惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

戯訳 歎異抄(見本)

2010年10月25日 | チラシの裏
●第九条 原文
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。

●現代語戯訳
わたし(唯円)は念仏を称えても嬉しくならないし、早く浄土に行きたいという感じにもならない。どうなんでしょう、と訊ねてみたところ、「なんだお前もか」と親鸞様は仰ったのです。

「俺も最初はそう思っていたんだ。そしてよくよく考えた。その結論から言うとだな、念仏なんか称えたって嬉しくもなんともない。だからこそ往生は間違いないのだ。

それは、こういうわけだ。嬉しいはずのことを嬉しがれないなんて、まさに煩悩じゃないか。仏様はそういうことをよく判った上で『この煩悩まみれのボンクラども』と仰った。それはまったく、その慈悲にすがるしかない俺達のことを言ってるんだ。何もかもお見通しなんだな。だから普段から『この世をオサラバして浄土に』なんて考えもしない、それどころかちょっと体の具合が悪くなると『オレ死ぬのかな』なんて心細くなったりするじゃねえか、ああいうのも煩悩なんだ。この世はひどい場所だと言ったって、何億兆年も前から生まれ変わりを繰り返してきた、いわば俺達の故郷だよ。故郷ってものにはよくよく未練があって名残惜しくて、だからよその浄土のことなんか思いも寄らない。

ただどんな未練があったってどうせ死んじまうわけで、そしたら浄土に行けばいいじゃないか。『浄土がなんだ、それどころじゃねえよ』くらいに思ってるやつをだ、アミダ様は憐れんで『まったく性懲りもない奴』だということで救ってくださるんだよ。ありがてえ、頼もしいお方だ、だから俺達ゃ往生間違いなしと、そう考えときゃいいんだ。それが念仏を称えても『ああ嬉しい嬉しい、早く早く浄土へ』なんてイッちゃうような人じゃあさ、かえって『こいつは煩悩がないのか?じゃいいか』なんてアミダ様に思われちゃうかもしれないぜ。」

・・・とかなんとか仰っておられましたよ。
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