'80s Julie TV session

1980年代TVの中のジュリー・・・
って80年代好きとずっと勘違いされたかな今更思う今日この頃(笑)

●平成最期の初夏に

2018年06月16日 | 追っかけ

 

6月9日(土)は下北沢「CLUB251」で、元サンハウス、”めんたいロック”の首領(ドン)であり70年代日本のロックが生んだ最強ボーカリストの1人、柴山俊之さんの71歳バースディライブへ。

昨年よりガン闘病中にあり半年ぶりのライブ、にもかかわずドぎついメイクに上半身裸の変わらぬスタイルでノンストップ2時間を越えるステージ。

とても闘病中とは思えぬ姿は6月9日(ロックの日)生まれの通り、ロック一筋の人生そのもの。

ベースには元ルースターズの穴井仁吉さん、ジュリーファン的に説明すれば下山さんも当然ながらと言うかかつて「BULUES LION」というバンドで柴山さんの傍らでプレイした時代があります。

80年代初頭、九州から出てきたビート系バンド全ての指針がサンハウスだったと言って過言ではないでしょう、シーナ&ロケッツの「ユー・メイ・ドリーム」や「レモンティー」の作詞者としても有名。

 

 


6月11日(月)は新宿「PITINN」で、日本のフリージャズ界大御所ドラマー豊住芳三郎さんのライブ。

サックスのマッツ・グスタフソン氏とのデュオ、激しいサックスの咆哮と熱いバトル、時に訪れる静寂が心地良く眠りを誘う。

豊住さんは現在74歳、海外でも活躍した元GS「ミッキーカーチィスとサムライ(ズ)」の初代ドラマー、後任ドラマーはあのPYG~井上バンド~CO‐CoLOの原田裕臣さん。

こんな場所にもジュリーの遠い親戚みたいな話が(笑)

「PITINN」の外階段には今も浅川マキさんの最後になった2009年の公演ポスターが貼られていて、マキさんは見れなかったけど昔から拝見したかった豊住さんのプレイを健在なうち見れてなによりでした。

昨年たまたま、マキさんの70年代のほぼ全作品に参加してる片腕ギタリストの萩原さんとお話した時、「マキさんをナマで見たかった」と言ったら「CDで聴けばいいじゃん」とバッサリ。

まぁ・・・、毎日のようにご一緒してた本人からすればそんなものかもね、憧れ目線ないですから(笑)

 

 

6月14日(木)は5月に世田谷の玉川に出来たばかりの「Gemini Theater」で、「日本ロック昔ばなし  緊急企画「僕らの井上堯之~花 太陽 雨」。

日本の60・70年代フォーク&ロック関連のリイシュー作品や関連書籍でおなじみ中村俊夫さんと、ゲストにジュリーのナベプロ時代のマネージャー、独立直後CO‐CoLO期のプロデューサー大輪茂男さん。

 

 

「Gemini Theater」は元々新橋にあったダディ竹千代さんの「ZZ」が移転~新装開店したお店。

生まれも育ちも世田谷区、おまけに全域で仕事もしていたので世田谷は自分の庭、この店の目の前や周辺でも仕事したことがあるし土地勘ありすぎの場所にこれはうれしい出店(笑)

店の裏通りハタチ頃から数百回は通ってると思う

 

 

スケジュールのラインナップは好みのミュージシャンがズラリ、今後の下見も兼ね行ってみました、ライブハウスというか傾斜のある小劇場的な最高に良いお店です。

雨が降るので早めに会場入り、すると大音量で「ワンステップ」のジュリー音源が始まるまで約40分くらい素晴らしい音響装置でこれを堪能。

 

 

今回どちらかと言えばCO‐CoLO期のお話が聞きたかったんだけど、前半は緊急追悼企画で堯之さんのお話が中心。

個人的にはあまり初耳話は少なかったかな?、ただ音響が良いので合間合間にかける楽曲、たとえばジュリーの「危険なふたり」1つフツーのレコード音源が驚くほどにリアル。

次の人生があればこんな地下のリスニングルームが欲しい・・・

 

休憩をはさみ後半はCO‐CoLO期のお話。

あの頃はゴタゴタ続き
たまにWショーでお見かけしてました

 

リタ・クーリッジへ楽曲提供の話、上海でのメガネスーパーCMの話、ジュリー独立の経緯、「CO‐CoLO」のネーミング秘話、「CO‐CoLO」のハイフンの意味まで。

あのハイフンは意味があるから抜いちゃダメなんだ、めんどうだからブログではすぐ忘れるだろうけど(笑)

独立前ジュリーから離れてた時期、傍から見てても「”どん底”って歌っちゃおしまいだろ」と、当時の声も苦しそうに感じててどうにか取り戻せないかと感じてたそうです。

「どん底」は近い方から見てもそんな風に思われ本では叩かれ本人も以後サッパリの不遇曲・・・

精神的にも落ち込んでジュリーがかなり弱気になっていたと。

「落日のジュリー」もまた味わい深く好きなのですが、83~4年ジュリーノッてた時期と比べ束にして横からナナメから見てもどことなく冴えないのは、なるほど正直者ゆえ顔に出ちゃってたのだろうか?

とても納得のゆく話でした。

 

今年のツアーがラストチャンスか
「どん底」にもっと拍手を

 

 

 

「架空のオペラ」ツアーの雨降らし演出のお話。

「ジュリーってキレイごと嫌いだけどああいう追い詰めるのは大好きなの」
「ヘンタイだから汚れたいみたいな」
「ツアー中毎回マイク1本あの雨でダメにしてた」
「全国の白洋舎のツアー先でクリーニングしてた、高いツアーだった」、

話の合間の一呼吸、「指」や「灰とダイヤモンド」「夜のみだらな鳥たち」が大音量で。

 

白スーツは2着あり
全国の白洋舎で毎度お世話に

 

 

バンドを作るにあたり最初に飲み屋で口説いたのが石間さんで「それじゃアイツが必要だコイツが必要」と、話からするとそれであのメンバーになったのかな?
石間さん達もミュージシャンとしてのプライドが高くジュリーにも曲を作れと勧め、今ままでの職業作家的メンツをあえて切ったみたいですね(「CO‐CoLO1st」以降の話)、大輪さんもアーティスト指向が強い方に感じます。

必然的にCO‐CoLO時代はアーティスト寄りの作品・表現に傾斜して行った経緯もよくわかりました。

「今は芸ノー界!ジュリーなんかは芸が有るのに」・・・最後は酔いも回ってきたのか段々書けないような話ばかり、ここからが1番盛り上がったんですけど(笑)

「沢田は○○なんて論じて・・・みんなはいいと言うけど」とか誰かさんの悪さなのかとか、ダメだ後半はヤバすぎ(笑)

忌憚のないストレートなご意見、う~んもったいないよね色々と。

 

アイディアはいつも飲み屋でアレコレと
「チャンス」の札束も?
 

 

 

で・・・

 

 

 

 

ダディさんの風貌とかこんな風に気さくにお話を聞いてたら、よけいにそんな風には思えないんだけど今回のお三方には15~6の頃絶大な影響を受けてるんですね。

ジュリーに興味を持った原点がCMから流れる「アリフライラ」、つまりはCO‐CoLO期だったし、中村さんの著書「みんなGSが好きだった」という本は発売直後新宿まで探しに行ってどうしてだか「GSに詳しくなら”ねばならない”」と強烈に思い込んじゃって。

当時はテンプターズやスパイダースのベスト盤1つさえ売ってなくて、レコ屋で注文して初めて自意識を持って自分で買ったレコードがゴールデンカップスとモップスのベスト盤。

ダディさんは元カルメン・マキ&OZのマネージャであり、加治木剛のペンネームで多くの楽曲の作詞をされていて、このバンドにはとてつもない程思い入れがあるのです。

しかし、コミックバンド的な「ダディ竹千代とおとぼけキャッツ」で知られる通り、風貌から「六月の詩」や「空へ」の歌詞を書いた同一人物にどう~見ても思えない(笑)

2014年秋、マキさんの45周年でマキ&OZの再結成見ることが出来ました。

名曲「六月の詩」のイントロが流れた時、リアル世代を含む40~60代までの全員がマキ&OZを聴いてた少年少女に戻ってるのを肌で感じた会場の一体感は忘れられない。

マキ&OZを聴けば初めて耳にした平成元年春先から初夏の空気が今も鮮やかによみがえる。

そしてあの年の夏には廃盤で高くて買えなかったマキ&OZの2nd・3rd・ラストのライブ盤のCD再発、それを買うために勇気を出して踏み込んだ初めてのアルバイト。

 

不思議な縁かこのイベント前日にはカルメン・マキさんがこの場所でライブをしてました、あれから早30年、思えば今年は平成最期の夏、中身だけなんにも変わらない自分がここにいる。

 

 

 

2014・11・24 恵比寿リキッドルーム カルメン・マキ&OZ「六月の詩」

 

 

 

 


最新の画像もっと見る