英語のshareは日本語に訳しにくい言葉だ。アメリカの大学生は一戸のマンションを何人かで借りて部屋をshareする。誰かから情報を伝えてもらうのもshare。あなたの気持ちをshareします、と言えば思いやりの言葉。雪山でザイルを結びつけた登山パーティのメンバーは危険をshareしている。「分け合う」というのと「共有する」というのは日本語では対義語であるが、英語では両方をあわせてshareである。
私たちは地球をshareしている、はずなのだが、なかなか実感できない。
かつての農村ではこのことはリアルな現実だったようだ。宮本常一の著作には、人々がムラの地域資源をshareしているようすがしばしば記述されている。開拓できるところはやりつくしたムラは、養える人口に限りがある。各世帯は「株」と呼ばれる居住権のようなものを持っている。その株は取引されることがあり、ある家族がそのムラに新規参入するには、元いた家族が株を譲る場合のみである。
「たわけ」というのは「ばかもの」の意味であるが、元は「田分け」、すなわち、複数のこどもに田畑を分けて相続することを言う。そうすると、それぞれの世帯では一つの世帯が生きていくには小さすぎる田畑しか与えられないため、貧困に陥り、没落して田畑を手放し流浪の民になるしかない。したがって、家督は長男なり末子なり、一人の子どもにすべて相続することになる。また、まれに田分けされることがあった場合には、こどもたちは、全部あわせて一つの「株」ということになり、ムラの寄り合いでは一つの株に対して一票という習慣である。
私たちが今日このような厳しいshareの現実を感じないで生きていられるのは、石油をはじめとする地下資源を使っているからである。地下資源は何億年もかかって地球がためた貯金のようなもので、それを二、三代で食いつぶしているのが私たちだ。貯金が空っぽになれば、日銭で生きていくしかなく、それは日々降り注ぐ太陽のエネルギーの流れの範囲内で生きていくことである。
この場合には人々とだけでなく他の生き物ともshareしなければ、相応の分け前にもありつけない。時には取り分の多少を巡って紛争が起こるかもしれないが、結局お互いに譲り合って仲良くやっていくしか安定に暮らす手だてはない。気持ちをshareすること(人間とだけでなく他の生き物とも)が、限られた資源とさまざまなリスクをshareして暮らすということになる。
そういう暮らしを「貧しい」暮らしと思うか、それとも、「豊かな」暮らしと思うか。ここらあたりが、私たちが直面しつつあるより困難な将来の展望を、前向きにとらえることができるかどうかの分かれ目のようである。
聞いたままを書き記しているので正確な単語ではないかもしれませんが、ようは「みんなで分けあいっこする」という意味です。
この言葉は食卓を囲むとき限定で使われるものですが、ただ単に
「これ、ひと盛りだから分けて」
と言われるより、
「もーやいこして食べて」
と言われるほうがあったかみを感じるのは不思議です。
シェアという言葉は、英語を日常生活の中でカタカナ語のようなイメージで使用するようになってから、使うこともありました。
最近は、同世代との間では、ひとつの言葉に隠喩されている意味を明確にせずに会話が進められていくことが多いので、使用していてもちゃんと考えたことがなかったかもしれません。
ただ、「分け合う」という考え方は小学生で一番に教えられたもののひとつであったと言う記憶だけは確かだと思いました。
先日は岐阜の糸徹白での小水力発電シンポジウムにて、先生が 設計された小水力発電の水車を 見せていただきましてアリガトウございました。
最近の先生は水と緑に囲まれた糸徹白に いらっしゃることが多いのでしょうか?
ピークオイルを二年後に控えて 今後、ますます石油の価格は高騰し、やがて 機械にたよる一人農業がゆきずまり作物の確保が底をつく前に それぞれが 生きること、食べることに、きちんと向かいあわざるを得なくなっていくと思うので、十二分な満腹感を得ることが当たり前になっている体も、腹八分目から腹六分目くらいまでに 戻していくことになると思うのですが、それは「人はパンのみにて生きるにあらず」をいよいよ実践していくことになるのかも知れないから、それはそれで貴重な生活であるのだと思えてきました。