本を薦めておいてボロクソにけなすたあどういう料簡だとお怒りの方もいるだろう(スターリンはともかく、レーニンやトロツキーは今でもファンが多いんだよねえ)が、まあそこはどうか許していただきたい。今みたいなひどい(ひどすぎる)世の中で「国家と革命」なんかをぼんやり読んでいると、マジで「夢よ再び」みたいなことをうかうかと考える人が出て来ないとも限らない、と思うわけである。それほど強い魅力を、今なお放っている本だとわたしは思っているのである。ただその魅力を堪能するにしても、哲学思想として、あるいは実践的な理念としてどこが駄目なのかは見極めた上で堪能してもらいたいのである。歴史的な事実は確かに駄目だったのだから。
前と同じ個所をもう一度引用する。
ここだけ読むと、半世紀後のパソコン屋の理想のイメージそのままが語られていると言っても過言ではないのである。ひとくちに「帳簿つけ」などと言ったって、本当の簿記はそう易しいものではないし、それが大企業の経理とか国家規模の予算編成とかになったとき、本当にただの普通の事務員レベルの能力でそれがこなせるかというと、ロシア革命の当時ではすこぶる怪しいというところがあったはずである。また事実できなかったから、ソヴィエト・ロシアはいったん追放したはずの帝国官僚を再び高給と特権つきで雇い入れることを余儀なくされて行ったのである。
「だったら」と、半世紀後のパソコン屋があらぬことを空想してもおかしくはなかったのである。実際、高校生のころのわたしは、かなりそれに近いイメージの未来を空想したことがあったのである。そしてそういう空想に耽っている間は、次のような箇所は読み落としていたわけなのだ。いや読み落としていたわけではないが、ここが重大なのだということに考えが回っていなかった。
レーニンの見落とした(そして高校生のわたしも軽くみてしまった)ことを補った上で言い直せばこういうことだ。どうして国家の死滅ということがありうるのか。それは国家が有機体(organism)としての構成を持っているから、つまり生き物(organism)だから、死ぬときは死ぬのだというに尽きる。いいかえると、上記引用でレーニンが描写している国家死滅の描像は、「寄食者や高等遊民、詐欺師」などの存在を不可分に組み込んで有機的に構成されていた国家の構成を、資本主義的生産体制のもとで極限まで機械化された(さらに革命的に武装した)労働者集団によって構成される容赦ない冷徹な機械的監視体制に置き換えるということにほかならないものであった。
レーニンはご丁寧にもすぐあとの註記の中で「武装労働者は実生活を送っている人間であり、感傷的なインテリではないので、甘く見られることを許さない」と書いている。なるほど労働者はインテリ的な感傷から監視を甘くするということはないだろう。だが本当は労働者といえども「実生活を送っている人間」としてだけ存在するわけではない。先日紹介した「支配と服従の倫理学」という本の中でも縷々解説されているように、労働者であるかそうでないかにかかわらず、人間はアイヒマン実験のような機械的体制のもとに置かれれば、実生活に根ざした常識的人倫などをたやすく踏み破ってしまうような存在に、誰でも直ちに変貌しうるのである。
もちろんアイヒマン実験は第二次大戦後のアメリカで行われた心理学実験だ。そのもとになったナチスの蛮行とともに、人間がそれほどまでに底の抜けた生き物だとか、あるいは、生き物というのはそもそもそれ自体底の抜けた存在なのだという洞察を、1910年代のレーニンが具体的実践的には持たなかったとしても、無理からぬことだったとは言える。だが本当はごく曖昧になら知られていたはずだ。それは、レーニン自身が私生活では愛好しながらも、実践家としては嘲笑的に無視しようとした「インテリ的な感傷」に満ちたブルジョア文芸の洞察の中に散りばめられていたはずであった。
(この項おわり)
前と同じ個所をもう一度引用する。
…問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している。 |
ここだけ読むと、半世紀後のパソコン屋の理想のイメージそのままが語られていると言っても過言ではないのである。ひとくちに「帳簿つけ」などと言ったって、本当の簿記はそう易しいものではないし、それが大企業の経理とか国家規模の予算編成とかになったとき、本当にただの普通の事務員レベルの能力でそれがこなせるかというと、ロシア革命の当時ではすこぶる怪しいというところがあったはずである。また事実できなかったから、ソヴィエト・ロシアはいったん追放したはずの帝国官僚を再び高給と特権つきで雇い入れることを余儀なくされて行ったのである。
「だったら」と、半世紀後のパソコン屋があらぬことを空想してもおかしくはなかったのである。実際、高校生のころのわたしは、かなりそれに近いイメージの未来を空想したことがあったのである。そしてそういう空想に耽っている間は、次のような箇所は読み落としていたわけなのだ。いや読み落としていたわけではないが、ここが重大なのだということに考えが回っていなかった。
社会の全構成員あるいは少なくとも大多数がみずから国家の管理を習得し、みずからこの事業を引き受ける。そして、ほんの一握りの資本家や、資本主義の悪習を維持したいと願う紳士諸君、さらには資本主義に染まって堕落しきった労働者を対象として、監督を「発進させる」すると、まさにその瞬間から、いかなる管理にせよ管理の必要が全般的に消滅し始めるのである。(中略)なぜか。その理由はこうである。全員が社会生産を自力で管理することを覚え、実際にも管理を行うようになり、また寄食者や高等遊民、詐欺師、そしてそれと類似の「資本主義の伝統を保っている者」を調べたり、監視したりするようになると、全国に及ぶこの検査や監視から逃れることなどまず不可能となる。 第五章「国家死滅の経済上の原理」pp191-192より引用 |
レーニンの見落とした(そして高校生のわたしも軽くみてしまった)ことを補った上で言い直せばこういうことだ。どうして国家の死滅ということがありうるのか。それは国家が有機体(organism)としての構成を持っているから、つまり生き物(organism)だから、死ぬときは死ぬのだというに尽きる。いいかえると、上記引用でレーニンが描写している国家死滅の描像は、「寄食者や高等遊民、詐欺師」などの存在を不可分に組み込んで有機的に構成されていた国家の構成を、資本主義的生産体制のもとで極限まで機械化された(さらに革命的に武装した)労働者集団によって構成される容赦ない冷徹な機械的監視体制に置き換えるということにほかならないものであった。
レーニンはご丁寧にもすぐあとの註記の中で「武装労働者は実生活を送っている人間であり、感傷的なインテリではないので、甘く見られることを許さない」と書いている。なるほど労働者はインテリ的な感傷から監視を甘くするということはないだろう。だが本当は労働者といえども「実生活を送っている人間」としてだけ存在するわけではない。先日紹介した「支配と服従の倫理学」という本の中でも縷々解説されているように、労働者であるかそうでないかにかかわらず、人間はアイヒマン実験のような機械的体制のもとに置かれれば、実生活に根ざした常識的人倫などをたやすく踏み破ってしまうような存在に、誰でも直ちに変貌しうるのである。
もちろんアイヒマン実験は第二次大戦後のアメリカで行われた心理学実験だ。そのもとになったナチスの蛮行とともに、人間がそれほどまでに底の抜けた生き物だとか、あるいは、生き物というのはそもそもそれ自体底の抜けた存在なのだという洞察を、1910年代のレーニンが具体的実践的には持たなかったとしても、無理からぬことだったとは言える。だが本当はごく曖昧になら知られていたはずだ。それは、レーニン自身が私生活では愛好しながらも、実践家としては嘲笑的に無視しようとした「インテリ的な感傷」に満ちたブルジョア文芸の洞察の中に散りばめられていたはずであった。
(この項おわり)