惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

理想を作り直す(2)──茶番と革命──

2009年03月20日 | げんなりしない倫理学へ
唐突だがこの本をおすすめしてみる。
国家と革命 (ちくま学芸文庫)
ヴラジーミル・イリイッチ レーニン
筑摩書房
楽天ダウンロード
いつ読み返しても、またこれが前世紀の全体主義(共産主義)の悪夢を象徴するテキストのひとつだと判ってはいても、やっぱりこれは名著だよ、と思ってしまうのは、この本の中でレーニンは「議会制民主主義などというが茶番ではないか」という意味のことを、はっきり言いきっていたりするからだ。

事実それは茶番なのである。ほかの言葉はまったく見当たらない。20世紀初頭の当時にそうであったことはもちろん、21世紀初頭の現在でも、もちろんわが国においてもまったく変わらずにそうなのである。全体主義(共産主義)がどうであるかとは関係なく、ほとんどの人にとってまったくどうでもいい、毎年々々莫大な国費を投入しては、いいトシこいた大人達が愚にもつかないサル芝居のごときものを延々と演じたり、あるいは官僚の作文した台本に書かれた漢字を棒読みすることすらまんそくにできないで演じ損ねたりしながら、ろくな客もつかないところで空前絶後のロングラン記録を更新し続ける愚劣な茶番劇であることに違いはない。

むろん逆説的に言えば、それが愚にもつかない茶番劇であればこそ、そんなものを独占することが名誉だとは誰も考えないから、かえって民主主義の本義にとっては結構なことだという面もないことはない。議会はむしろどこまでもデタラメであってくれた方が、利権という利権は悉くシャッフルされて確率的に全員平等に行きわたるということが、非民主主義のご立派な制度によるよりは、よほどありそうなことではある。なまじ巧妙にできたモデル駆動の制御装置よりも、モデルの精緻化などは大方放棄して統計的な最尤性だけに依拠した方が、よほど頑健で安定性も高い制御が達成されるということは、制御ではよくあることである。

まあ、そうだとしたら国政などはサイコロひとつで十分ではないか、ということにもなる。それはそれで悪くもないかもしれない。ダムや高速道路を作ると決めたのは地元名士とつるんだ自民党だとか、反対するのはそれが死んだ後でもソ連に遠隔操作されてる左翼党派「市民」だとかいうことがあったりするから、いちいちいらぬ騒ぎが起きたり、関係者の間に長年の不和や怨恨が積み重なったりするので、あれはまさにサイコロで決めたのだということになったら、そんなことに賛成も反対も無意味だから、かえってことが合理的に進むかもしれない。また個々の住民の命や生活習慣のかかった事柄であれば、誰もそんな重大事をサイコロの出目なんぞに委ねたいとは思わないから、(国家の名のもとでの)戦争とか環境対策(という名のバイオポリティクス、現代世界における最新の茶番だ)とかは自然と放棄されてゆく格好になるのではなかろうか。

これ自体はもちろんバカ気た空想だが、十分な現実的な根拠を見出しがたいという意味での空想で、ゆえに哲学的な空想としてはいましばらく固執してみたいところである。



しかし驚いた。いつものようにアフィリンクを作ろうとしたら、上掲のちくま学芸文庫版を含め、「国家と革命」の邦訳書は基本的に現在すべて絶版扱いである。古書は法外な高値がついている。唯一残っていたのが上の「ダウンロード版」と称する電子出版であった。それを購入した上、読むためには専用のアプリケーション(これは無料である)が必要である。

なお、上掲画像はリンク先で表示される画像を(このblogの他のリンクのサイズに合わせて)縮小した上、元画像にあった余白をトリミングしたものである。

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商業的形容詞の言語哲学

2009年03月20日 | 「普通」の世界
わたしはわたしなりに自分のことを普通の人間だと思っている。だが、ホントにあらゆる意味でそうだったら、そもそもこんなことは書き出すこともしないわけだ。普通の人は、仕事や生活の必要上からそうしなければならない場合を別として、文章を文字で書いたり読んだりしないものだと思う。

それはともかくこのカテゴリは普通を哲学しようというわけではない。「普通」ということそのものは、それを論じたりすることが意味を持たない何かだと思う。そうではなく、言ってみればこのカテゴリは「普通」という安定解の近傍で事物一般の構造解析を実行してみようと…いう変な書き方はやめて(笑)普通の言葉で言えば、つまり随筆である(笑)。日常接する些細な事物に目を留めては、それを普通な部分とそうでない部分に分けて、前者の空間の構造と後者の超空間の超構造を描き出し…くそっ。どうしてこう、いちいち変な書き方をしたがるのか。

たとえば、わたしは今これをファミレスの店内で書いている。そうすると、たとえばドリンクバーの機械のすぐ脇に「デトックス」などという異様な単語を発見したりする。

toxとは毒または毒性のことで、de-toxというのは、だから解毒剤とか解毒作用を意味するわけだ。それはまあ、辞書でも引けばたぶんそんなようなことが書いてあるはずのことで、しかしこれはファミレスのような場所には一番似つかわしくない、普通じゃない単語のはずである。「de-」がついていようといまいとだ。ファミレスでなくても、どんなレストランだって、メニューにわざわざ「この料理に毒は入っていません」などと書きはしないだろう。戦場のど真ん中に「ここに地雷は埋められていません」と立て札しておくようなものである。

そんな立て札をいきなり見せつけられた一兵卒の怪訝な顔で、その異様な字句のあたりを眺めると、事態はもっと異様であることに気づかされる。デトックスなるカタカナ語は、ここではお茶ッ葉の種類に関する、ある種の形容詞として使われているのだ。いわく「デトックスハブ茶」「デトックスどくだみ茶」etc.

…なんだい、要は「ハブ茶」「どくだみ茶」のことではないか。「デトックス」という語は、だからこの場合「おいしい」というような、商業的形容詞とでも呼ぶべきものの一種として使われている。実際、言葉をそのまま入れ替えて「おいしいハブ茶」「おいしいどくだみ茶」と書けば、これはいかにもファミレスらしい字句だとなろう。別に、そう書いてあったからってうまいかどうかはわからない。そんなこととは関係がないのだ。

わたしにとってこういうのは、いくつになっても本当には馴染めない、少なくとも自分自身にはうまくできない種類の言葉遣いに属している。たとえばわたしがこのblogで「おすすめの本」と言ったら、それは少なくとも、わたし自身は偽りなくその本はおすすめだと思っているからこそ、そう書いてあるわけなのだ。あるいは、意識無意識の偽りがそこには混じっているかもしれないのだが(笑)、その場合でも「おすすめ」は偽られた形容として実質的な機能(意味)を持つべきことを、少なくともそう書いている方では期待しているわけである。

ところがこういう店で「おいしいハブ茶」などと書かれていた場合、この「おいしい」はいかなる実質的な意味(機能)も持っていない。事実そうだから、それはたとえば「デトックス」なる語と入れ替えても故障がないのである。

もっと露骨で典型的な例は、マンガ雑誌やなんかの次号予告ページだ。新連載が載っている雑誌の次号予告には、必ずその新連載が「早くも大人気」だと──嘘だッ!CV・中原麻衣次号予告の記事は雑誌の出るずっと前に締め切られている。新連載が評判を取ったかどうかなんて知る由もない時点で書かれたものであることは明らかだ。

しかしそれは「偽られた形容」ですらない。こんなことは読めば誰でも直ちに勘づくのだから、この「早くも大人気」は偽りとしてさえ機能しない(意味を持っていない)。まったく無意味な形容詞だ。にもかかわらずそれは書かれている。必ず書かれている。あたかもそう書かれていなければならないものであるかのように書かれている。

なぜそれが書かれているのか。書かれなくてはならないのか、本当の理由をわたしは知らない。知らないが、言葉の性質を考える上では見逃されるべからざる(ということは、たいてい見逃されている)重要で興味深い例のひとつだと思う。最後に余計なことを書いておけば、少なくともわたしは「こんな無意味な言葉遣いをすべきではない」などという国語審議会的・PTA全国評議会的な言語の倫理学を持っていないし、また持つことを断然拒否している。

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カテゴリ名"pride and joy"の由来

2009年03月19日 | pride and joy
何をいまさら、という気もするけどさ。アフィ契約の数が増えたんで1個増やすのもエライ手間だw
Texas Flood / Stevie Ray Vaughan and Double Trouble
Epic
Amazon / 7&Yicon / rakuten / tower records
支払や配送の手続きなんかに各社の特徴があるわけで、自分の使いやすいところで選んでやっていただきたい。

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今日はニート、明日もニート

2009年03月19日 | miscellaneous
ここのところ徹夜続きだったので、とかなんとかいった口実をつけて今週一杯休暇を取った。で、以前から懸案だった「ニコニコ動画のリンクを小さく貼る」工夫をやってみる。
…ちょっとは小さくなったかな…

この動画は、去年の夏にこのblogを始めたまではよかったが、その早々から半年間も開店休業状態が続いてしまった、その最大の原因のひとつだったりするわけである。もーすっかり中毒してしまって、ということもあるのだが、このてる…じゃない、カグヤ姫を見ているとどうも、ずっと昔に死んだ曾祖母のことを思い出すのである。

あれは幼稚園のころ、わたしの手を引いた曾祖母が公然と信号無視して大通りを渡ろうとするので「あああ危ないよ婆ちゃん」と言ったら「だが断る」と言いた気な表情の無言でそのまま(もちろん、わたしの手も引いたまま)、さながら東方の弾幕みたいに車が行き来している大通りを、すたすた渡って行ってしまったものであった。それは、交通ルールといって警察が勝手に決めただけのものだ、道は本来、人が歩くためのものだということを、生まれて始めて教わった、半ば命がけの(笑)経験であった。

ちなみに、わたしはウサギ年の生まれである。

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ちなみに

2009年03月19日 | miscellaneous
「痩せこけて暗い眼をした」ってのは、こういう顔のことな。
Marquee Moon / Television
Wea Germany
Amazon / 7&Yicon
クレジットはAmazonの輸入盤の方。こっちの方が安い。7&Yは基本邦盤しか扱ってないが、上記リンク先のページで全曲試聴できる。出だしの1分ほどだけど。

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死について

2009年03月18日 | げんなりしない倫理学へ
中島義道の「哲学の教科書」には、あらゆる哲学の問いは(自分の)死についての考察に収斂して行くのではないか、といったような意味のことが書かれている。わたしはそうは思わない、というより、そうは思わないことにしている。それはなんでか、ということと、この一文を哲学ではなく倫理学のカテゴリに含めることの理由を、ともども示すのに好都合な詩がある。

生きていくことに怖れを感じていた幼年時代だったら
若くて死に憧れていた母が一緒に死のうと言えば
ぼくは黙ってうなずいたであろう
生きることより死を受入れるほうがずっとたやすかったろう

生きることに困難を覚えていた青年時代だったら
一瞬の激情で死に突入していたかもしれない
世をも人をも厭いつつ生きていて
死と生が秤のうえでゆれながら均合っていた

ところが遅れてやってきた壮年時代に入ると
生きていくことがだんだん心地よくなってきて
死は単なる事実になり
生きることに怖れも困難も感じない髪の毛の薄い男になっていた

此頃はてんで死のことなど考えやしない
オーバーウェイトで引退したボクサーみたいに
ときたま死の匂いを発散させる若者に出会ったりすると
嬉しくなって「やあ、やあ」と肩を叩いたりする始末だ

惜しまれる死に方をしなかったことで
生きていることが心苦しくならなかったことで
多分ぼくはまちがっているのだろう
口笛を吹きながらするシャドー・ボクシングが死のレッスン。

鮎川信夫「死について」全,1976

そういうことだ。ちょっとやそっと死についていいこと考えてみせたって、トシをとったら痩せこけて暗い眼をしたワカモノの肩を叩いては「やあ、やあ」になってしまうのでは、しょうがないではないか。鮎川はこの詩を書いて十年くらい後に亡くなったが、生前のいつだったか「漱石や啄木といった人達が、仮に戦争期まで生きていたとしたら、どんなくだらない戦争賛美の詩歌や小説を書いたりしたことか、わかったものではない」という意味のことを語っていた。

「死について」の問いが哲学にとって肝心なものだという中島義道の言い分はそんなに間違ってはいないと思うけれど、すべてがそこに収斂して行くというほど重大でもなければ絶対的でもないだろうとわたしは思う。ほかにも、考える気があるなら考えた方がいいことはたくさんあるわけなのだ。この詩にあるように、齢を重ねるにしたがって問いそのものが自分の中で拡散して行ってしまうのを、本当はどうすることもできないという不条理のことだって。
詩一篇をまるまる引用するのが気がとがめたので、一応リンク。古書なら買えるようだ。
上記引用もこの全集版から。
全詩集 鮎川信夫全集第1巻
鮎川 信夫
思潮社
Amazon
なお、Amazonには画像がなかったので、以下のblogにあったものを勝手に借りてきてサイズ調整等加工した。

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「計算機屋の哲学」古典2冊

2009年03月18日 | 読書メモ
以下は哲学の本ではないが、ここんとこ「素人哲学の方法」カテゴリでやってる話の周辺というか、おすすめ参考書ということで挙げておきたい。この分野では古典中の古典、これらを読まずに「ユーザ・インタフェースを語るなかれ」と言われる(むろん、わたしも言う)名著である。

計算機入力の人間学―打鍵入力信頼性技法
G.M. ワインバーグ,米沢 明憲
共立出版
Amazon
システムづくりの人間学―計算機システムの分析と設計を再考する
G.M. ワインバーク,木村 泉
共立出版
Amazon / 7&Y
icon

著者も訳者も計算機屋だし、わたしも計算機屋のはしくれだが、この2冊は計算機屋でない人にも、また理科系でない人にも薦められる、この分野の専門書としてはきわめて珍しい本である。最近は類書も見かけるし、同じ著者や訳者の(これら以後に書かれた)本も他にあるが、それでもこの2冊よりましなものはいまだにない、とわたしは思う。

いま調べたら左はすでに絶版のようでAmazonの古書で扱っているのみだったが、バカみたいな高値はついてないので心配は無用である。

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「ユーザ志向」の本義(1)

2009年03月18日 | 素人哲学の方法
やれやれ…やっと年度末の突貫工事から解放された(かな?)。こんなトシになってまで2徹なんかするのは売れてる物書きと、わたしのようなしがない高齢エンジニアくらいのものだろう。まあ、このクソ不況のご時勢に徹夜するような仕事があるだけマシなんだろうけど。

ともあれこの間はメモすら書く暇がなかった、ということで、徹夜明けの上にぶっつけ本番で書いてみる。



素人哲学はともかく、まず「ユーザ志向」ということはたいてい誤解されているような気がする。誤解というより「ユーザ・フレンドリ」ということと混同されて使われている場合がほとんどだと思う。シリーズの題名に「本義」などとつけてみるのもそのためだ。

「ユーザ・フレンドリ」とは文字通り「ユーザに優しい」ということ、いわゆる親切設計ということである。ろくすっぽできもしないのに「ユーザの立場に立って考える」とか、まあなんかそういうことを麗々しく言うわけである。結局は目新しい考えでも何でもなくて、要は「お客様は神様です」というアレに帰着してしまう何かだ。客が欲しがりそうなものを目につきやすい場所に、手に取りやすい形で配置しておく。客が欲しがらないもの、普通見たくもないようなものは、倉庫の奥に仕舞い込んでカギをかけておく。

商売人なら誰でもすることを、それまでエンジニアがやっていなかったというのは、なるほど、おかしいと言えばおかしな話ではあった。少なくともその点では、多くのエンジニアにとって目新しい考えだったから、一時は大層流行った。今も地道に流行っていると言えるかもしれない。

ただ言うほどの効果は普通はない。なぜならエンジニアというのは普通「ユーザ」のことなんてまったく知らないからだ。計算機の分野では、パソコンが登場するまではほとんど知られていなかった。その世界にいたのはエンジニアやサイエンティストの他は「オペレータ(操作者)」と呼ばれる人達だけだった。そしてこのオペレータというのは、計算機科学的には「キーボードを打つ(で、ある確率で誤打鍵する)機械」にすぎなかったのである。

今でも計算機のエンジニアの大多数は、本音を言わせれば間違いもなくそう思っている。それが証拠に彼らはPCのことを「端末」と呼びたがる。端末なんていうな、パソコンもしくはPCと呼べ、といつも言うのだが、まあ聞く耳を持つ人はいない。断固としてPCとしか呼ばないのは、今やわたしくらいのものかもしれない。ともあれシステムの「末端」にぶら下がった入出力装置の、そのまた下にある、速度も信頼性も低い入力装置、それがオペレータのイメージなのだ。まあこの世界ではエンジニアというのもただの下級の専門労働者で、SEとかPGとか、まるでアメリカの石鹸屋みたいな略称で呼ばれたりしているわけだ。下には下を置いておきたいということではあるのかもしれない。

「お客様は神様です」という商売人の世界でも、そもそも客は事実として「神様」なんぞではない、ということがたまに忘れられてしまうことがある。もちろん客は「人間」なのである。客を神様扱いしてスポイルしまくれば、次第にこちらの思い通りにじゃんじゃん金を落としてくれるようになるってワケだぜ、というのが商売人の一般的な目論見であるわけだが、現実の客は人間だからたまには「反抗」する。このことが、たとえアタマの片隅にでも勘定に入っているかどうかは、とても重要なことだ。そう、「ユーザ志向」の観点からは、だ。

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「ユーザ志向」の本義(0)

2009年03月15日 | 素人哲学の方法
これが「素人哲学の方法」カテゴリなのは、もちろん素人哲学を「ユーザ志向」にすることをわたしが考えているからである。

考えているだけで、ちゃんと出来ているわけではもちろんないのだが、それでもこのblogは一応、「これを読むやつがいる」ということを前提として書いている。つまりそういう試みなのである。

年度末で仕事が大変なことになっている最中で、現在ただ今は哲学的なことにはほとんどアタマが回らない感じだ。以下はこの間かろうじて書いてみた冒頭部分のメモである。仕事が一段落したところで続きを書ければ書くことにしたい。



素人哲学がその考察を実行する上でとりわけ重視すべきことのひとつは「ユーザ志向」ということだと思う。

プロの哲学者やその予備軍たる学生がやることとは違って、素人哲学の特徴のひとつは一般に読者が存在しないことである。私的な友達のひとりやふたりはいるかもしれない。でも周辺状況や置かれた境遇によっては、それすら求めるべくもないということだってありうる。また友達は黙って話を聞いてくれたり、書いたものを受け取ったりまではしてくれるだろうが、読者にはなってくれないものである。特に、考えていることがオリジナルであればあるほど(本人がそう思っていればなおさら)そうなるはずだ。だから読者は存在しないと前提しておくべきなのである。

もちろん素人哲学に読者が存在しないことは、だからこそ好き勝手なことを好き勝手に考える自由があるということでもあるのだが、一方ではそのことが、どこまでもスポイルされてしまうことのリスクにもつながっているわけである。

ここまでは素人哲学なら誰でも気づくはずだし、また一様に危機感を覚えるところのはずである。…

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まとめPDF

2009年03月15日 | miscellaneous
実はこのblog、「まとめPDF」をタダで作れるということにさっき気がついた。で、ちょっと試しに作ってみた。bookmarkからアップロード先へ飛べるようになっている。ダウンロードのパスワードは「celsius」。ファイルはzip化されているが、解凍のパスワードは不要である。

それにしても…作ってはみたが、正直このPDF、出来がよろしくない。まあ文章の内容が一番ひどいのだが(笑)、この書体とかレイアウトとか「もうちょっと何とかならんのかネ」と感じる。おまけに、人が結構苦心して埋め込んだHTMLタグとかを全部きれいに無視してくれている。時間的順序が逆になってしまうことを除けば、現状ではだいたいWeb上で眺めていただいた方がまだよいかと思う。

だいたい、なんで自分のblogのまとめPDFファイルをわざわざ外部のアップローダに置かなければならないのか。納得がいかない。

…まあ、タダなんだし、あんまり文句言うもんじゃアリマセンね。こんなことぶつくさ言ってる暇があったら、俺様はもうちょっとマシなことを考えろよ、と…

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おすすめ倫理学

2009年03月14日 | 読書メモ
支配と服従の倫理学
羽入 辰郎
ミネルヴァ書房
Amazon / 7&Yicon

この本を倫理学の書だと言っていいのかどうかはよくわからない。しかしこのblogで考察している(と言いながら、実質ほとんど進んでいないのだが)「げんなりしない倫理学」について言えば、とても興味深い話がたくさん書かれている。

正直に言うと、わたしはこの本で用いられているような著者の文章の調子が、あんまり好きではない。なんというか私的な情念がモロ出しに出まくっているところがあって、それはいいのだが、その情念の質がどうやらわたしの好みに合わないのだ。にもかかわらずこの本を「おすすめ」する理由はただひとつ、わたしが日本人の書いた本を品定めするとき使っているいくつかのテスト項目のうち、最も難しいひとつをクリアしている、かつてわたしが読んできた中ではまったく最初の本だということに尽きている。その部分だけを引用しよう。

こんなことを言うと驚かれるかもしれないが、東大に入ってくる人間というのはそんなに頭は良くないのである。私も入る時は、東京大学には頭の良い人達が沢山いるのだろう、と思っていたので、その気持ちはよく分かる。ところが入ってみて驚いたのである。周囲を見回し、何だこれは、馬鹿ばっかりじゃないか! と気がついて愕然としたのである。君ら(引用者註:成城大生もしくは青森県立保健大生)の方が頭は良い。これはお世辞ではない。君らに欠けていたのは、我こそは東大に入るべき人間だ、という思い込みの強さと、最後の最後での糞頑張りである。この最後の最後での糞頑張りというのは、東大生特有のもので、これは凄い。最後の最後まで悪あがきをし、驚くべきことに、手に入れたかったものを最後にはつかんでしまうのである。

(第七章「悪意ある権力者の支配」pp214より引用。強調は引用者)

ちなみにわたし自身は東大には縁のない人で、だから言えば、上記の強調部分、「最後の最後での糞頑張り」の原理は決して「東大生特有」のものではない。東大と同じくらい偏差値が高い大学ならだいたいどこでもこんなものだというのは、そういう大学のひとつに通っていたわたし自身の経験に照らして請け合える話である。むろん著者のいう「馬鹿ばっかりじゃないか!」の、その馬鹿のひとりとしてだ。こういうことが判っていて、しかも著作の中で開陳できる人物なら、文章の上に現れた情念の質の違いなどはどうでもよいことだと言いたい。そのくらい、この指摘はまったく正確で、また希少だという意味で重要である。この引用部分のような指摘が「勇気ある」という形容をされないで済むことを、著者のために祈りたい。

つまりこの本は「げんなりするような話ばかり集めて、げんなりするような情念の質で貫かれた『げんなりしない倫理学』の珍しい本」だ、とわたしは言いたいわけだ。

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チラ裏数点

2009年03月14日 | miscellaneous
この数日、勤め先で寝泊まりしていたのでblogの更新どころではなかった。以下はこの間に書いたいくつかのチラ裏。あとで書き直すかもしれないし、しないかもしれない。

●一致性(coherency)ということ
制度一般は人間の集団における何らかの一致性の原因もしくは結果としてみることができる。制度によって一致性が生じたり維持されたりすることもあれば、先行して存在した(いわば自然にあった)一致性が次第に成文法のように外化された制度の形をとることもある。

一致性が威力を持つということはたやすく理解できる。気体の分子は通常はバラバラな方向に運動しているが、何らかの理由で突然、すべての分子の速度ベクトルが(大きさも方向も完全に)一致したとする。それが常温の空気だったとすれば凄まじい爆風と表現すべきものになる。

一致性は秩序の同義語と言ってもいいだろう。しかし問題は、秩序のもたらす達成がすべてこのような一致性によるポテンシャル・エネルギの解放なのか、ということである。つまりこの、きわめて粗っぽい一致性の描像による限りでは、それが何の一致性であるか、どんな手段でそれがもたらされたのかということは、必ずしも問題にならないのである。

わざと怖い喩え話をすれば、民主主義も全体主義も、成員の間に一致性をもたらす政治・社会制度としてみれば同じようなもので、達成できることに大差がないなら、ほんとのところ全体主義の何がいけないのだという話にもなりかねない、ということである。

幸い、現実の歴史においては民主主義が全体主義に対して次第に優り、最後は後者を退けた。これ自体は事実と言ってよい(と、こう書いていていささか面映ゆい、民主主義の側の身贔屓な歴史観のようにも思える、しかしそれでも我々にとってかけがえのない重みを含んだ事実であることは、確かである)。しかしそれは必然であったのか、それとも、たまたまそうなっただけの偶然なのか、この一致性の描像だけでは判定不能で、不十分なのである。全体主義が敗北したのは、要するに指導者譲りの粗暴で偏執狂的な性格をその体制が払拭できなかったからで、単にあちこち改良するだけで彼我の優劣は容易に逆転しうるのだ、などというようなことを考える(粗暴で偏執狂的な)人物がいたとして、たとえばそれを一蹴できるような真に科学的な根拠を、我々は手にしていないと言いたいのだ。

少なくとも、過去における全体主義体制のひとつは、未成熟で貧弱な民主主義体制を食い物にしながら出現してきたことを忘れてはならない。そもそも、今日わが国の民主主義が未成熟でも貧弱でもないなどと、いったい誰が真顔で言うのだろうか。

●臨床的な工学ということ
これまで現実的(real)とか実際的(pragmatic)とか、あるいは実践的(practical)という言葉で表現してきた(…といってもこのblogでは書いてないが)ことは、臨床的(clinical)という方が適切かもしれない。もっともこの「臨床的」なる語は、生理学的医学以外ではあんまりよく思われていない語のような気がするが。

工学が理論科学と最も異なるところは臨床的な面を持つところである。たとえばデータ圧縮技術の研究開発は、そうと意識されていようといまいと「現実のデータ」の臨床的なモデル化ということ抜きではありえない。厳密にモデル独立な任意データを圧縮できる符号化算法は存在しないからだ。ところが我々のPCには普通に圧縮技術が使われているし、程度の評価はまちまちであるにせよ有効に機能している。理論科学はこうした種類の現実に対して何も言うことができない。するとこの現実は非科学的なオバケだと言うべきなのか。誰がそんなことを言うのだろうか。

●政治はどうでもいい?
ある本を読んでいて、政治学というのは脳科学と同じかそれ以上に無理のある研究分野だと改めて思った。この種の研究は現役の官僚や政治家への取材なしには成り立たないわけだが、取材に応じてもらう以上は彼らが本気で不愉快になるようなことは、論文も著書にも書けないわけである。そしてそうした要素を丁寧に省いてしまうと、これはいったいどこの銀河系の話だろうと思ってしまうような、書かれていることの額面通りには到底受け取れない話ばかりになってしまう。

ちょうど脳科学が、脳に電極を挿入してごく局部的な電位を知ることができるほかは、精度に理論限界のある──要するに「どうやっても不鮮明な」──fMRI画像の判じ物に類したことを次々繰り出してみせるしかないのとよく似ている。脳科学を客観科学として本気で追及しようとすれば、それだけで個体は死んでしまう。あるいは本気で追及できるのは死体の脳科学だけだということもできる。政治学もまた本気で客観的な真実を追求しようとすれば、やはり現実の政治過程そのものが不可逆的に損なわれてしまうはずである。

こうしたことはもともと脳科学や政治学ばかりにあるわけではなくて、本来人文・社会科学一般の抱えるディレンマだと思う。現実の過程を知ろうとすると、そのような行為自体が現実の過程を不可逆的に損ねてしまうというディレンマである。それを損ねてしまうことのリスクはもちろん、そうまでした得たデータ自体が損なわれた後の結果にすぎないものでありえて、結局、それが真に現実の描写なのかどうかは誰にもわからない、ということになる。実質的に非破壊的な計測手段を構成しようとすれば、それはできないこともないが、現実のはるか手前でひどく不鮮明な像を結んでしまう。

●創発のオハナシ
一致性ということに関連して、たとえば非線形振動子には引き込み(entrainment)という現象のあることがよく知られている。複数の非線形振動子──振り子とか、心筋細胞とか、まあ現実的な振動子はたいてい非線形なのだ──を結合する(相互作用できるようにする)と、結合振動子系の全体が完全に同期する(周期と位相が揃う)ことがある、というものである。ミクロな振動子の結合系がマクロな集団現象を引き起こすわけで、これも自己組織化の一種である。さらに、構成要素でも外部でもない、集団に固有の振る舞いを(ということはその集団の存在それ自体を)自己創出したかのようにも見える、ということでこれを創発の一例とする考え方もある──

「考え方もある」どころではない。15年くらい前にはわたし自身がこの種の考え方に強く惹かれていた。今でもそうかもしれない。

ただ、当時も今も、少し冷静になって考え直してみれば明らかな(明らかだった)ことは、これは結局「かのようにも見える」「考え方もある」というオハナシ、つまり、創発それ自体ではなく、非線形振動子の引き込み現象という科学的な事実に基づいて、創発という主題を理工学的な言葉で書いた成功物語、メデタシメデタシというあれであって、たぶんそれ以上でも以下でもないということである。引き込み現象そのものは誰でも簡単に確かめられるような事実だが、それが「集団とその振る舞い」であるというのは、「かのようにも見える」こと、つまり観察者の主観がそう認識するかしないかということでしかないからである。

ナーンダ、それじゃ話としてはまったくのオバケじゃないか、ということにもなりかねないのだが、そこはちょっと違う、というのは、生物学一般において基礎的とされる概念のほとんどすべてについて、これとまったく同じことが言えてしまうからである。たとえば「個体」とは何だと言ったら、それは観察者の主観がそう認識するだけのものだ、というように。

生物学上の概念は物理のそれと違って客観的な測定はできないのだ。「個体性測定器」をあてると目の前の物体が生物個体であるかどうかがわかるとか、そんな装置は事実作りようがないのである。作れると主張するのは生気論(vitalism)を認めるのと同じか、それ以上のことで、まあ科学的な装置ではない。

だったら生物学は全部オバケということになるのだろうか?それはそれで、いささかならず奇妙な話ではないだろうか。何より「生命」という概念それ自体が「かのようにも見える」オバケにすぎないと言われたら、ちょっと待て、と読者にしても言いたくなるのではないだろうか。

この種の問題をテストしてみるための、素朴だが有効な方法のひとつは、レーニン方式の唯物論テスト(笑)にかけてみることだと思う。つまり「それは人類以前から存在したと言えるか?」と考えてみることである。このテストは人間(の意識)それ自体には適用できないという難点があるが、それ以下のことなら結構役に立つ。生物学とか、その文脈を援用する複雑性の研究であるとかは、上述の事情で研究者自身がオバケの虜になってしまうことがよくある(と思う…)のだが、このテストはアタマの中から「悪しき観念論」を排除するには特に便利である。この点に限って言えば「さすがはレーニン」なのである(笑)。

要は(つべこべ言いながらよくこの名前が出てくるが)J.R.サールが自由意志についてそう表現したところを口真似して言えば、これらの概念には「どこか奇妙なところがあるのだ」。この奇妙さはもっとよく探究されなければならないのである。生物あるいは生命に固有とみなせる現象は明らかに人類以前から存在して、この地上の風景に見間違えようのない痕跡を刻み込んでいるし、刻み続けている、にもかかわらず、それらについて語る言葉がどうしてか「かのように見える」主観的なオハナシの言葉ばかりになってしまうのは、ひとつには、我々の使っている概念の系列が現象に対して能く分析的であるようにはできていないからである。

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意識と制度のあいだ(3)

2009年03月10日 | miscellaneous 2
このシリーズは最初に「意識と制度のあいだ」などという題を立てたのがいけなかった。題名と関係ないことばかり、またいつにもまして意味不明な(と、読んだ者には思われそうな)ことを書いているような気がする。

少しは題名に沿ったことを書いてみる。

「意識と制度のあいだ」とは、要するに制度一般の起源をどう考えるべきかということである。意識というのは個々人の意識のことで、これが制度の起源とどのようにかかわっているか、ということだ。もっと簡単に言えば「意識が先か、制度が先か」ということである。大きく分けて次の3通りの場合が考えられる。

(a)意識が先制度は(意識における)伝達の自己組織体として成立した秩序である。
(b)制度が先意識はむしろ制度の拘束によって発生したものである。
(c)同時的意識と制度は異なるスケールの、異なる秩序である。

さしあたってこれらのどれでもありうるとしなければならない。実際、ある制度は明らかに伝達の組織化であり、別のある制度は伝達の根拠として意識に先行するように見える。前者は民主主義の社会制度、後者は(non-verbalなそれを含む)汎言語である。



ヒトが際立った生物種であることは、意識それ自体よりも制度において顕著である。他の生物種との違いは、客観的で公平な評価ということをどのように考えたとしても、桁違いのものである。類人猿の集団規模はたかだか数十ないし数百であるが、ヒトのそれは億を上回ることがある。地理的にも優に一大陸の端から端にわたる場合がある。大型動物の中で、これほどの大規模な集団が、はっきりと統制された振る舞いをもつ生物種はヒトをおいて他にはない。実際、二次的な達成においてもヒトにおける制度のそれは否応なく顕著である。解明されるべきは本来、意識よりもこうした制度的達成の方だと言うべきかもしれない。ただ、普通に考えればヒトにおける制度は、直接に物質的な描像をもつというよりは、明らかに個々の意識と結びついた描像として描かれるものである。

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意識と制度のあいだ(2)

2009年03月08日 | miscellaneous 2
このカテゴリの題名(制度のメタフィジクス)はとりあえずつけた仮のものである。我ながらこの題はよろしくない。いずれつけかえたいが、それをするにもまず考察をいくらか進めなければならない、というのも、ここで言ってる「制度」は普通に言う意味での「社会」のことで、これも実は気に入っていない。素直に「社会」と呼ばないのは、日本語の「制度」という言葉が否応なしに帯びている「うさんくささ」に注意を向けたいからだが、いかんせん直観的にピンと来ない。

どこの国や社会でもだいたいそんなものではないかという気はするが、わが国における「制度」というのは特に天下り式のものであることが多いわけである。個々人の方に根拠があって下から作り出されたという感じを少しも伴わない、いつもどこかから勝手に降ってわいてきて、ときどき勝手に変わって、最後も勝手に消滅するような何かである。そうでない制度を探すことの方が難しい気がする。

だからいけない、というわけでは必ずしもない。ただ、それはクルマや家電製品とどう違うのだと言ったら、何も違わないではないかということだ。クルマや家電製品もメーカの都合で勝手に発売され、ときどき勝手にモデルチェンジが行われ、そのうち勝手に生産中止になったり、サポートが打ち切られたりする何かである。だからと言って商品のモノが悪いというわけでは必ずしもないわけだ。だが近年のように製品のライフサイクルが極端に短くなってくると、自分の都合に沿って買うべきモノを選択し購入し使っているというよりは、これはただメーカの都合に振り回されているだけではないかという感じが募ってくるのである。

そういうのが非常に面白くないから、わたしはときどき無意味な抵抗をすることがある。たとえばファスト・フードの店では、あからさまにオーソドックスな商品しか注文しない、ハンバーガの店なら「ハンバーガとコーヒー」しか注文しない、というようなことだ。別にそんなに保守的な趣味だというわけではない。たかが食い物に保守的もへちまもない。だが、季節ごとに何やら妙な名前の新商品を鳴り物入りで売り出しては、客にはとことん余分な金を払わせてくれよう、といった意図が露骨に透けて見える感じのすることが、わたしにはしゃらくさくてかなわない。

いや余分な金を払わされるのはまだいい。どうせ小銭ではないか。そうではなく「ハンバーガを食べる」という自分の行為が、自分自身の明晰判明な食欲(笑)に基づかないで、ハンバーガ・チェーンの商品企画会議だか宣伝部隊だか何だか、そんなわけのわからぬ他人なり組織なりその理念なりの意図に振り回されている感じになることが、この場合は一番嫌なことなわけだ。企業が儲けようとして儲けるのは勝手だが、このオレ様の食欲まで巻き込むなということだ。

しかしこの種の無意味な抵抗の背景にあるものを延長して、何か倫理的な主張を構成できるものかというと、それはそれで怪しいというところもあるわけである。

数年前にHDDレコーダを買ったら、それに付属してきたリモコンがおそろしくいい加減な操作系の設計で、不便きわまりない、ということがあった。「ユーザ・インターフェース」などと言うのもふざけた代物で、呆れたものだが、よく考えると、このリモコンが不便なのは、メーカの側にユーザの利便性を考慮する知恵がないからというよりは、ユーザの方が操作系のよしあしで製品を選ぶことをしない、少なくともその優先順位がひどく低いからだということに気づいた。そんなことよりHDDの容量はいくらだとか、W録再機能はあるのかとか、あるいはもっと単刀直入に価格とか、そんなところでばっかり選択しているうちに、メーカの方もリモコンの設計を工夫して操作性を向上させるよりは、もっと簡単にユーザの気を引けるようなことに資源を集中(笑)すべきだと考えるようになって、その帰結がこのどうしようもなく出来悪なリモコンだ、ということなのだ。

何が言いたいかというと、パソコン屋のわたしは長いこと「ユーザ・インタフェース」ということを非常に重要に考えてきたし、またそれが重要だと考えること自体は今も少しも変わらないのだが、本当はこうした問題はもっと広い枠組みの上に置き直して考えなければ、本当は意味がないのではないかと、その時思ったということだ。操作性のよい機械とそうでない機械のどちらがいいかと言ったら、よほど偏屈者でない限りは誰だって前者がいいと言うのに決まっている。けれども単純にそう言うだけでは実は「ユーザ・インタフェース」ということが無意味な、それどころか建前だけの虚偽を言う格好になってしまうことがありうる、というよりもほとんどの場合そうなってしまうということだ。わたしも本職はエンジニアだから、虚偽に奉仕するなど真っ平御免だ。だがこの虚偽は、いったいどのようにしたら回避できるのか?

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神経系は身体運動の制御機構である

2009年03月07日 | miscellaneous
以前(Mar.2,2009)に脳は「身体生理機械の制御器」だと書いたが、今日になってふと、それは人間に肩入れしすぎた言い方で、より一般的にはむしろ「身体運動の制御器」であると書く方が適切だと思った。なぜなら、脳はもとより、神経系やそれに相当する体制は「動物」しか持たないものだからである。

もちろん人間に限らず、動物の神経系は必ずしも身体運動とは直接関係しない、身体生理一般の制御もやっている場合が多い。けれども本質的にはまず、それが「ほとんど動物に固有な体制」であることが強調されるべきだ。身体運動以外の制御はそれが間接的に身体運動とかかわりを持っており、身体運動を構成している感覚系や運動系と協調動作することが当然進化的に合理的であったために、それも含めて神経系が制御を担うようになったと考えるべきである。

このblogのモットーは「脳はどうでもいい」なのに、まさにそのどうでもいいことにこだわっていると思うかもしれない。だがそうではなくて、このこともまた、我々の素人哲学においては「脳はどうでもいい」という、その実際的な理由のひとつだと言いたいのだ。脳はどうでもいいが、「『脳はどうでもいい』ということ」の方は、我々にとってどうでもよくはないのである。動物が身体運動することと(少なくとも)人間が意識経験を持つことは、普通に考えればまったく別のことでなければならない。仮にこれらが互いに別のことでないとすれば、論理的に言って、動物はすべて大なり小なり意識に類した経験の領域を持つとしなければならない。それは明らかに我々の常識を覆して余りある見解のはずである。

話はコウモリくらいでは済まない。脳科学に媚を売らんとする哲学者は、神経科学や認知科学の教科書を揃えて悦に入る前に、まあ最低でも「線虫であるとはどのようなことか」真剣に考えてみてもらわなくてはならないだろう。わたしは御免だ(笑)、というのは、そんなことを考えるのがアホらしいからではない(アホらしいのだが)。そんなことを考えるなら、もっと基礎的なところから考えるべきなのである。

奇妙なことに英米の「心の哲学」者、あるいは──毎度のことだが──わが国におけるその追随者の中には、そんな証拠は哲学的にも科学的にも示されたことはないにもかかわらず、なぜか「人間以外の動物、特に大型の哺乳類の個体が心を持つこと」については、ほとんど自明の事柄だと思っている人が多いように思える。同じ(心の)哲学で「他者(の心)の存在」は大問題になる割に、動物(の心)についてはなぜか論証抜き…ということはさすがに少ないものの、どうもこれは結論ありきの議論ではないかと思えることを主張していたりする。

よっぽど人間が嫌いなのだろうか、というのは冗談として、自然科学の知見を援用しつつ考えるのなら、そんな大雑把なところでとどまることをしないで、大型哺乳類以外の場合、普通に動物とは見なさない植物や原生生物の場合、さらには非生物の場合について、それらが心を持つか持たないか、持たないとしたらそれはなぜかについて考えてみるべきだとわたしは思う。

何度も例に挙げて恐縮なことだが、たとえばJ.R.サールは意識の存在を脳という生体器官に固有な創発特性のように見なそうとしている。それ自体(創発特性だということ)は、複雑性をやっていた人間としてわからなくもない(どう「わからなくもない」のかは、これまでこのblogでも何度か書いてきた)のだが、単に創発特性と言っただけでは、それを担うものが神経細胞の集まりである理由にはならないし、ましてや神経細胞の集まりでなければならない理由にはならないのである。それこそR.ペンローズのように、心とは、本質的には神経細胞内の、そのまた微小管内で作用する量子重力が組織され、マクロな相(神経回路の動作)に露出するようになった秩序だと考えることと、話のレベルとしては──「眉唾」のレベルということだが──大差がないのである。

ペンローズの話は高度に専門的で、理科系のわたしにとっても難しすぎるから、たとえば、どうして非生物は心を持たないと言えるのか。これだってそう簡単に言えることではない(簡単でなくても言えない)のである。さしあたり性質二元論に与せず、原子やそれ以下の粒子に心(という性質)はないというくらいはいいとして(標準理論はもちろん、超ひも/M理論を真と仮定しても、そこで心が構築されると主張できるような余剰次元は、なさそうである)も、たとえば結晶のように明らかにマクロな秩序を持った物体はどうだろうか。どうしてそれは心(意識経験)を持たないと言えるのか。なるほど結晶は「喋らない」から、仮に心があっても外側からはわからない。だが、それは哲学的には、他人の心でも同じことのはずである。心の内容は何でも喋ることができるわけではないということは、むしろ哲学においてよく示されてきたことである。

…休日の弛緩した精神状態で書いていたらどうも話が逸れてきてしまった。要するにわたしの言いたいことは、心の存在やその内容を脳のような具体的な対象物に関連づけて考えるよりも、抽象的なしくみとして考えるべきだということだ。機能主義をやるなら、その本義にたちかえるべきだ──本来の機能主義は、機能が具体物に確定的に対応することを前提とはしない──ということだ。具体的な対象物にこと寄せると、上のような「じゃあ何で非生物には心がないのか」ということを真っ先に問われるし、問われたら答えられないし、ほとんど考えることもできないのである。そうではなく、たとえば

  • 身体運動ということは意識経験を持つということと関係があるのか
  • (上はあるとして)それは身体運動が大なり小なり制御された運動であると言えることと関係があるのか
  • 身体運動を行う生き物は、その運動を行うために集中的な、また統合的な制御機構を必要とするか
  • etc.
というようなことを考えた方が生産的だと思えるのだ。

たとえば3番目の命題は一見自明な真のようで、おそらく一般的には偽である。たとえばアリのような社会性昆虫の集団は、それ自体が一個の生き物のようにも眺められるが、アリの集団の集団的な活動においては、必ずしも集中的な制御機構が存在するとは言えないように思える。ただし女王アリの存在が集団の中心にあって全体を統合しているとは言えるかもしれない。集団の大多数を占める働きアリは、遺伝的には一体の女王アリに帰着するクローンである。一方、人間の脳ははっきりとした集中的な制御機構ではあるが、それが生理的身体の統合性をもたらしているかというと、そうではなさそうである。統合性ということはその内側に同一性をもたらすものということになるだろうが、人間やその他の動物の生理的身体においてそれをもたらしているのは、むしろ免疫系や循環器系のような体制ではないだろうか。

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