惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

いったい何を

2010年10月25日 | miscellaneous
お前はお前でアタマがどうかしたのか、と思われたかもしれない。どうせいいめりデンパめり、のことではあるが、ふたつ下でオートポイエシスの思い出話を書いて、末尾で「ベンキョーは信心やお布施じゃねえんだよ」と吐き捨てたら、不意に「歎異抄」の一章が思い出されたということだ。土曜日に裸族アメリカの宗教社会学を読んだことも、多少は影響したのかもしれない。

何にせよ、何百年も前の愚禿(うすらハゲ)親鸞でもこう言ってのけるだけの知恵があったというのに、おまいら(大学教師)ときたら、やれ大学生の学力低下だ何だと人のせいにばっかしてやがって、というウンザリした気持ちが、前々からわたしにはあったりするわけだ。

最初は適当に引用して末尾のところにくっつけようかと思ったのだが、今日はまたわたし自身も熱を出して寝込んでしまっているわけだ。なんかいよいよお陀仏かなあ、という感じも募ってくることで、マジで憂鬱なのである。それで、憂さ晴らしに下のような現代語訳を、戯れに作ってみた。こういうバカみたいなものを熱にうなされながら書くことが憂さ晴らしになるのかと言われても、なるんだから仕方がない。

「見本」といいながら作ったのは今のところ下の第九条だけだが、ウケがよかったらほかのも作ってみるかもしれない。もっともこのblogはいかなるコメントも拒否しているので、閲覧者にウケたかどうかなんて判りもしないのだが。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 戯訳 歎異抄(見本) | TOP | 超戯訳 歎異抄(見本) »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | miscellaneous