確か前回は「ユーザ志向」という場合のユーザとは、神様よりはよほど悪夢に近い何かだ、というような話だった。
計算機屋の言葉遣いでその悪夢のグワイを表現すると、ユーザというのは「A, B, Cの3択があったら自信を持ってDを選択するような何者かだ」ということになる。どちらかと言えば、計算機屋というのはその「A, B, Cの3択」の方で日々シノギを削っているわけで(職業でなくてもそうなので、職業ならなおさらだ)、そんなことが頭からどうでもよくなるようなDを選択されたら立つ瀬がない。まさに悪夢である。
わたしが2度目に大学に通いだしたころのある日、用あって図書館で文献を検索していたら、その端末機に使われていた可哀そうなPC(ただの端末として大型機の下働きをさせられているPCが可哀そうでなくて何だろうか)の、そのキーボードのESCキーには「このキーを押さないでください」などと貼り紙がしてあった。
ふむ、ここで押さないようではパソコン屋を自称する資格がないな、などと思って押してみたら、ぱっと検索用プログラムが終了してOS(Windows3.1だった)の画面に戻ってしまった。画面上には検索用プログラムを再起動するアイコンとおぼしきものも表示されていたが、せっかくだから(というか、こっちの方こそクリックすると何が起きるかわからないので)そのままの状態に放置して立ち去ったものであった。
帰り道の道すがらいろんなことを考えた。まあこんなものだ。何をつべこべ言いつくろってみせようと、大型機ベースの発想というのはユーザを機械としか思ってないことの、これがその証明みたいなものだというべきだ。「押すな」と書いてあれば押す、絶対押すなと書いてあれば絶対に押すのがユーザなのだ。あの出来損ないの図書検索システムは、そういうことも何も知らないし判ってもいないやつが設計したシステムだったのだろう。おそらくはそのアホなシステムの、デス・スターの排熱孔のごとき弱点を取り繕おうとして図書館事務の人が件の紙を貼ったのだろう、だが、それがまさしく無知の上塗りでヤブヘビだったというわけである。
A, B, Cの3択を提示されたら自信を持ってDを押す、そんな奴はめったにいないと言われれば、それは確かにめったにいない。だが、ユーザは数が多いのである。またそれ以上に「手数」も多い。かくべつの悪意や悪戯心がなくても、ただ操作に戸惑っているうちに怪しいキーを、ついつい押してしまうということだってある、というか、パニックをきたしたユーザは必ず「自爆ボタン」を押すのである。
これは人間心理の中で一番不思議なことのひとつだと思うのだが、それだけは押してくれるなというボタンを真っ先に押してしまうのだ。計算機屋を長くやっていると、目の前でその「自爆ボタン」に手をかけようとするユーザを見かけては、血相変えてその、今まさにenterキー目がけて振り下ろされんとした手を払う、掴み上げる、甚だしい場合はタックルして突き飛ばしさえする、といったことを何度も経験するものである。
それは、単に手が滑ったというような話ではない。いったいどんなヘボなシステムだって、ただ「手が滑った」というだけでディスクのファイルを全消去してしまうような「大事故」は起きないようになっている。しかるべきコマンド行の内容を、わざわざ打たなければ、そんな大事故がそうそう起きたりはしないのである。ところが、まるで死神に導かれたかのように、最後の一文字まで正確にそれを打ち込んでしまうユーザがいる。
なんと言っても決定的なことに、そんな信じられないヘマを、ほかならぬ(計算機の専門家である)自分がやってしまうことさえある。単なる操作手順の誤解でもなければ、言葉にしにくい悪意のたぐいでもないことは、自分でやってしまったことのある計算機屋ならわかる話だと思う。フロイトのいう「死(へ)の衝動」とはこれのことかと思わずにいられないことである。
事実それに近い形でオペレータが悪夢の操作を繰り返した結果起きたのが、30年前のスリーマイル島原子力発電所の事故であったと言われている(言われているだけではない、事実なのだが、改めて詳細を調べて書くのが面倒くさいからそう言うにとどめておく)。
さて、数年後には件のポンコツ図書検索システムもWebベースのシステムにリプレースされた。わたしは大学院生になっていた(笑)。改めてその新品ピカピカのPCを操作してみると、なんたることか、今度はどこをいじってもブラウザ上に実装された検索機能以外のものは、ユーザは決して実行できないようにシステムが作られていたのであった。せっかくのPCなのに電卓もメモ帳も使えない。それどころかブラウザの印刷設定さえ変更できないようになっていた。
羹に懲りて膾を吹くとはこのことではないか、どこまで愚かなものを作れば気が済むのだと思わず天を仰いだ──傍目にはそれは、所望の文献を見つけられなくて立ち往生してしまったバカ学生の姿に見えただろうが──。なるほど今度の開発者は、ユーザが悪夢だということだけは知っている。たぶん、どこかのつまんない本にそういう意味のことが書いてあったのだと思う。そのつまんない本の薦めるところにしたがって彼は、悪夢に介入されかねない隙間をひとつひとつ丁寧に調べ上げ、ついに全部埋めてしまったのである。
いまどき企業や官公庁やその他で「情報セキュリティへの取り組み」などと称されているのも、だいたいはこの調子のものだ。ユーザが機械でないのなら、機械的ならざる操作(つまりこの一文で言ってるところの「D」のことだ)は頭から悉く拒絶してしまえ、というわけである。もっとひどい場合は──つまり、最近の趨勢はということだが──ユーザに向かってただの機械たることを積極的に推奨してくるシステムすら珍しくはなくなった。いわく、機械的ならざる情報機器の操作は「すべからく犯罪だ」という脅しによってである。どこまでも機械扱いである。
機械たることを強要されているのはユーザばかりではない。そういうシステムを作っているエンジニアもそうで、こちらは何かあれば「責任を問われる(=吊るし上げを食わしてやる)」という脅しがかけられているわけである。
それがいいことだと思って従っているエンジニアは少ないと信じたいところだ。またそうしたことを末端のエンジニアにまで強要している企業の方も「法令遵守」の名において脅されているところがあるのは確かだと思う。わたしは経営者ではないから詳しいことは知らない。だが、何かあれば大企業といえども上場廃止だの、下手すれば経営破綻にまで追い込まれることさえあると、明に暗に脅されていれば従わないわけにはいかないだろう。
わたしの素人哲学は、だから、こうした公然たる反文明の脅しが横行するような風潮の中でも「ユーザ志向」を主張し続ける、いや主張はしないとしても──公然たる脅しに対して堂々たる主張で抵抗することは一般に無意味かつ危険である、というのも、そのような公然たる脅しを脅しとして効力あらしめているのは、たいていの場合、その社会の構成それ自体だからである──考え続けることができるものがあるとすれば哲学、それも素人哲学だけではないかと思うところから始まっているのである。
最初のバージョンは今日(Mar.31)の早朝に思いつくまま書き飛ばしたものだったので、どうにも出来がひどかった。それで少しいじってみたが、我ながら一向にうまく書けていない。どうも哲学的絶不調のようである。
計算機屋の言葉遣いでその悪夢のグワイを表現すると、ユーザというのは「A, B, Cの3択があったら自信を持ってDを選択するような何者かだ」ということになる。どちらかと言えば、計算機屋というのはその「A, B, Cの3択」の方で日々シノギを削っているわけで(職業でなくてもそうなので、職業ならなおさらだ)、そんなことが頭からどうでもよくなるようなDを選択されたら立つ瀬がない。まさに悪夢である。
わたしが2度目に大学に通いだしたころのある日、用あって図書館で文献を検索していたら、その端末機に使われていた可哀そうなPC(ただの端末として大型機の下働きをさせられているPCが可哀そうでなくて何だろうか)の、そのキーボードのESCキーには「このキーを押さないでください」などと貼り紙がしてあった。
ふむ、ここで押さないようではパソコン屋を自称する資格がないな、などと思って押してみたら、ぱっと検索用プログラムが終了してOS(Windows3.1だった)の画面に戻ってしまった。画面上には検索用プログラムを再起動するアイコンとおぼしきものも表示されていたが、せっかくだから(というか、こっちの方こそクリックすると何が起きるかわからないので)そのままの状態に放置して立ち去ったものであった。
帰り道の道すがらいろんなことを考えた。まあこんなものだ。何をつべこべ言いつくろってみせようと、大型機ベースの発想というのはユーザを機械としか思ってないことの、これがその証明みたいなものだというべきだ。「押すな」と書いてあれば押す、絶対押すなと書いてあれば絶対に押すのがユーザなのだ。あの出来損ないの図書検索システムは、そういうことも何も知らないし判ってもいないやつが設計したシステムだったのだろう。おそらくはそのアホなシステムの、デス・スターの排熱孔のごとき弱点を取り繕おうとして図書館事務の人が件の紙を貼ったのだろう、だが、それがまさしく無知の上塗りでヤブヘビだったというわけである。
A, B, Cの3択を提示されたら自信を持ってDを押す、そんな奴はめったにいないと言われれば、それは確かにめったにいない。だが、ユーザは数が多いのである。またそれ以上に「手数」も多い。かくべつの悪意や悪戯心がなくても、ただ操作に戸惑っているうちに怪しいキーを、ついつい押してしまうということだってある、というか、パニックをきたしたユーザは必ず「自爆ボタン」を押すのである。
これは人間心理の中で一番不思議なことのひとつだと思うのだが、それだけは押してくれるなというボタンを真っ先に押してしまうのだ。計算機屋を長くやっていると、目の前でその「自爆ボタン」に手をかけようとするユーザを見かけては、血相変えてその、今まさにenterキー目がけて振り下ろされんとした手を払う、掴み上げる、甚だしい場合はタックルして突き飛ばしさえする、といったことを何度も経験するものである。
それは、単に手が滑ったというような話ではない。いったいどんなヘボなシステムだって、ただ「手が滑った」というだけでディスクのファイルを全消去してしまうような「大事故」は起きないようになっている。しかるべきコマンド行の内容を、わざわざ打たなければ、そんな大事故がそうそう起きたりはしないのである。ところが、まるで死神に導かれたかのように、最後の一文字まで正確にそれを打ち込んでしまうユーザがいる。
なんと言っても決定的なことに、そんな信じられないヘマを、ほかならぬ(計算機の専門家である)自分がやってしまうことさえある。単なる操作手順の誤解でもなければ、言葉にしにくい悪意のたぐいでもないことは、自分でやってしまったことのある計算機屋ならわかる話だと思う。フロイトのいう「死(へ)の衝動」とはこれのことかと思わずにいられないことである。
事実それに近い形でオペレータが悪夢の操作を繰り返した結果起きたのが、30年前のスリーマイル島原子力発電所の事故であったと言われている(言われているだけではない、事実なのだが、改めて詳細を調べて書くのが面倒くさいからそう言うにとどめておく)。
さて、数年後には件のポンコツ図書検索システムもWebベースのシステムにリプレースされた。わたしは大学院生になっていた(笑)。改めてその新品ピカピカのPCを操作してみると、なんたることか、今度はどこをいじってもブラウザ上に実装された検索機能以外のものは、ユーザは決して実行できないようにシステムが作られていたのであった。せっかくのPCなのに電卓もメモ帳も使えない。それどころかブラウザの印刷設定さえ変更できないようになっていた。
羹に懲りて膾を吹くとはこのことではないか、どこまで愚かなものを作れば気が済むのだと思わず天を仰いだ──傍目にはそれは、所望の文献を見つけられなくて立ち往生してしまったバカ学生の姿に見えただろうが──。なるほど今度の開発者は、ユーザが悪夢だということだけは知っている。たぶん、どこかのつまんない本にそういう意味のことが書いてあったのだと思う。そのつまんない本の薦めるところにしたがって彼は、悪夢に介入されかねない隙間をひとつひとつ丁寧に調べ上げ、ついに全部埋めてしまったのである。
いまどき企業や官公庁やその他で「情報セキュリティへの取り組み」などと称されているのも、だいたいはこの調子のものだ。ユーザが機械でないのなら、機械的ならざる操作(つまりこの一文で言ってるところの「D」のことだ)は頭から悉く拒絶してしまえ、というわけである。もっとひどい場合は──つまり、最近の趨勢はということだが──ユーザに向かってただの機械たることを積極的に推奨してくるシステムすら珍しくはなくなった。いわく、機械的ならざる情報機器の操作は「すべからく犯罪だ」という脅しによってである。どこまでも機械扱いである。
機械たることを強要されているのはユーザばかりではない。そういうシステムを作っているエンジニアもそうで、こちらは何かあれば「責任を問われる(=吊るし上げを食わしてやる)」という脅しがかけられているわけである。
それがいいことだと思って従っているエンジニアは少ないと信じたいところだ。またそうしたことを末端のエンジニアにまで強要している企業の方も「法令遵守」の名において脅されているところがあるのは確かだと思う。わたしは経営者ではないから詳しいことは知らない。だが、何かあれば大企業といえども上場廃止だの、下手すれば経営破綻にまで追い込まれることさえあると、明に暗に脅されていれば従わないわけにはいかないだろう。
わたしの素人哲学は、だから、こうした公然たる反文明の脅しが横行するような風潮の中でも「ユーザ志向」を主張し続ける、いや主張はしないとしても──公然たる脅しに対して堂々たる主張で抵抗することは一般に無意味かつ危険である、というのも、そのような公然たる脅しを脅しとして効力あらしめているのは、たいていの場合、その社会の構成それ自体だからである──考え続けることができるものがあるとすれば哲学、それも素人哲学だけではないかと思うところから始まっているのである。
最初のバージョンは今日(Mar.31)の早朝に思いつくまま書き飛ばしたものだったので、どうにも出来がひどかった。それで少しいじってみたが、我ながら一向にうまく書けていない。どうも哲学的絶不調のようである。