だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

しちめんどくさくない技術

2006-01-21 08:00:47 | Weblog

 アルコールランプに火を灯すと、全長30cmにも満たないちいさなエンジンがガチャガチャと動き始めた。けっしてスマートとは言えないが、力強い動きだ。毎分数百回転はしているだろう。発電機として働く模型用のモーターのギヤを接続すると、赤いLEDがほのかに輝いた。

 学研の「大人の科学」シリーズのスターリングエンジンのキットを作ってみた。普通のエンジンが内燃機関というのに対して、スターリングエンジンというのは外燃機関と呼ばれる。空気を閉じこめた容器があり、その一方を外から熱し他方を放熱することによって、容器内の圧力を上げたり下げたりして、容器に接続させたピストンを動かす、というものである。内燃機関が燃料の性質に神経質なのに較べて、スターリングエンジンはとにかく熱源があればいいので燃料はなんでもよく、しかも完全燃焼させることができ、排気ガスは水と二酸化炭素だけでクリーンだ。こぶりのエンジンとすれば内燃機関より熱効率がよいという。
 ロバート・スターリングがこのエンジンを発明したのは今から200年近くも前。牧師であったスターリングが当時、蒸気機関の事故が相次いだことに心を痛めて安全に動くエンジンをということで発明したという。その後、内燃機関の発明・普及とともに姿を消したものの、ここにきて、化石燃料に依存した生活から脱しようとしたときに、バイオマスエネルギーや太陽熱などから動力を得るエンジンとして脚光をあびつつある。

 というような話は前々から聞いていたので興味を持っていたのであるが、どういうものか想像できなかった。百聞は一見にしかず。机の上でガチャガチャいっているかわいいエンジンの動きを一目見れば、機械というものがあたかも命をもっているかのように愛すべきシロモノだということに気づく。容器内の圧力を上げ下げするために、容器内には空気をスカスカにとおすけれども断熱性のある「しきり」(ふわふわのかなだわしのようなもので「ディスプレーサ」と呼ばれる)がピストンに接続されて前後に動く。「しきり」が放熱側に寄ったときには、容器内の空気は熱源によって温められ、「しきり」が熱源側によった時には空気は放熱器によってさめる、ということで、熱源側で連続的に加熱するにもかかわらず、周期的な圧力の上下を作り出してピストンを動かすしくみだ。これぞ発明というにふさわしい工夫である。はじめて試作機が動いた時のスターリングさんの歓喜の表情が思い浮かぶようだ。

 先日、安城市の市民講座の参加者とともに、エネルギーを作っている現場を見に行こうということで、中部電力の碧南火力発電所と、知多半島のつけねにある新舞子風力発電所を見学に行った。
 碧南火力は国内最大規模の石炭火力発電所である。最近建設された4号機、5号機はそれぞれ出力1GW(1ギガワット=10億ワット)で、こぶりの原子炉に相当する巨大さだ。説明をしてくださったPR館のお姉さんは、煙突から白い水蒸気しかでていないことを見てください、と強調した。巨大な設備で排気から煤煙、硫黄酸化物、窒素酸化物をほぼ完全に取り除いているのだ。隣接する石炭ヤードも広大だ。発電所が所有する専用の石炭運搬船がオーストラリアとの間を絶えず往復しているという。装置そのものは巨大な四角い建屋に囲まれて外から見ることはできない。構内をバスで見学していると、こびとになっておもちゃのバスに乗っているようだ。こりゃすごいな、と思いつつ、発電所を後にゲートをでるとなんとなくほっとした。
 次は自然エネルギー生産の現場、風力発電所である。埋め立て地の公園内に出力850kWの風車が2基、立っている。最近では2MW(=2000kW)という風車がある中で、もはやこぶりな風車といえる。それでも駐車場でバスをおりて歩いて近づいていくと、その巨大さにびっくりする。ブレードの動きを見ようとするとだんだん首が痛くなる。真下では、もうなにがなんだか分からないくらいだ。ぶーんぶーんぶーんと腹に響くような風切り音が印象的だ。地上では風はさほどではなかったが、休憩所に設置されている出力計を見ると最高出力で回っていた。上空の風をしっかりつかまえているのだ。そのためには支柱もブレードも巨大になる。

 帰るバスの中で、参加者ひとりひとりに感想を話してもらった。ある人は、「どちらもややこしくてひ(し)ちめんどください感じがしてなにがなんだかわからなかった」と感想を述べた。私はその言葉にピンときた。石炭火力発電所だけでなく、風力発電所でも私も感じた何か違和感のようなもの、居心地の悪い感じをぴたっと表現してくれてたからだ。
 規模の経済という考え方がある。生産の規模を大きくするほど製品の単価を安くできる、というものだ。エネルギー生産にもそれはあてはまる。また発電施設は物理的にも大規模になるほどエネルギー効率がよくなるという面もある。したがって、実用的な量の電力をそれなりの安い値段で供給しようとすれば、規模は可能な限り大きくするほうが有利ということになる。それで火力発電所も風車も巨大になる。
 一方、世の中が規模の経済に従うからこそ、大量生産・大量消費社会が現出した、という側面がある。いったん規模を大きくしはじめたら、ポジティブフィードバックがかかって、ものごとが極限まで大きくなるまで止まらない。相対的に小さなものはコスト高となり市場での競争に勝てないからだ。そうすると、巨大な設備でたくさん作ったものは何としても消費してもらわなければならない。必要だから使うのではなく、安いから消費するのだ。そして本末転倒がはじまる。

 エイモリー・ロビンスが『ソフト・エネルギー・パス-永続的平和への道』(時事通信社1979年)を書いて、将来のエネルギーシステムは自然エネルギー主体の「ソフトパス」か原子力それもプルトニウムを利用する「ハードパス」のどちらかであって、中間や折衷はありえない、と議論したのは1970年代後半のことである。その後の歴史はロビンスの議論を実証しつつある。つまり、ヨーロッパにおいて脱原子力の動きが確かなものになり、それにつれて自然エネルギー利用が興隆しはじめているのにくらべ、日本では「ベストミックス」という名で原子力や化石燃料と自然エネルギー利用の折衷をとってきたことによって、自然エネルギー利用技術ではどうしようもなく後進国になってしまった。原子力はプルトニウムを利用しない限り、とりだせるエネルギー総量は石油にとうてい及ばない。プルトニウムを利用する高速増殖炉開発のめどがたたないなかで、いつまでも原子力に拘泥する理由はない。はやく見限ったモノ勝ちである。

 ロビンスがその議論に心を通わせるのは、以下のような記述によってである。
「大型技術の開発のために必要な大組織は、往々にして責任の所在が不明確であり、そのために機能が阻害される。そこでは一つのプロジェクトに余りにも多くの人々が参加しているので、結局、誰もが責任を負わない。そしてこれまでの技術感覚での責任は、すき間からどこかにこぼれ落ちてしまうのだ。しかし技術の質に関してより破壊的なのは、このような大型組織のもつ特性、すなわち、初期の探求における活気に満ちたうねりの後に、仕事は定型的となり、そして結局どうにもならなくなってしまうという傾向である。
 この点だけからしても-原子力論争にふれるまでもなく-核分裂はもはや何の面白味もなく、したがって結局うまくはいかないだろう。つまりそれは失敗したのである。大規模技術のとらえがたいが、しかし重要な不利益は・・・それがあまりに大きいのでそれと遊ぶことができず、したがって興味と創造の本来的な息吹が失われてしまうというところにある。
 それに比べてソフト技術は、独創的な職人を出現させ、彼はどこのまともな農業博物館にも飾られているような精巧な(しかし理解しうる)小道具をつくる。そこでは単純さへの挑戦ならびに素朴な芸術味が最大限に発揮される。」(日本語版p.232-233)

 私の机の上ではもう一つのスターリングエンジンがコトコトコトとのんきな音をたてて回っている。これは「大人の科学マガジン」vol.10のキットで、まったく実用性はないが原理を学び、そしてロビンスの言うような意味で「遊ぶ」のにとてもよくできたキットである。ひらべったい缶のような容器の上でクランク棒の動きにあわせてCDの大きさの円盤が回転する、というものだ。自作の真空管アンプの上でその排熱を熱源にのんびり回っている。誰でも「遊ぶ」ことのできる技術に囲まれて生活するのはさぞかし楽しいだろうし、地に足をつけた感じのすることだろうと思う。
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