惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

おすすめ倫理学

2009年03月14日 | 読書メモ
支配と服従の倫理学
羽入 辰郎
ミネルヴァ書房
Amazon / 7&Yicon

この本を倫理学の書だと言っていいのかどうかはよくわからない。しかしこのblogで考察している(と言いながら、実質ほとんど進んでいないのだが)「げんなりしない倫理学」について言えば、とても興味深い話がたくさん書かれている。

正直に言うと、わたしはこの本で用いられているような著者の文章の調子が、あんまり好きではない。なんというか私的な情念がモロ出しに出まくっているところがあって、それはいいのだが、その情念の質がどうやらわたしの好みに合わないのだ。にもかかわらずこの本を「おすすめ」する理由はただひとつ、わたしが日本人の書いた本を品定めするとき使っているいくつかのテスト項目のうち、最も難しいひとつをクリアしている、かつてわたしが読んできた中ではまったく最初の本だということに尽きている。その部分だけを引用しよう。

こんなことを言うと驚かれるかもしれないが、東大に入ってくる人間というのはそんなに頭は良くないのである。私も入る時は、東京大学には頭の良い人達が沢山いるのだろう、と思っていたので、その気持ちはよく分かる。ところが入ってみて驚いたのである。周囲を見回し、何だこれは、馬鹿ばっかりじゃないか! と気がついて愕然としたのである。君ら(引用者註:成城大生もしくは青森県立保健大生)の方が頭は良い。これはお世辞ではない。君らに欠けていたのは、我こそは東大に入るべき人間だ、という思い込みの強さと、最後の最後での糞頑張りである。この最後の最後での糞頑張りというのは、東大生特有のもので、これは凄い。最後の最後まで悪あがきをし、驚くべきことに、手に入れたかったものを最後にはつかんでしまうのである。

(第七章「悪意ある権力者の支配」pp214より引用。強調は引用者)

ちなみにわたし自身は東大には縁のない人で、だから言えば、上記の強調部分、「最後の最後での糞頑張り」の原理は決して「東大生特有」のものではない。東大と同じくらい偏差値が高い大学ならだいたいどこでもこんなものだというのは、そういう大学のひとつに通っていたわたし自身の経験に照らして請け合える話である。むろん著者のいう「馬鹿ばっかりじゃないか!」の、その馬鹿のひとりとしてだ。こういうことが判っていて、しかも著作の中で開陳できる人物なら、文章の上に現れた情念の質の違いなどはどうでもよいことだと言いたい。そのくらい、この指摘はまったく正確で、また希少だという意味で重要である。この引用部分のような指摘が「勇気ある」という形容をされないで済むことを、著者のために祈りたい。

つまりこの本は「げんなりするような話ばかり集めて、げんなりするような情念の質で貫かれた『げんなりしない倫理学』の珍しい本」だ、とわたしは言いたいわけだ。

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チラ裏数点

2009年03月14日 | miscellaneous
この数日、勤め先で寝泊まりしていたのでblogの更新どころではなかった。以下はこの間に書いたいくつかのチラ裏。あとで書き直すかもしれないし、しないかもしれない。

●一致性(coherency)ということ
制度一般は人間の集団における何らかの一致性の原因もしくは結果としてみることができる。制度によって一致性が生じたり維持されたりすることもあれば、先行して存在した(いわば自然にあった)一致性が次第に成文法のように外化された制度の形をとることもある。

一致性が威力を持つということはたやすく理解できる。気体の分子は通常はバラバラな方向に運動しているが、何らかの理由で突然、すべての分子の速度ベクトルが(大きさも方向も完全に)一致したとする。それが常温の空気だったとすれば凄まじい爆風と表現すべきものになる。

一致性は秩序の同義語と言ってもいいだろう。しかし問題は、秩序のもたらす達成がすべてこのような一致性によるポテンシャル・エネルギの解放なのか、ということである。つまりこの、きわめて粗っぽい一致性の描像による限りでは、それが何の一致性であるか、どんな手段でそれがもたらされたのかということは、必ずしも問題にならないのである。

わざと怖い喩え話をすれば、民主主義も全体主義も、成員の間に一致性をもたらす政治・社会制度としてみれば同じようなもので、達成できることに大差がないなら、ほんとのところ全体主義の何がいけないのだという話にもなりかねない、ということである。

幸い、現実の歴史においては民主主義が全体主義に対して次第に優り、最後は後者を退けた。これ自体は事実と言ってよい(と、こう書いていていささか面映ゆい、民主主義の側の身贔屓な歴史観のようにも思える、しかしそれでも我々にとってかけがえのない重みを含んだ事実であることは、確かである)。しかしそれは必然であったのか、それとも、たまたまそうなっただけの偶然なのか、この一致性の描像だけでは判定不能で、不十分なのである。全体主義が敗北したのは、要するに指導者譲りの粗暴で偏執狂的な性格をその体制が払拭できなかったからで、単にあちこち改良するだけで彼我の優劣は容易に逆転しうるのだ、などというようなことを考える(粗暴で偏執狂的な)人物がいたとして、たとえばそれを一蹴できるような真に科学的な根拠を、我々は手にしていないと言いたいのだ。

少なくとも、過去における全体主義体制のひとつは、未成熟で貧弱な民主主義体制を食い物にしながら出現してきたことを忘れてはならない。そもそも、今日わが国の民主主義が未成熟でも貧弱でもないなどと、いったい誰が真顔で言うのだろうか。

●臨床的な工学ということ
これまで現実的(real)とか実際的(pragmatic)とか、あるいは実践的(practical)という言葉で表現してきた(…といってもこのblogでは書いてないが)ことは、臨床的(clinical)という方が適切かもしれない。もっともこの「臨床的」なる語は、生理学的医学以外ではあんまりよく思われていない語のような気がするが。

工学が理論科学と最も異なるところは臨床的な面を持つところである。たとえばデータ圧縮技術の研究開発は、そうと意識されていようといまいと「現実のデータ」の臨床的なモデル化ということ抜きではありえない。厳密にモデル独立な任意データを圧縮できる符号化算法は存在しないからだ。ところが我々のPCには普通に圧縮技術が使われているし、程度の評価はまちまちであるにせよ有効に機能している。理論科学はこうした種類の現実に対して何も言うことができない。するとこの現実は非科学的なオバケだと言うべきなのか。誰がそんなことを言うのだろうか。

●政治はどうでもいい?
ある本を読んでいて、政治学というのは脳科学と同じかそれ以上に無理のある研究分野だと改めて思った。この種の研究は現役の官僚や政治家への取材なしには成り立たないわけだが、取材に応じてもらう以上は彼らが本気で不愉快になるようなことは、論文も著書にも書けないわけである。そしてそうした要素を丁寧に省いてしまうと、これはいったいどこの銀河系の話だろうと思ってしまうような、書かれていることの額面通りには到底受け取れない話ばかりになってしまう。

ちょうど脳科学が、脳に電極を挿入してごく局部的な電位を知ることができるほかは、精度に理論限界のある──要するに「どうやっても不鮮明な」──fMRI画像の判じ物に類したことを次々繰り出してみせるしかないのとよく似ている。脳科学を客観科学として本気で追及しようとすれば、それだけで個体は死んでしまう。あるいは本気で追及できるのは死体の脳科学だけだということもできる。政治学もまた本気で客観的な真実を追求しようとすれば、やはり現実の政治過程そのものが不可逆的に損なわれてしまうはずである。

こうしたことはもともと脳科学や政治学ばかりにあるわけではなくて、本来人文・社会科学一般の抱えるディレンマだと思う。現実の過程を知ろうとすると、そのような行為自体が現実の過程を不可逆的に損ねてしまうというディレンマである。それを損ねてしまうことのリスクはもちろん、そうまでした得たデータ自体が損なわれた後の結果にすぎないものでありえて、結局、それが真に現実の描写なのかどうかは誰にもわからない、ということになる。実質的に非破壊的な計測手段を構成しようとすれば、それはできないこともないが、現実のはるか手前でひどく不鮮明な像を結んでしまう。

●創発のオハナシ
一致性ということに関連して、たとえば非線形振動子には引き込み(entrainment)という現象のあることがよく知られている。複数の非線形振動子──振り子とか、心筋細胞とか、まあ現実的な振動子はたいてい非線形なのだ──を結合する(相互作用できるようにする)と、結合振動子系の全体が完全に同期する(周期と位相が揃う)ことがある、というものである。ミクロな振動子の結合系がマクロな集団現象を引き起こすわけで、これも自己組織化の一種である。さらに、構成要素でも外部でもない、集団に固有の振る舞いを(ということはその集団の存在それ自体を)自己創出したかのようにも見える、ということでこれを創発の一例とする考え方もある──

「考え方もある」どころではない。15年くらい前にはわたし自身がこの種の考え方に強く惹かれていた。今でもそうかもしれない。

ただ、当時も今も、少し冷静になって考え直してみれば明らかな(明らかだった)ことは、これは結局「かのようにも見える」「考え方もある」というオハナシ、つまり、創発それ自体ではなく、非線形振動子の引き込み現象という科学的な事実に基づいて、創発という主題を理工学的な言葉で書いた成功物語、メデタシメデタシというあれであって、たぶんそれ以上でも以下でもないということである。引き込み現象そのものは誰でも簡単に確かめられるような事実だが、それが「集団とその振る舞い」であるというのは、「かのようにも見える」こと、つまり観察者の主観がそう認識するかしないかということでしかないからである。

ナーンダ、それじゃ話としてはまったくのオバケじゃないか、ということにもなりかねないのだが、そこはちょっと違う、というのは、生物学一般において基礎的とされる概念のほとんどすべてについて、これとまったく同じことが言えてしまうからである。たとえば「個体」とは何だと言ったら、それは観察者の主観がそう認識するだけのものだ、というように。

生物学上の概念は物理のそれと違って客観的な測定はできないのだ。「個体性測定器」をあてると目の前の物体が生物個体であるかどうかがわかるとか、そんな装置は事実作りようがないのである。作れると主張するのは生気論(vitalism)を認めるのと同じか、それ以上のことで、まあ科学的な装置ではない。

だったら生物学は全部オバケということになるのだろうか?それはそれで、いささかならず奇妙な話ではないだろうか。何より「生命」という概念それ自体が「かのようにも見える」オバケにすぎないと言われたら、ちょっと待て、と読者にしても言いたくなるのではないだろうか。

この種の問題をテストしてみるための、素朴だが有効な方法のひとつは、レーニン方式の唯物論テスト(笑)にかけてみることだと思う。つまり「それは人類以前から存在したと言えるか?」と考えてみることである。このテストは人間(の意識)それ自体には適用できないという難点があるが、それ以下のことなら結構役に立つ。生物学とか、その文脈を援用する複雑性の研究であるとかは、上述の事情で研究者自身がオバケの虜になってしまうことがよくある(と思う…)のだが、このテストはアタマの中から「悪しき観念論」を排除するには特に便利である。この点に限って言えば「さすがはレーニン」なのである(笑)。

要は(つべこべ言いながらよくこの名前が出てくるが)J.R.サールが自由意志についてそう表現したところを口真似して言えば、これらの概念には「どこか奇妙なところがあるのだ」。この奇妙さはもっとよく探究されなければならないのである。生物あるいは生命に固有とみなせる現象は明らかに人類以前から存在して、この地上の風景に見間違えようのない痕跡を刻み込んでいるし、刻み続けている、にもかかわらず、それらについて語る言葉がどうしてか「かのように見える」主観的なオハナシの言葉ばかりになってしまうのは、ひとつには、我々の使っている概念の系列が現象に対して能く分析的であるようにはできていないからである。

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