唐突だがこの本をおすすめしてみる。
いつ読み返しても、またこれが前世紀の全体主義(共産主義)の悪夢を象徴するテキストのひとつだと判ってはいても、やっぱりこれは名著だよ、と思ってしまうのは、この本の中でレーニンは「議会制民主主義などというが茶番ではないか」という意味のことを、はっきり言いきっていたりするからだ。
事実それは茶番なのである。ほかの言葉はまったく見当たらない。20世紀初頭の当時にそうであったことはもちろん、21世紀初頭の現在でも、もちろんわが国においてもまったく変わらずにそうなのである。全体主義(共産主義)がどうであるかとは関係なく、ほとんどの人にとってまったくどうでもいい、毎年々々莫大な国費を投入しては、いいトシこいた大人達が愚にもつかないサル芝居のごときものを延々と演じたり、あるいは官僚の作文した台本に書かれた漢字を棒読みすることすらまんそくにできないで演じ損ねたりしながら、ろくな客もつかないところで空前絶後のロングラン記録を更新し続ける愚劣な茶番劇であることに違いはない。
むろん逆説的に言えば、それが愚にもつかない茶番劇であればこそ、そんなものを独占することが名誉だとは誰も考えないから、かえって民主主義の本義にとっては結構なことだという面もないことはない。議会はむしろどこまでもデタラメであってくれた方が、利権という利権は悉くシャッフルされて確率的に全員平等に行きわたるということが、非民主主義のご立派な制度によるよりは、よほどありそうなことではある。なまじ巧妙にできたモデル駆動の制御装置よりも、モデルの精緻化などは大方放棄して統計的な最尤性だけに依拠した方が、よほど頑健で安定性も高い制御が達成されるということは、制御ではよくあることである。
まあ、そうだとしたら国政などはサイコロひとつで十分ではないか、ということにもなる。それはそれで悪くもないかもしれない。ダムや高速道路を作ると決めたのは地元名士とつるんだ自民党だとか、反対するのはそれが死んだ後でもソ連に遠隔操作されてる左翼党派「市民」だとかいうことがあったりするから、いちいちいらぬ騒ぎが起きたり、関係者の間に長年の不和や怨恨が積み重なったりするので、あれはまさにサイコロで決めたのだということになったら、そんなことに賛成も反対も無意味だから、かえってことが合理的に進むかもしれない。また個々の住民の命や生活習慣のかかった事柄であれば、誰もそんな重大事をサイコロの出目なんぞに委ねたいとは思わないから、(国家の名のもとでの)戦争とか環境対策(という名のバイオポリティクス、現代世界における最新の茶番だ)とかは自然と放棄されてゆく格好になるのではなかろうか。
これ自体はもちろんバカ気た空想だが、十分な現実的な根拠を見出しがたいという意味での空想で、ゆえに哲学的な空想としてはいましばらく固執してみたいところである。
しかし驚いた。いつものようにアフィリンクを作ろうとしたら、上掲のちくま学芸文庫版を含め、「国家と革命」の邦訳書は基本的に現在すべて絶版扱いである。古書は法外な高値がついている。唯一残っていたのが上の「ダウンロード版」と称する電子出版であった。それを購入した上、読むためには専用のアプリケーション(これは無料である)が必要である。
なお、上掲画像はリンク先で表示される画像を(このblogの他のリンクのサイズに合わせて)縮小した上、元画像にあった余白をトリミングしたものである。
国家と革命 (ちくま学芸文庫)ヴラジーミル・イリイッチ レーニン筑摩書房楽天ダウンロード |
事実それは茶番なのである。ほかの言葉はまったく見当たらない。20世紀初頭の当時にそうであったことはもちろん、21世紀初頭の現在でも、もちろんわが国においてもまったく変わらずにそうなのである。全体主義(共産主義)がどうであるかとは関係なく、ほとんどの人にとってまったくどうでもいい、毎年々々莫大な国費を投入しては、いいトシこいた大人達が愚にもつかないサル芝居のごときものを延々と演じたり、あるいは官僚の作文した台本に書かれた漢字を棒読みすることすらまんそくにできないで演じ損ねたりしながら、ろくな客もつかないところで空前絶後のロングラン記録を更新し続ける愚劣な茶番劇であることに違いはない。
むろん逆説的に言えば、それが愚にもつかない茶番劇であればこそ、そんなものを独占することが名誉だとは誰も考えないから、かえって民主主義の本義にとっては結構なことだという面もないことはない。議会はむしろどこまでもデタラメであってくれた方が、利権という利権は悉くシャッフルされて確率的に全員平等に行きわたるということが、非民主主義のご立派な制度によるよりは、よほどありそうなことではある。なまじ巧妙にできたモデル駆動の制御装置よりも、モデルの精緻化などは大方放棄して統計的な最尤性だけに依拠した方が、よほど頑健で安定性も高い制御が達成されるということは、制御ではよくあることである。
まあ、そうだとしたら国政などはサイコロひとつで十分ではないか、ということにもなる。それはそれで悪くもないかもしれない。ダムや高速道路を作ると決めたのは地元名士とつるんだ自民党だとか、反対するのはそれが死んだ後でもソ連に遠隔操作されてる左翼党派「市民」だとかいうことがあったりするから、いちいちいらぬ騒ぎが起きたり、関係者の間に長年の不和や怨恨が積み重なったりするので、あれはまさにサイコロで決めたのだということになったら、そんなことに賛成も反対も無意味だから、かえってことが合理的に進むかもしれない。また個々の住民の命や生活習慣のかかった事柄であれば、誰もそんな重大事をサイコロの出目なんぞに委ねたいとは思わないから、(国家の名のもとでの)戦争とか環境対策(という名のバイオポリティクス、現代世界における最新の茶番だ)とかは自然と放棄されてゆく格好になるのではなかろうか。
これ自体はもちろんバカ気た空想だが、十分な現実的な根拠を見出しがたいという意味での空想で、ゆえに哲学的な空想としてはいましばらく固執してみたいところである。
しかし驚いた。いつものようにアフィリンクを作ろうとしたら、上掲のちくま学芸文庫版を含め、「国家と革命」の邦訳書は基本的に現在すべて絶版扱いである。古書は法外な高値がついている。唯一残っていたのが上の「ダウンロード版」と称する電子出版であった。それを購入した上、読むためには専用のアプリケーション(これは無料である)が必要である。
なお、上掲画像はリンク先で表示される画像を(このblogの他のリンクのサイズに合わせて)縮小した上、元画像にあった余白をトリミングしたものである。