惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

玩具メーカの悪夢

2009年03月26日 | 「普通」の世界
とは、コドモのころのわたしのことだ。コドモのわたしは普通にテレビの大好きなコドモだった。

…いや、いささか常軌を逸して好きだったところが、なかったとは言えない。田舎育ちでもともと娯楽が少ない時代と土地柄の上に、テレビのチャンネルもおそろしく少なかったから、テレビが好きなら「教育テレビの白黒教養番組も辞さず」くらいの意気込みでなくてはならなかった。以前別のカテゴリで書いた「コンピュータ講座」も、そういう中でたまたま見つけて、以後熱中して見るようになった番組だった。

そんな番組を小学生の身空で見ていたなんて、まともなガキじゃなかったんだなと思われたことだろうが、仕方ないのだ。たとえば当時、わたしが見たくてたまらない(ということは、ついに見ることのできなかった)番組のひとつに「怪奇大作戦」というのがあった。小学館の学年雑誌に主題歌のソノシート(!)がついてきたので、聴いてみるとコドモ心にもエライ格好いい歌だと思ったわけだ。毎日聴いてとうとう覚えてしまった。しかし田舎のテレビ局では、その番組はやっていなかった。主題歌は歌えるのに番組の中身がまったくわからない、全然知らない、文字通り「見ず知らず」の番組の主題歌をなぜか歌えて、どういうわけか大好きだ…と、いう、なんとも超現実的な育ち方を、わたしはしてしまったのであった。

要するに本来は、怪獣番組とかロボット・アニメとか、あとプロ野球中継とか、普通に男の子の好きな番組が好きな普通の少年だったのである。「ウルトラマンはなぜ最初からスペシウム光線を出さないのか」とか「宇宙戦艦ヤマトはどうして宇宙空間で爆発音がしたり火災の煙がたなびいたりするのだ」とか、他愛ない不思議に首を傾げて考え込んだり、すべてはまったく普通の少年のすることだった。

そういう中で唯一どうも、これに限って自分はまったく普通じゃなかったと思うことのひとつは、つべこべ言いながらも怪獣番組やロボット・アニメはとにかくたくさん見ていた割に、そういう番組のスポンサーであるところの玩具メーカの製品、つまりその番組のキャラクター商品のたぐいはほとんど何ひとつ買ったことがなかった、ということである。

かくべつ裕福な家に育ったわけでもないが、玩具のひとつも買ってもらえないほど貧乏だったわけでもない。たぶん親にせがめば、それなりに買ってもらえたはずである。けれどもそうしたことがなかった。正直言って別に欲しくなかったのだ。

CMは見ていた。たぶんわたしは一番最初の「超合金」ロボの玩具のCMを、マジンガーZのCMで見ている。他に見るものがない時間帯なら教育テレビも辞さないコドモにとっては、CMだって当然れっきとしたテレビ番組のうちだった。認知度100%である。にもかかわらず、わたしは決してそれらの商品を買わなかった。欲しいと思ったことさえなかった。当時はそんなこと考えてもみなかったことだが、そもそも怪獣番組とかロボット・アニメというのは、スポンサーがその玩具を買わせたくて作っている番組なわけだ。番組だけ見て(しかも大いに楽しんで)そのくせ玩具は一切買わないし欲しくもないというのだから、そりゃもう玩具メーカにとっては悪夢のようなガキだったというわけである。

当時も今も、同世代の間でそういう話になると、わたしはこの件で全員から不思議がられる。人によってたくさん持ってた人も、そうでなかった人もいるのだが、そもそも欲しくなかったから買うこともなかった、などというのはわたしくらいのものなのだ。

「またなんで?」
「だってさ、玩具のマジンガーZが目から光子力ビームを出すわけじゃないだろ」
「そういう問題かよ」
「光子力ビームを出さないマジンガーZなんて偽物だ。偽物は欲しくない」
「本物ってアニメじゃないか」
「そうだ。それが現実であることと本物であることは別だということだ」
「昔っからそういう哲学みたいなこと言ってたのか。嫌なガキだな」
「我が事ながらまったくだ。コドモは嫌だな」

…なんでこんな年寄りじみた昔話を書いてみたくなったかというと、しばらく前からこのblogには広告を表示させているわけなのだが、調べてみると見事にただの1回もクリックされていない(笑)。これも超合金ロボのたぐいだと思って、クリックくらいしてやってもらいたいものである。

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「ユーザ志向」の本義(2)──to err is human──

2009年03月26日 | 素人哲学の方法
間がずいぶん開いてしまったので、前回書いたことを自分でも忘れてしまった(笑)。もちろん、当のページを開けばそこに書いてあるわけだが、前回の終わりからちゃんと続くように書く気がしない。要は書き始めた時点で思い描いていた話の流れを完全に忘れてしまっているのである。

たぶんblogの上で続きものを、しかも複数のそれを同時並行的に書くのは、最初にきっちり構成を立ててどっかにメモっておかないと無理なのだろう。しかし小学校の作文から「構成力のなさだけは天才的」と言われたわたしにそんなお上手なことができるはずもない。内容が存在しないうちからどうして構成が存在しえようか、という形而上学的な問題(笑)もさることながら、最初にきっちり構成を立てたら立てたで、必ずそれを無視して書いてしまう。

というわけでまあ、通し番号はつけているが必ずしも前回の続きではない。また、書いてるうちに以前書いたものと同じような話が混じってくるかもしれないが、それも気にしないことにする。



ともかく今回はこれで書いてみよう、ということで副題をつけた。ユーザ志向ということをひとことで言えとなったら、わたしならこの「to err is human」を掲げるということだ。そういう意味では、これがこのシリーズの結論なのである(笑)。

オチを最初に書いてしまっていいのか。いいのだ。なぜならこの言葉自体は、知っている人は結構たくさんいるはずだが、現実にこの言葉がちゃんと生かされている場面に出会ったためしがないし、おそらく出会うことは決してないように思えるからである。この言葉は直訳すれば「誤ることが人間だ」、つまり人間はミスをするものだということだが、現実に世の中で起きることというのはミスした人間の責任を問い詰めること、つまり「吊るし上げ」の犬畜生扱いばかりである。そのような光景のどこにも人間は存在していない。問い詰める側にも、詰め寄られる側にも。

本当にこの言葉が想起されなければならない場面というのは、たとえば医療過誤のような事故が起きたときである。それがたとえば点滴の袋に間違って消毒液の袋か何かを接続してしまったというようなことであったとすれば、そもそもなんで消毒液の袋が点滴に接続できるような作りになっているのだ、というような形で想起されなければならないのである。消毒液を点滴に接続できるのなら、医師や看護師がくたびれている時は必ず間違って接続されるに決まっている。医師や看護師がくたびれることもできる存在なら、肝心な時は必ずくたびれているに決まっている。「誤ることが人間だ」というのを具体的に言い直せば、たとえば「人間は消毒液の袋を点滴に接続する存在だ」ということになるわけなのだ。

そんなことはあってはならない、というのなら、やるべきことはミスした医師や看護師を吊るし上げることではない。物理的に、消毒液の袋を点滴に接続できないような形に設計しておくことなのである。そしてそれを最初からそうあるべく意図的に設計することができるとしたら、そのような意図を導く考え方が「ユーザ志向」ということなのだ。「ユーザ志向」の考えでは、ユーザはいかなる意味においても神様などではない。次の瞬間にはどんな恐ろしいミスでも軽々としでかす、むしろ悪魔のような存在なのである。

何度も言うが、現実に起きることは吊るし上げだけだ。けれどもエンジニアはそのような血塗れの現実からいっとき、ほんの3ミリほど地面から浮き上がって「そうでない設計」を考えることができる。逆に言えば、大なり小なりそのような考えを意志的に行えるということが(設計に携わる)エンジニアであることの証明なのである。そして、この証明は現実の言葉で書くことができない。

※[後註]実は今日(Mar.26)の早朝にこの(2)は一度公開した。けれども出勤前に読み直してみたら、内容があんまりヒドイ。哲学もへちまもない憶断ばかりだ。そこでいったん封止した。上はその原稿のヒドイ部分を削除した上で、なんとか通る文章に直してみたものだ。これはこれで内容に乏しいのは承知している。封止したまま放っておくのはよくないと思えたので、とりあえずこれだけ公開し直す。後日改めて加筆する。

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