惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

人が何かに注目すること

2014年04月30日 | チラシの裏
カリスマとは、他人から注目されるような人物の個性(特徴)、またそのような個性(特徴)をもつ人物のことである。※

そんな定義は聞いたことがない、と思う人がいたら、それは当然である。上はいまわたしが新たに作ったのである(笑)。他に定義があるのを知らないで作っているわけでもない、Wikipediaの解説などは真っ先に参照している(「カリスマ」)。

人が何かに注目する(注目させられる)とき、その理由が「特定の人物に結びついている」ということがカリスマの本質である。たとえば、何か珍しい(人の注目を集めそうな)品物を持ち歩いている人は、そのことだけでカリスマ視はされないが、その人が「いつ見ても珍しい品物を持ち歩いている人だ」という評判が立つようになれば、それは(ごく弱いものであっても)カリスマであるということになろう。前者で注目されているのは専らその品物の珍しさであるのに対し、後者は人物とその個性(特徴)が注目されているわけである。

それにしても、人が何かに注目する(注目させられる)というのは、それによって何をしていることになるのであろうか。

機械は注目しない。この場合「注目する」とは「主体(subject)が注目する」、つまり主体あっての行為であって、機械には主体はもちろん自我もないからである。機械が注目するように見えるとしたら、それはそのようにプログラムされているからであるし、そのプログラムを書くのは人間である。つまり機械の注目(のように見えるもの)はあくまで人間がする注目の道具として、つまり人間の目のかわりになっているだけである。たとえば戦場の無人兵器が敵兵に注目する(ように見える)とき、それは遠方から無人兵器を操縦している人間の、電子回路と無線通信網あるいは軍組織の作戦計画や指令統制体系によって再構成された目になっているわけである。こうした意味で、注目するという行為は人間に固有のものである。当人の意識、あるいは無意識を含めた当人の心の何かにかかわることで、それ以外のことではない。

人が何かに注目するとき、注目する対象はそこではじめて視野にうつる光景の全体から抜き出た対象になる。つまり注目は「それを対象とする(make it the object)」ような宣言的(declarative)行為である。

たとえば「間違い探し」の絵を眺めているとき、間違いが見つかる前と後ではその絵の見え方が変化している。見つかった後では間違いの個所が対象として見えている。興味深いことに、この見え方の変化は多くの場合不可逆的であって、一度間違いの個所に気づいてしまうと、気づく以前と同じようにその絵を眺めようとしてもできなくなっているものである(笑)。対象を対象として創出したのはそれを見ている主体であるのに、創出した後では主体は対象から拘束されている。あるいは、ことはまったく同時的であって、対象を対象として創出することは同時にその対象から拘束されることであると言うべきかもしれない。

この短い文章をカリスマの定義から始めたのは、これを言いたいためであった。マックス・ウェーバーの有名な議論のとおり、カリスマの持ち主は人や集団を支配する存在になりうるが、その究極的な根拠はこの「人が何かに注目すること」の本性にあるのではないかということである。ウェーバー自身の議論においてはカリスマ性を「預言者、呪術師、英雄などの個人に宿る非日常的な資質」(上掲のWikipedia項目より)としているわけであるが、別にそんな大それた資質でなくてもカリスマとカリスマ的支配は生じうるのではないだろうか、ということである。

人が何かに注目するということの意味はこれに尽きるわけではないが、実は、たったこれだけ書くのにまる一日費やしてしまった(笑)。続きがあればいずれまた書いてみることにする。
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