惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

理想を作り直す(4)──茶番と革命──(付記)

2009年03月22日 | げんなりしない倫理学へ
本を薦めておいてボロクソにけなすたあどういう料簡だとお怒りの方もいるだろう(スターリンはともかく、レーニンやトロツキーは今でもファンが多いんだよねえ)が、まあそこはどうか許していただきたい。今みたいなひどい(ひどすぎる)世の中で「国家と革命」なんかをぼんやり読んでいると、マジで「夢よ再び」みたいなことをうかうかと考える人が出て来ないとも限らない、と思うわけである。それほど強い魅力を、今なお放っている本だとわたしは思っているのである。ただその魅力を堪能するにしても、哲学思想として、あるいは実践的な理念としてどこが駄目なのかは見極めた上で堪能してもらいたいのである。歴史的な事実は確かに駄目だったのだから。

前と同じ個所をもう一度引用する。

…問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している。

ここだけ読むと、半世紀後のパソコン屋の理想のイメージそのままが語られていると言っても過言ではないのである。ひとくちに「帳簿つけ」などと言ったって、本当の簿記はそう易しいものではないし、それが大企業の経理とか国家規模の予算編成とかになったとき、本当にただの普通の事務員レベルの能力でそれがこなせるかというと、ロシア革命の当時ではすこぶる怪しいというところがあったはずである。また事実できなかったから、ソヴィエト・ロシアはいったん追放したはずの帝国官僚を再び高給と特権つきで雇い入れることを余儀なくされて行ったのである。

「だったら」と、半世紀後のパソコン屋があらぬことを空想してもおかしくはなかったのである。実際、高校生のころのわたしは、かなりそれに近いイメージの未来を空想したことがあったのである。そしてそういう空想に耽っている間は、次のような箇所は読み落としていたわけなのだ。いや読み落としていたわけではないが、ここが重大なのだということに考えが回っていなかった。

社会の全構成員あるいは少なくとも大多数がみずから国家の管理を習得し、みずからこの事業を引き受ける。そして、ほんの一握りの資本家や、資本主義の悪習を維持したいと願う紳士諸君、さらには資本主義に染まって堕落しきった労働者を対象として、監督を「発進させる」すると、まさにその瞬間から、いかなる管理にせよ管理の必要が全般的に消滅し始めるのである。(中略)なぜか。その理由はこうである。全員が社会生産を自力で管理することを覚え、実際にも管理を行うようになり、また寄食者や高等遊民、詐欺師、そしてそれと類似の「資本主義の伝統を保っている者」を調べたり、監視したりするようになると、全国に及ぶこの検査や監視から逃れることなどまず不可能となる。

第五章「国家死滅の経済上の原理」pp191-192より引用

レーニンの見落とした(そして高校生のわたしも軽くみてしまった)ことを補った上で言い直せばこういうことだ。どうして国家の死滅ということがありうるのか。それは国家が有機体(organism)としての構成を持っているから、つまり生き物(organism)だから、死ぬときは死ぬのだというに尽きる。いいかえると、上記引用でレーニンが描写している国家死滅の描像は、「寄食者や高等遊民、詐欺師」などの存在を不可分に組み込んで有機的に構成されていた国家の構成を、資本主義的生産体制のもとで極限まで機械化された(さらに革命的に武装した)労働者集団によって構成される容赦ない冷徹な機械的監視体制に置き換えるということにほかならないものであった。

レーニンはご丁寧にもすぐあとの註記の中で「武装労働者は実生活を送っている人間であり、感傷的なインテリではないので、甘く見られることを許さない」と書いている。なるほど労働者はインテリ的な感傷から監視を甘くするということはないだろう。だが本当は労働者といえども「実生活を送っている人間」としてだけ存在するわけではない。先日紹介した「支配と服従の倫理学」という本の中でも縷々解説されているように、労働者であるかそうでないかにかかわらず、人間はアイヒマン実験のような機械的体制のもとに置かれれば、実生活に根ざした常識的人倫などをたやすく踏み破ってしまうような存在に、誰でも直ちに変貌しうるのである。

もちろんアイヒマン実験は第二次大戦後のアメリカで行われた心理学実験だ。そのもとになったナチスの蛮行とともに、人間がそれほどまでに底の抜けた生き物だとか、あるいは、生き物というのはそもそもそれ自体底の抜けた存在なのだという洞察を、1910年代のレーニンが具体的実践的には持たなかったとしても、無理からぬことだったとは言える。だが本当はごく曖昧になら知られていたはずだ。それは、レーニン自身が私生活では愛好しながらも、実践家としては嘲笑的に無視しようとした「インテリ的な感傷」に満ちたブルジョア文芸の洞察の中に散りばめられていたはずであった。

(この項おわり)

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桜井章一「人を見抜く技術」

2009年03月22日 | 土曜日の本
たまには普通に書評のようなことを書いてみる。
人を見抜く技術──20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」 (講談社プラスアルファ新書)
桜井 章一
講談社
Amazon / 7&Yicon / rakuten
いきなり何だと思われるかもしれないが、わたしにとっては古い馴染みというような名前で、本屋で見かけるとついつい買って読んでしまうのである。

わたしはギャンブル全般がとことん苦手で、競輪競馬もパチンコ・パチスロも、また株とかFXとかも一切やらない。麻雀も、最初に大学生だったころに仲間うちで、ほんのお遊戯で打ったことがあるだけだ。今は友人知人から誘われることがあっても断っている。

ただし誘われるくらいだから嫌いではない(笑)。むしろギャンブル全般が大好きだ。哲学だ科学だなどという辛気くさい、理屈こちこちの世界よりはずっと好きであることは間違いない気がする。しかし大好きだからこそ自分では絶対に打たない。それほど下手で、苦手だという自覚がある。ひとことで言えばポーカー・フェースということが一切できない、全部顔に出てしまうという性質なのだ。打ちはしないが知識で言えば、競馬から統計的推定を、パチンコからプログラミング・トリックを、金融から確率過程や確率システム論を、実はわたしはさんざん学んでいたりする。これも一種の代償行為なのだ。さて麻雀は?

桜井章一氏は人の表情や所作から何事かを「見抜く」ことのプロフェッショナルで、本物である。要は麻雀というゲームはそういう「肚の探り合い」こそが本当の勝負なので、その中でもとりわけ過酷な裏プロの、文字通り真剣勝負の世界を勝ち抜いてきた人物なのだ。実際この人にかかると、素人の打ち手なんぞはもう、それこそちらっと表情を見ただけで(いや、そもそも見られていると気づかないうちに)牌の裏側まで透けて見えるくらい、もう何もかも見抜かれてしまっていたりするらしい。

なんでこんなことをわたしが言えるかというと、かつてわたしが学生として所属していた大学院の研究室には、同じ学生のうちに「雀鬼会」のメンバーのひとりが在籍していたのである。その彼から世間話のついでにいろいろ話を聞いたりしたというわけだ。また、雀鬼会のメンバーが何しに複雑性研究の研究室にいたのかと言えば、だから、実際どうして桜井氏にはそんなことが可能なのか、彼は彼なりに研究者的にアプローチしてみたかったのだろう、と思う。どうも麻雀というゲームはそんな風に、他のどんなギャンブルにもまして複雑性研究者の興味を惹くところがある。いつぞや人工知能の項で書いた通りだ。そんなことは機械にはできないし、できるようになるはずがない。では「なぜ人間にはそれができるのか?」

この本はその第一人者、桜井章一氏本人が自ら、その「見抜く」力についてのあれこれを語った本である。まあそう書いてある。

わたしには人の表情を読む力はまるっきりないのだが、書かれた文章の表情を読むことにかけては、必ずしもまったくの素人ではないつもりである。書かれたものの上にインチキが潜んでいればそれなりに見抜く自信がある。というのも、世間の人はあまり知らないし、知らなくていいことだが、複雑性研究の世界は人々の想像する以上にいたるところトンデモ話に満ち溢れた世界なのだ。そのあたりで真贋を見抜く力がないと、どんなベテラン研究者でもたちまちデンパのてんこ盛りになってしまう。あれはあれで結構怖い世界なのだ。

そういう世界に、専ら学生としてだが十年近くかかわってきたわたしがこの本を読むと、まあ全体の半分くらいは「またまた桜井さん、適当なことを」と言いたくなるような、つまり単なる思いつきのまま書かれたような内容だということにはなるような気がする。そういう部分ではつまり、桜井章一といえどもごく普通の、妻子ある(今やお孫さんもいるそうな)オヤジの人なんだなあ、というところがそのまま出てしまっている。たとえばこんなところ。

自然の生物の擬態と人間のそれとの間には大きな隔たりがある。生物の擬態は生きるため、生命のためであって、それが結果的に自然界のバランスを保つことにも繋がっている。一方、人間の擬態はといえば、擬態することによって本当の自分を見失い、それぞれがニセモノになっていく。よい学校、よい会社へ入るのはいいが、擬態すればするほど、多くの人が自然の摂理に反したニセモノの人間になってしまっているのだ。

本来人間は、自然の摂理に則り、あるがままに生きていかなければならないのに、多くの人がそれとは正反対の生き方をしている。(p.31)

わが国では素人の人が文章を書くと、まあ十割が十割こんな調子のことを、あまり考えもせずにすらすらと書いてしまうし、また書いてしまえることになっている。自然界のバランスというのはここに書かれたような意味のこととはまったく違うのだとか、人間が人間であることは自然の摂理などというものとは何の関係もないのだとか、言っても仕方がないのだが、でも少し考えてみればすぐわかることなのに、「バランス」「摂理」「あるがままに」といった言葉の口当たりのよさ、耳当たりのよさのままに途方もないことを書いてしまう。書くのはいいけど、本人はこれでいいこと書いてるつもりだったりするから、そうだとするとやりきれないというやつである。

けれど残りの半分は違う。上のようなつまんない自然や常識のたれ流しの一方になるかと見えて、残りはやはり桜井章一こそはただ者ではない、たぶん彼でなければ書くことができないような何かが書かれている、あるいは、書こうとしていると思える。うまく書けているかどうかはともかく、読んだわたしが一瞬でも考え込むようなことが書かれている。192ページの半分だからたくさんあるのだが、ほんのいくつか拾ってみる。

  • 学歴に関することだけでなく、なにかにコンプレックスを感じ、過剰な羞恥心を抱えて生きている人には、どこかに無駄な力が入っている。そして、その無駄な力の入る身体部分として私が多く見かけるのは両手の親指だ。親指に力が入りすぎ、反ってしまっている人が多いのだ。(p.19-20)
  • (自然と触れ合っている中で)違和感を感じたとき、はたして違和感はどっちにあるのか? 自分か? 向こうにか? それをまず考える。(p.43)
  • 私は、雀鬼会の道場にいるとき、隅から見ているだけで各卓の流れを全体として捉えることができる。数卓あるテーブルそれぞれで、なにが起きているか全部見えている。しかし、麻雀のDVDを製作したりする際、テレビの画面の中で展開している対局を見てもそこでなにが起きているのかはまったく理解できない。(p.46)
  • 私は女性と歩道などで対峙したとき、なるべく車側に避けるようにしている。これは相手が子どもなどでも同じだ。夜の場合はさらに気を遣う。女性というのは、夜道を歩いているときは警戒心の固まりで緊張感がみなぎっている。(p.56)
…こういう人と麻雀打っちゃいけません(笑)。道理でこの人が現役の間、20年間誰も勝てなかったわけである。

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