※長々と書いているのでもう一度断っておくと、この文章は1977年の中学2年生が人工知能(機械翻訳)について何をどう考えていたかを、30年後の本人が自分で説明し直してみる、というものである。もちろん、あくまでも現在から振り返って再構成された記憶であって、実際の中学2年生がそんなにスラスラと、整った考え方をしていたはずはない。現実の中学2年生のアタマの中は99%以上テレビとマンガと、あとは何だかよくわからない妄想で占められていたのであって、残りの1%未満で切れ切れに考えていたのである。
普通に単純に考えれば、人工知能のようなものが作れないわけがない、と思うわけである。
人工知能でなくても、たいていの計算機アプリケーションは、人間がやってることを機械的なモデルのもとで再構成したもの、つまり人間のマネをさせているだけである。人工知能だって同じことで、人間がものを考え、それに沿って合理的に判断し行為して問題を解決する、要はそういったことをおおよそマネすることができれば、それでいいわけなのである。モデルが雑ならマネの程度も低くなるだろうが、逆に言えばモデルを精緻化すればするほどマネの程度も高くなって、究極的には人間と同等の知的な問題解決能力を持つことになるだろう。
それしきのことがなぜできないのか。上の考え方にはどこかおかしなところがあるのだろうか。ひとつ考えられることは、上記のような「マネ」ができるということは、もともと人間がやっていることではあっても、それ自体は機械的なモデルで記述可能な、つまり機械的な動作にすぎないということを意味している。人工知能がうまく行かないのは、どういう理由でそうなのかはともかくとして、人間の知的な行為というのは一般的な機械的モデルの内側に属さない、本質的に非機械的な行いだからではないのか。
しかし…そんなことってあるのかネ、と計算機屋は(中学生の生意気盛りに)首を傾げる。何も知らない素人ならともかくも、計算機屋は計算機が、資源の制約を除けば万能機械であることを知っている。計算機アプリケーションの多くは人間のマネをするが、それだけではない、計算機を使ってこの宇宙の森羅万象をマネさせることもできる。それどころか、物理定数や法則のまったく異なる別の宇宙の森羅万象をマネさせることさえできてしまう。あまりに万能なので、計算機自身が計算機の限界を見定めることができない、それほど途方もなく万能なのである(理屈はわからないが、そういう意味のことが、当時別に読んでいた本には書いてあった)。
そう。軽々しく「非機械的」などと言うなかれだ。それはほとんど「非物理的」ということと同義ではないか。そんなものがあるはずがない。
そこで目先を変えてみる。疑問の余地なく物理的であるにもかかわらず、機械的にそれを「再現」できないということは、ありうるのではないだろうか。究極的にもできないかどうかはともかくとして、それがひどく困難な場合があるのは確かである。
計算機は「Time flies like an arrow.」を正しく訳せない(正確に言えば、正しく訳せる保証がない)。逆にどうしたら正しく訳せるのかを考えてみると、それは明らかに、我々が「time」「fly」「arrow」について予め持っているイメージ(信念の総体)が必要だという風に考えられる。そのイメージがあれば、左のように単語を並べられたら──仮にそれが文法的にはまるっきり間違った語順であったとしてさえ──我々はめったなことで文意を掴み損ねることはないだろうと思える。
要は、計算機の辞書にはそのような信念の膨大な束が書き込まれていないのである。
しかしそうすると、また奇妙なことは、人間の場合は、つまり我々のそれは、いつどこで書き込まれたのだろうか。おそらく「time」の一語だけを取り上げても、我々がそれについて言明することができる信念の個数は、つまり知識の量は、物心ついて以来教わってきた、あるいは自分自身の経験から取得した数をはるかに上回っている。たぶん数えきれない(これは数学でいう非可算という意味ではなく、単に多すぎて数えきれないというだけである)のである。
そんな膨大な知識がいったいどこに埋まっているというのか。中学生のわたしの考えでは、それは要するに体の組織全体に、生物進化の全過程を経てきた結果として、つまり大部分、我々のDNAの上に圧縮重畳された形で書き込まれているに違いなかった。その一部はもちろん脳の神経回路として発現しているはずだが、DNAは脳だけを記述しているわけではないし、脳だけを記述するDNAがあるわけでもない。神経回路も含めた全身の生理学的過程のすべてが、実際にはかかわっているに違いない。当時は知らなかった言葉を使って(その方が簡単だから)言えば、個々人がもつ知識(意識)に対応する物理の閉包(closure)を取れば、それは我々の生理学的な身体に一致するはずだ、ということである。
もちろん現在のわたしの考えはこれとは違って、「身体」が生理学的な身体に一致しなくなったことが我々の意識の起源だと考えるようになっている。1977年のわたしは「機械は意識経験を持たない(持つ必然性がない)」ということに、まったく気づいていなかったのだ。
ただ、我ながら興味深いと言えば興味深いのは、1977年の当時ですらわたしは「心=脳」だとは、全然思っていなかったということだ。今のわたしに言わせれば脳は「身体生理機械の制御器」だということになるが、中学生のわたしは制御理論をまったく知らなかった(電気工作少年だから「フィードバック」はよく知っていたが、その理論=算数は知らなかったということだ)から、端的に「脳はひどく性能の悪い計算機だ」と思っていた(どれほど性能が悪いかは、試験の答案についてくる点数がいやというほど証明してくれている)。そうすると、大型計算機でさえ簡単な英文翻訳ができないのに、脳にできるはずがないではないか。そう考えるのが計算機屋というものだ。原理的には脳よりも計算機の方が圧倒的に賢いと信じていればこそ、それに熱中することもできるのである。
どうもここらへんが中学2年生のわたしの限界だったということになる。本当はそこから一歩進めば「脳だけではない、身体生理だって、結局は機械=計算機ではないか」ということに気づいてもおかしくなかったはずである。あるいは妄想の中では、微妙にそれに気づいていたかもしれない。けれどもそのことを深く考えてみなかった、というのは、上のようなことを考えていても、わたしは心のどこかで「生命の神秘」には計算機の構成を超えた、何か非常に特別なところがあるのだと、強く思いたがっていたようなのである。
肝心なところで「生命の神秘」にゲタを預けてしまっていたというところが、我ながらいかにも中学生だ。でも自分で自分を弁護するなら、要は当時も今も未知なのだということだ。大人の科学者なら、未知はただ未知だと言えばいいのだということを心得ているものだが、中学生はそんなこと知らないというか、たぶんそのような言葉の使い方が、自分にできそうな気がしないのだ。そこで「未知が未知である」ことを神秘の側へ預けておこうとするわけである。このくらいの年齢のコドモがしばしばオカルト的なことに興味を持ったりするのは、曲がりなりにもカタチのあるオカルトに言及することが、カタチのない(抽象)論理「未知が未知である」の代用表現になっているのである。
普通に単純に考えれば、人工知能のようなものが作れないわけがない、と思うわけである。
人工知能でなくても、たいていの計算機アプリケーションは、人間がやってることを機械的なモデルのもとで再構成したもの、つまり人間のマネをさせているだけである。人工知能だって同じことで、人間がものを考え、それに沿って合理的に判断し行為して問題を解決する、要はそういったことをおおよそマネすることができれば、それでいいわけなのである。モデルが雑ならマネの程度も低くなるだろうが、逆に言えばモデルを精緻化すればするほどマネの程度も高くなって、究極的には人間と同等の知的な問題解決能力を持つことになるだろう。
それしきのことがなぜできないのか。上の考え方にはどこかおかしなところがあるのだろうか。ひとつ考えられることは、上記のような「マネ」ができるということは、もともと人間がやっていることではあっても、それ自体は機械的なモデルで記述可能な、つまり機械的な動作にすぎないということを意味している。人工知能がうまく行かないのは、どういう理由でそうなのかはともかくとして、人間の知的な行為というのは一般的な機械的モデルの内側に属さない、本質的に非機械的な行いだからではないのか。
しかし…そんなことってあるのかネ、と計算機屋は(中学生の生意気盛りに)首を傾げる。何も知らない素人ならともかくも、計算機屋は計算機が、資源の制約を除けば万能機械であることを知っている。計算機アプリケーションの多くは人間のマネをするが、それだけではない、計算機を使ってこの宇宙の森羅万象をマネさせることもできる。それどころか、物理定数や法則のまったく異なる別の宇宙の森羅万象をマネさせることさえできてしまう。あまりに万能なので、計算機自身が計算機の限界を見定めることができない、それほど途方もなく万能なのである(理屈はわからないが、そういう意味のことが、当時別に読んでいた本には書いてあった)。
そう。軽々しく「非機械的」などと言うなかれだ。それはほとんど「非物理的」ということと同義ではないか。そんなものがあるはずがない。
そこで目先を変えてみる。疑問の余地なく物理的であるにもかかわらず、機械的にそれを「再現」できないということは、ありうるのではないだろうか。究極的にもできないかどうかはともかくとして、それがひどく困難な場合があるのは確かである。
計算機は「Time flies like an arrow.」を正しく訳せない(正確に言えば、正しく訳せる保証がない)。逆にどうしたら正しく訳せるのかを考えてみると、それは明らかに、我々が「time」「fly」「arrow」について予め持っているイメージ(信念の総体)が必要だという風に考えられる。そのイメージがあれば、左のように単語を並べられたら──仮にそれが文法的にはまるっきり間違った語順であったとしてさえ──我々はめったなことで文意を掴み損ねることはないだろうと思える。
要は、計算機の辞書にはそのような信念の膨大な束が書き込まれていないのである。
しかしそうすると、また奇妙なことは、人間の場合は、つまり我々のそれは、いつどこで書き込まれたのだろうか。おそらく「time」の一語だけを取り上げても、我々がそれについて言明することができる信念の個数は、つまり知識の量は、物心ついて以来教わってきた、あるいは自分自身の経験から取得した数をはるかに上回っている。たぶん数えきれない(これは数学でいう非可算という意味ではなく、単に多すぎて数えきれないというだけである)のである。
そんな膨大な知識がいったいどこに埋まっているというのか。中学生のわたしの考えでは、それは要するに体の組織全体に、生物進化の全過程を経てきた結果として、つまり大部分、我々のDNAの上に圧縮重畳された形で書き込まれているに違いなかった。その一部はもちろん脳の神経回路として発現しているはずだが、DNAは脳だけを記述しているわけではないし、脳だけを記述するDNAがあるわけでもない。神経回路も含めた全身の生理学的過程のすべてが、実際にはかかわっているに違いない。当時は知らなかった言葉を使って(その方が簡単だから)言えば、個々人がもつ知識(意識)に対応する物理の閉包(closure)を取れば、それは我々の生理学的な身体に一致するはずだ、ということである。
もちろん現在のわたしの考えはこれとは違って、「身体」が生理学的な身体に一致しなくなったことが我々の意識の起源だと考えるようになっている。1977年のわたしは「機械は意識経験を持たない(持つ必然性がない)」ということに、まったく気づいていなかったのだ。
これは余談というか、先々で書くことの先取りだが、わたしがそのことにようやく気づいたのは、実に三十歳を過ぎてからのことだった。理科系の世界では四十五十の専門研究者ですら、このことにさっぱり気づいていなくて、人型ロボットの頭部に光センサやCCD素子を埋め込んで計算機モジュールに接続すれば、ロボットは外界を「見ている」のだと思い込んでいる人が、呆れるほど多いのだ。そういう中では気づいただけでもマシな方だと自分では思う。しかし、こういうことは本来、自分で気づくのを待つようなことではないのではないだろうか。気づく経験を持つことが大切な場合もあろうが、このことに限って言えば、専門研究者ですら気づかないことが多いというのでは、いろんな意味でマズイではないか。もっと早いうちから教われば、それで済むことなのではないかと思う。 |
ただ、我ながら興味深いと言えば興味深いのは、1977年の当時ですらわたしは「心=脳」だとは、全然思っていなかったということだ。今のわたしに言わせれば脳は「身体生理機械の制御器」だということになるが、中学生のわたしは制御理論をまったく知らなかった(電気工作少年だから「フィードバック」はよく知っていたが、その理論=算数は知らなかったということだ)から、端的に「脳はひどく性能の悪い計算機だ」と思っていた(どれほど性能が悪いかは、試験の答案についてくる点数がいやというほど証明してくれている)。そうすると、大型計算機でさえ簡単な英文翻訳ができないのに、脳にできるはずがないではないか。そう考えるのが計算機屋というものだ。原理的には脳よりも計算機の方が圧倒的に賢いと信じていればこそ、それに熱中することもできるのである。
どうもここらへんが中学2年生のわたしの限界だったということになる。本当はそこから一歩進めば「脳だけではない、身体生理だって、結局は機械=計算機ではないか」ということに気づいてもおかしくなかったはずである。あるいは妄想の中では、微妙にそれに気づいていたかもしれない。けれどもそのことを深く考えてみなかった、というのは、上のようなことを考えていても、わたしは心のどこかで「生命の神秘」には計算機の構成を超えた、何か非常に特別なところがあるのだと、強く思いたがっていたようなのである。
肝心なところで「生命の神秘」にゲタを預けてしまっていたというところが、我ながらいかにも中学生だ。でも自分で自分を弁護するなら、要は当時も今も未知なのだということだ。大人の科学者なら、未知はただ未知だと言えばいいのだということを心得ているものだが、中学生はそんなこと知らないというか、たぶんそのような言葉の使い方が、自分にできそうな気がしないのだ。そこで「未知が未知である」ことを神秘の側へ預けておこうとするわけである。このくらいの年齢のコドモがしばしばオカルト的なことに興味を持ったりするのは、曲がりなりにもカタチのあるオカルトに言及することが、カタチのない(抽象)論理「未知が未知である」の代用表現になっているのである。