、よほど安く電気を使える。しかし、少数ながら日本でもオフグリッドを導入している人がいるのは、そこにオカネで測ることのできない価値があるからである。その価値はそれを導入する人によって千差万別である。3.11後しばらく東京電力管内で行われた計画停電に翻弄された経験のある人は、安定して電気を使うための自衛手段として部分的に導入したりする。原子力で作った電気もそうでないものもいっしょくたに購入せざるを得ない電力会社と「縁を切りたい」と導入する人もいる。さらにはまさに自然(じねん)な暮らしをするためのライフスタイルのあり方として導入する人もいる。
オフグリッド・ソーラーで暮らせば、太陽のおかげで私たちの日々の暮らしがあることが実感でき、自ずとお天道様への感謝の気持ちや祈りの気持ちがおこってくるものと思う。本を読んだり、たまにワークショップに参加するだけではこうはならない。生まれた時から作為的な営みに取り囲まれて生きてきた私たちは、ほぼゼロから自然(じねん)な生き方を学ばなければならない。自然(じねん)エネルギーはじねんに生きる生き方を学ぶためのリアルな教材なのである。
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