とは、コドモのころのわたしのことだ。コドモのわたしは普通にテレビの大好きなコドモだった。
…いや、いささか常軌を逸して好きだったところが、なかったとは言えない。田舎育ちでもともと娯楽が少ない時代と土地柄の上に、テレビのチャンネルもおそろしく少なかったから、テレビが好きなら「教育テレビの白黒教養番組も辞さず」くらいの意気込みでなくてはならなかった。以前別のカテゴリで書いた「コンピュータ講座」も、そういう中でたまたま見つけて、以後熱中して見るようになった番組だった。
そんな番組を小学生の身空で見ていたなんて、まともなガキじゃなかったんだなと思われたことだろうが、仕方ないのだ。たとえば当時、わたしが見たくてたまらない(ということは、ついに見ることのできなかった)番組のひとつに「怪奇大作戦」というのがあった。小学館の学年雑誌に主題歌のソノシート(!)がついてきたので、聴いてみるとコドモ心にもエライ格好いい歌だと思ったわけだ。毎日聴いてとうとう覚えてしまった。しかし田舎のテレビ局では、その番組はやっていなかった。主題歌は歌えるのに番組の中身がまったくわからない、全然知らない、文字通り「見ず知らず」の番組の主題歌をなぜか歌えて、どういうわけか大好きだ…と、いう、なんとも超現実的な育ち方を、わたしはしてしまったのであった。
要するに本来は、怪獣番組とかロボット・アニメとか、あとプロ野球中継とか、普通に男の子の好きな番組が好きな普通の少年だったのである。「ウルトラマンはなぜ最初からスペシウム光線を出さないのか」とか「宇宙戦艦ヤマトはどうして宇宙空間で爆発音がしたり火災の煙がたなびいたりするのだ」とか、他愛ない不思議に首を傾げて考え込んだり、すべてはまったく普通の少年のすることだった。
そういう中で唯一どうも、これに限って自分はまったく普通じゃなかったと思うことのひとつは、つべこべ言いながらも怪獣番組やロボット・アニメはとにかくたくさん見ていた割に、そういう番組のスポンサーであるところの玩具メーカの製品、つまりその番組のキャラクター商品のたぐいはほとんど何ひとつ買ったことがなかった、ということである。
かくべつ裕福な家に育ったわけでもないが、玩具のひとつも買ってもらえないほど貧乏だったわけでもない。たぶん親にせがめば、それなりに買ってもらえたはずである。けれどもそうしたことがなかった。正直言って別に欲しくなかったのだ。
CMは見ていた。たぶんわたしは一番最初の「超合金」ロボの玩具のCMを、マジンガーZのCMで見ている。他に見るものがない時間帯なら教育テレビも辞さないコドモにとっては、CMだって当然れっきとしたテレビ番組のうちだった。認知度100%である。にもかかわらず、わたしは決してそれらの商品を買わなかった。欲しいと思ったことさえなかった。当時はそんなこと考えてもみなかったことだが、そもそも怪獣番組とかロボット・アニメというのは、スポンサーがその玩具を買わせたくて作っている番組なわけだ。番組だけ見て(しかも大いに楽しんで)そのくせ玩具は一切買わないし欲しくもないというのだから、そりゃもう玩具メーカにとっては悪夢のようなガキだったというわけである。
当時も今も、同世代の間でそういう話になると、わたしはこの件で全員から不思議がられる。人によってたくさん持ってた人も、そうでなかった人もいるのだが、そもそも欲しくなかったから買うこともなかった、などというのはわたしくらいのものなのだ。
「またなんで?」
「だってさ、玩具のマジンガーZが目から光子力ビームを出すわけじゃないだろ」
「そういう問題かよ」
「光子力ビームを出さないマジンガーZなんて偽物だ。偽物は欲しくない」
「本物ってアニメじゃないか」
「そうだ。それが現実であることと本物であることは別だということだ」
「昔っからそういう哲学みたいなこと言ってたのか。嫌なガキだな」
「我が事ながらまったくだ。コドモは嫌だな」
…なんでこんな年寄りじみた昔話を書いてみたくなったかというと、しばらく前からこのblogには広告を表示させているわけなのだが、調べてみると見事にただの1回もクリックされていない(笑)。これも超合金ロボのたぐいだと思って、クリックくらいしてやってもらいたいものである。
…いや、いささか常軌を逸して好きだったところが、なかったとは言えない。田舎育ちでもともと娯楽が少ない時代と土地柄の上に、テレビのチャンネルもおそろしく少なかったから、テレビが好きなら「教育テレビの白黒教養番組も辞さず」くらいの意気込みでなくてはならなかった。以前別のカテゴリで書いた「コンピュータ講座」も、そういう中でたまたま見つけて、以後熱中して見るようになった番組だった。
そんな番組を小学生の身空で見ていたなんて、まともなガキじゃなかったんだなと思われたことだろうが、仕方ないのだ。たとえば当時、わたしが見たくてたまらない(ということは、ついに見ることのできなかった)番組のひとつに「怪奇大作戦」というのがあった。小学館の学年雑誌に主題歌のソノシート(!)がついてきたので、聴いてみるとコドモ心にもエライ格好いい歌だと思ったわけだ。毎日聴いてとうとう覚えてしまった。しかし田舎のテレビ局では、その番組はやっていなかった。主題歌は歌えるのに番組の中身がまったくわからない、全然知らない、文字通り「見ず知らず」の番組の主題歌をなぜか歌えて、どういうわけか大好きだ…と、いう、なんとも超現実的な育ち方を、わたしはしてしまったのであった。
要するに本来は、怪獣番組とかロボット・アニメとか、あとプロ野球中継とか、普通に男の子の好きな番組が好きな普通の少年だったのである。「ウルトラマンはなぜ最初からスペシウム光線を出さないのか」とか「宇宙戦艦ヤマトはどうして宇宙空間で爆発音がしたり火災の煙がたなびいたりするのだ」とか、他愛ない不思議に首を傾げて考え込んだり、すべてはまったく普通の少年のすることだった。
そういう中で唯一どうも、これに限って自分はまったく普通じゃなかったと思うことのひとつは、つべこべ言いながらも怪獣番組やロボット・アニメはとにかくたくさん見ていた割に、そういう番組のスポンサーであるところの玩具メーカの製品、つまりその番組のキャラクター商品のたぐいはほとんど何ひとつ買ったことがなかった、ということである。
かくべつ裕福な家に育ったわけでもないが、玩具のひとつも買ってもらえないほど貧乏だったわけでもない。たぶん親にせがめば、それなりに買ってもらえたはずである。けれどもそうしたことがなかった。正直言って別に欲しくなかったのだ。
CMは見ていた。たぶんわたしは一番最初の「超合金」ロボの玩具のCMを、マジンガーZのCMで見ている。他に見るものがない時間帯なら教育テレビも辞さないコドモにとっては、CMだって当然れっきとしたテレビ番組のうちだった。認知度100%である。にもかかわらず、わたしは決してそれらの商品を買わなかった。欲しいと思ったことさえなかった。当時はそんなこと考えてもみなかったことだが、そもそも怪獣番組とかロボット・アニメというのは、スポンサーがその玩具を買わせたくて作っている番組なわけだ。番組だけ見て(しかも大いに楽しんで)そのくせ玩具は一切買わないし欲しくもないというのだから、そりゃもう玩具メーカにとっては悪夢のようなガキだったというわけである。
当時も今も、同世代の間でそういう話になると、わたしはこの件で全員から不思議がられる。人によってたくさん持ってた人も、そうでなかった人もいるのだが、そもそも欲しくなかったから買うこともなかった、などというのはわたしくらいのものなのだ。
「またなんで?」
「だってさ、玩具のマジンガーZが目から光子力ビームを出すわけじゃないだろ」
「そういう問題かよ」
「光子力ビームを出さないマジンガーZなんて偽物だ。偽物は欲しくない」
「本物ってアニメじゃないか」
「そうだ。それが現実であることと本物であることは別だということだ」
「昔っからそういう哲学みたいなこと言ってたのか。嫌なガキだな」
「我が事ながらまったくだ。コドモは嫌だな」
…なんでこんな年寄りじみた昔話を書いてみたくなったかというと、しばらく前からこのblogには広告を表示させているわけなのだが、調べてみると見事にただの1回もクリックされていない(笑)。これも超合金ロボのたぐいだと思って、クリックくらいしてやってもらいたいものである。