惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「deontic power」の訳語をめぐって

2010年02月07日 | 私訳メモ
MSWを訳し始める前から、それどころかサールの前著「Freedom and Neurobiology」(Columbia Univ Press, 2008)を読んでいた時からこの「deontic power」をどう訳すべきかをずっと悩んでいて、一向に解決の目途が立っていないのである。

「訳語メモ」では冗談みたいなことばかり書いているが、真面目な話、漢籍や仏典(の漢語訳)について深い教養の持ち主ならわたしの懸案を解いてくれるのではないかと思っていたりする。つまりわたしには四書五経の知識がないし、また、いつも手元に「国訳大蔵経」のたぐいが置いてあったりもしないわけである。だが、たぶん日本のどこかには、そういう人がまだいるはずなのである。

そう言えば昔、大学で生化学入門の輪読会に参加していたとき、雑談の折に教授が知人の生物学者から「新種を発見したんだが、ラテン語の判る人はいないか」と尋ねられて困った、という話をしていたことがあった。なるほど学名はラテン語でつけるのだが、いまどき生物屋でラテン語の素養のある人なんかまずいないのである。いるとすれば哲学か、神学を含む西欧古典の研究者くらいである。R・ドーキンスは「いまどき大学に神学部なんていらないだろ」などと悪態をついているが、神学部がなくなるとラテン語に堪能な人がいよいよ減って、生物学は困るに違いない。

書いてるうちにまた冗談になってしまったが、しかしちょっと驚くべきことだと、閲覧者諸兄は思わないだろうか。少なくとも現代日本語には権利と義務の双方を包摂するような概念と語がないようなのである。英語にしたってdeontologyなどという単語は、わたしもサールの本を読むまでは知らなかったし、そもそもギリシャ語の「義務」が語源らしいから、日常語として権利と義務の双方を包摂するような概念と語は、やはりないのではないだろうか。「権利」や「義務」という語を知らない人は日本にも欧米にもいないだろうということを考えると、これ自体がとても面白いことだとわたしには感じられる。正数と負数という概念があるのに、両者を包摂する整数という概念がないというようなものなのだ。

わたしは数学史のことを考えている。負数の概念が知られるようになってから整数の概念が知られるようになるまでは、これもきっと一瞬の出来事ではなく、相応の時間差があったのではないだろうか。

もうひとつ、こちらはたぶん意地悪なことを言ってみる。世の中には「近頃のワカモノは権利ばかり主張して義務を(略)」という老人がたくさんいるけれど、そのように権利と義務をワンセットで考えろと彼らは言う割に、どうして彼らはただの一度も両者を包摂するような概念と語を創出することがなかったのであろうか。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前の記事へ | TOP | どんどん頭が悪くなる・・・ »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 私訳メモ