惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

意識と制度のあいだ(3)

2009年03月10日 | miscellaneous 2
このシリーズは最初に「意識と制度のあいだ」などという題を立てたのがいけなかった。題名と関係ないことばかり、またいつにもまして意味不明な(と、読んだ者には思われそうな)ことを書いているような気がする。

少しは題名に沿ったことを書いてみる。

「意識と制度のあいだ」とは、要するに制度一般の起源をどう考えるべきかということである。意識というのは個々人の意識のことで、これが制度の起源とどのようにかかわっているか、ということだ。もっと簡単に言えば「意識が先か、制度が先か」ということである。大きく分けて次の3通りの場合が考えられる。

(a)意識が先制度は(意識における)伝達の自己組織体として成立した秩序である。
(b)制度が先意識はむしろ制度の拘束によって発生したものである。
(c)同時的意識と制度は異なるスケールの、異なる秩序である。

さしあたってこれらのどれでもありうるとしなければならない。実際、ある制度は明らかに伝達の組織化であり、別のある制度は伝達の根拠として意識に先行するように見える。前者は民主主義の社会制度、後者は(non-verbalなそれを含む)汎言語である。



ヒトが際立った生物種であることは、意識それ自体よりも制度において顕著である。他の生物種との違いは、客観的で公平な評価ということをどのように考えたとしても、桁違いのものである。類人猿の集団規模はたかだか数十ないし数百であるが、ヒトのそれは億を上回ることがある。地理的にも優に一大陸の端から端にわたる場合がある。大型動物の中で、これほどの大規模な集団が、はっきりと統制された振る舞いをもつ生物種はヒトをおいて他にはない。実際、二次的な達成においてもヒトにおける制度のそれは否応なく顕著である。解明されるべきは本来、意識よりもこうした制度的達成の方だと言うべきかもしれない。ただ、普通に考えればヒトにおける制度は、直接に物質的な描像をもつというよりは、明らかに個々の意識と結びついた描像として描かれるものである。

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